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「君の愛は価値ゼロだ」と捨てられた公爵令嬢、即座に感情をロスカット(損切り)する。~世界には二種類の人間しかいないわ。私か、私以外の「背景」か。背景に成り下がった皆様、地べたで一生後悔してなさい~

作者: 九条 綾乃
掲載日:2026/02/23

 夜会の灯りは、ひどく甘く、そして残酷だ。天井から降り注ぐ巨大なシャンデリアの光は、貴婦人たちの纏う宝石も、取り繕った笑顔も、吐き出される嘘さえも、すべて同じ華やかな艶に塗り替えてしまう。


 私はエルザ・フォン・クライス。歴史あるクライス公爵家の令嬢であり、王国でも希少な高位の「付与術師」だ。

 付与術師とは、自らの魔力を他者へと“つなぐ”存在である。魔力を貸し与え、相手の体内に巡らせ、眠っている才能を引き上げる。傷ついた魔力回路を精緻に繕い、足りない筋力や思考力を補い、本人の力が自立して伸びるまでの間、文字通り「見えない背骨」となって支え続ける過酷な仕事だ。


 ゆえに、この世界において付与魔法エンチャントとは、極めてシビアな『投資』であり、血を分けた『契約』である。


 術師は対象の将来性を見込んで、自身の魔力という「元本」を貸し付ける。例えば、うだつの上がらない下級騎士に「身体強化」の魔力を貸し付けたとしよう。騎士はその前借りした力で武功を立て、報酬を得る。術師は事前の契約に基づき、彼が得た討伐報酬や給金から、まずは一定の割合を「利払い」として継続的に徴収し続ける。そして真の狙いはその先にある。対象者が将軍や領主といった地位にまで成長し、確固たる基盤を築き上げた暁には、術師は貸し付けていた魔力を単に回収するのではない。その巨大化した魔力債権を、相手の指揮権や領地運営に対する「議決権」や「特権」へと転換させるのだ。いわば、対象の人生そのものを成長させ、その中枢に深く入り込む仕組みである。


 万が一、対象が契約を破れば、即座に魔力を損切り(ロスカット)し、担保として元の才能や生命力すらも根こそぎ剥ぎ取ることができる。明確な回収目標(出口戦略)を持たない付与など、ただの不良債権でしかない。


 だが、私は。この国の第一王子であるジュリアンに対して、あまりにも長く、その重労働を無償で捧げ続けてきた。


 最初は、純粋な初恋だった。王宮の裏庭、誰もいない剣の稽古場で、格上の騎士に何度も打ち負かされ、悔しさに唇を噛み殺す不器用な少年がいた。彼は泥だらけになった膝を隠すように無理に笑って、けれどその視線だけは決して折れることなく、何度でも木剣を拾って立ち上がろうとしていた。


「僕は、立派な王になりたいんだ。強くなりたい。……でも、本当はすごく怖いんだ」


 庭園の死角で、一人きりだと思って彼がこぼした弱音。私はその小さな背中に、そっと黙って手を当てた。そして、私自身の魔力の糸を一本、彼の背へと結びつけた。ほんの少しだけ。打撲の痛みを散らし、乱れた息を整える程度の、ささやかな付与魔法。


 彼は弾かれたように振り返り、目を丸くして驚いて、そして――パッと花が咲くように笑ったのだ。


「ありがとう、エルザ。不思議だ、君がそばにいてくれると、ちっとも怖くないよ」


 その無邪気な一言が、当時の私にとってはすべての報酬だった。彼に頼られることが私の誇りであり、未来の王を支えることが私の至上の喜びで、いつしかその献身は、彼への深く重い恋心へと変わっていった。


 それからだ。彼が壁にぶつかり、転ぶたびに、私は彼に繋ぐ見えない糸を増やし続けた。重い剣を振るうための筋力を底上げする付与。戦場でいち早く敵を見つけるために視野を広げる付与。複雑な政務をこなすために思考を澄ませる付与。王太子という立場で決して弱音を吐けない彼の代わりに、私が彼の足りない部分を、見返りも求めず、黙って埋め続けた。


 それは投資ではなかった。利払いも、議決権への転換も、すべての回収プロセスを最初から放棄した『無条件の愛』だった。愛とは無償で与えるものだと、私は疑いもしなかったのだ。確かに、彼と心を通わせた時期もあった。美しい、私のとっての大事な記憶。


 だからこそ今夜――きらびやかな舞踏会の中心で、彼が私ではない別の女の腰を抱き寄せた瞬間。私の胸の奥で、ひゅう、と冷たい風が吹き抜ける音がした。


「エルザ。今この場をもって、君との婚約を破棄する」


 第一王子ジュリアンは、腕の中にすっぽりと収まる男爵令嬢リリィを庇うように抱きしめたまま、冷ややかな見下すような目で私を見た。腕の中のリリィは、大勢の視線を浴びて涙目を浮かべ、小動物のように可憐に震えている。彼女はジュリアンに庇護される形のまま、怯えたように私を見上げてきた。まるで私が非道な加害者で、彼女が可哀想な被害者であるかのような、完璧な構図だった。


「君の愛は、重すぎるんだ。常に監視されているようで息が詰まる。その献身も恩着せがましいし、裏で何を求めているのか分からない計算高さが透けて見える。……正直に言おう。君のその愛は、僕にとって『資産価値ゼロ』だ」


 ――資産価値、ゼロ。


 その冷酷な響きが、私の鼓動を正確に一拍遅らせた。水を打ったように静まり返っていた広間に、周囲の貴族たちのざわめきが波になって寄せては返す。同情、好奇、嘲笑、そして次の悲劇への期待。退屈な夜会は常に新しい刺激に飢えた観客であふれており、誰かの人生が崩壊する見世物で彼らは満腹になるのだ。


 ここで私は、泣き崩れればいいのだろう。ドレスの裾を握りしめ、惨めに縋り付けばいいのだろう。「そんなつもりじゃありません」と必死に否定して、これまで捧げてきた愛を説明し、どうか捨てないでくれと許しを乞うのが、彼らの望む“正しい没落令嬢”の振る舞いに違いない。


――でも。ジュリアンが放った言葉は、単なる心変わりの別れ話では済まされなかった。彼は、私の人生をかけた愛そのものを、醜い計算だと泥で汚したのだ。


 私が彼を陰から支え続けるたび、彼はいつしか「自分は元から天才なのだ」「自分は最初から強いのだ」と致命的な勘違いを膨らませていった。私が自分の付与について黙っていたのは、ただただ彼の高いプライドを傷つけたくなかったからだ。それすら彼は、“公爵家としての計算”や“重い束縛”だと切り捨てた。


 胸の奥深くから、ドロリとした名づけ難い気持ちがせり上がってくる。それは涙ではない。激しい怒りでもない。十数年という長い歳月をかけて積み重ねてきた、「彼を信じたかった」という切実な願いが、音を立てて崩れ落ち、乾いた砂に変わっていく音だった。


 私は、ゆっくりと、深く息を整えた。付与術師にとって、感情の波は命取りだ。心が乱れて自身の回路が揺らぐと、魔力の流れを誤り、暴走を招く。判断を誤ってはいけない。こんな男のために、私自身の力を濁らせてはいけない。


「――承知いたしました」


 口から出た声は、驚くほど静かで、平坦だった。自分でも不思議なくらい、心が澄み切っている。


「では、今この瞬間をもって、あなたへのすべての付与を解約いたします。ロスカット(損切り)です」


「……は?何を言っている?」


 ジュリアンは、心底意味がわからないというように眉をひそめた。彼は、本当に、何一つ分かっていなかったのだ。今、自分が「何によって」その見事な背筋を伸ばし、力強く立っていられるのかを。

 私は自らの胸元に、すっと人差し指を当てた。付与術師である私にだけ見える無数の光の糸が、私の胸から彼の全身の回路へと複雑に伸び、絡みついている。それはとても温かかった。彼と共に過ごした長い時間をかけて染みついた、私の体温そのものだ。

 愛だと信じて疑わなかった糸。彼と共に国の未来を結び合わせるのだと信じていた糸。けれど、その美しい糸の正体は――彼を“優秀な次期国王らしく”見せかけるための、ただの生命維持装置(補助回路)でしかなかった。

 私は、その無数の糸の束ねられた結び目に、全意識を集中させる。最後の最後、迷いが針のようにチクリと胸を刺した。


――私は、確かに彼を愛していた。こんな仕打ちを受けても、かつての彼をすぐには嫌いになれない自分がいる。少年の頃の臆病な弱さも、一生懸命な誇り高さも、どうしようもない不器用さも、そして彼の手のぬくもりも、私はすべて間近にいて知っている。


 それでも。私が誰かを愛し続けるには、たった一つの、譲れない最低限の条件がある。それは、相手が私を一人の『人間』として尊重して見ていること。私が差し伸べた手を、ただの便利な踏み台や、自分を高く見せるための足場として消費しないことだ。


 彼は今夜、そのたった一つの条件を、自らの足で無惨に踏みにじった。

 ならば、契約は終了だ。私は、切る。容赦なく、すべてを。


 ぶつり。


 物理的な音はしなかった。けれど、広間を満たしていた空気が、一瞬にして重く沈み落ちた。


「え……?」


 ジュリアンの真っ直ぐだった背筋がぐらりと揺れ、床を掴んでいたはずの足元が泥に沈むようによろけた。血の気が引き、健康的な顔色が土気色に変わる。精悍だった目の焦点が外れ、虚ろに宙を泳ぐ。常に自信に満ちていた彼が、急に糸の切れた操り人形のように頼りなく、小さく見えた。


「きゃっ!?」


 異変に気づいたリリィが悲鳴を上げて彼の腕にしがみついたが、今のジュリアンには、小柄な彼女の体重を支え切る筋力すら残っていなかった。二人は無様に体勢を崩し、あわや床に倒れ込むところを、慌てた近衛騎士に支えられた。


「な……君は、俺に、何を……した……?」


 息も絶え絶えにジュリアンが呻く。それとは対照的に、私の身体の奥底へ、圧倒的な熱と温度が戻ってきた。


 長年彼に繋ぎ、外部へ流出し続けていた膨大な私の魔力が、切断された回路の先から一気に帰還する。冷え切っていた身体の中心へ荒れ狂うように戻り、再び自分の血のように隅々まで巡り直す万能感。


 私は、よろめく彼らを冷ややかに見下ろし、完璧なカーテシー(淑女の礼)をとった。


「さようなら、ジュリアン殿下。あなたのご健勝を、遠くからお祈り申し上げます」


 言い放った瞬間、胸がギシリときしんで痛んだ。痛い。自分の手足を切り落としたように、確かに痛い。私は彼を愛していた。ほんとうに、私のすべてを捧げて。

 だからこそ――これ以上醜くなる前に、私自身の手でここで終わらせた。愛を言い訳にして、自分自身の尊厳まで壊すつもりは、毛頭ない。

 私は身を翻し、誰一人言葉を発せない静寂の夜会を背に、重い扉へと迷いなく向かった。


「待て!エルザ!」


 大理石の廊下を歩く私の背中に、場違いな怒声が飛んできた。振り返らなくてもわかる。焦燥と、苛立ちと、自分に何が起きているのか理解できない未知への恐怖がぐちゃぐちゃに混ざった、ジュリアンの声だ。

 私はヒールの歩みを一切止めなかった。ここで立ち止まり、彼の顔を見てしまえば、自分の足首を自分の情に掴まれてしまう気がしたからだ。


「待てと言っている!強がるな!」


 強がりではない。私がこれから前を向いて生き残るための、最も合理的で冷徹な判断だ。


「お前は……お前は私がいなければ、ただの……何者でもない女だろうが!」


 その滑稽な一言で、私はピタリと足を止め、ようやく振り返った。彼の言い分を、最後まで聞く価値が残っているかを確かめるために。

 息を切らして追いついてきたジュリアンは、もはや堂々たる王子の顔をしていなかった。突然、自分が立っていた地面が抜け落ちてしまった男の顔だ。冷や汗を流し、呼吸を荒らげ、混乱に満ちた目だけが激しく泳いでいる。私を呼び止めたものの、次に何を言えばいいのかすら思考が追いついていない。


――ああ、完全に、魔力による思考補助が切れている。胸が、またチクリと痛む。――だからこそ、私の決断は決して鈍らせない。


「ジュリアン殿下。この世界には、二種類の人間しかいないのです」


 私は、道端の石ころを見るような淡々とした声で告げた。


「『私』か、私以外という名の『背景モブ』か。その二つだけです」


「……何だ、その傲慢な言い草は……!私は王家の血を引く第一王子だぞ!」


「傲慢ではありません。これは事実に基づく宣言です」


 私は彼から視線をスッと逸らした。物理的に彼を視界から外し、もう“見ない”ことにした。


「あなたは今夜、自らの意思でその『背景』に落ちたのです。私の価値を理解できず、私を不要だと切り捨てた瞬間に、あなた自身もまた、私にとって意味を持たない景色の一部に成り下がったのですよ。背景が私に話しかけないでくださる?」


 再び扉を開ける。これは王族への不敬になるのか。しかし、ジュリアンも私を公衆の面前で侮辱したのだ。背後でジュリアンが何かを叫ぼうとして息を呑む気配がしたが、もうどうでもよかった。私はもう、彼が統べるあの狭く窮屈な場所に属さないのだから。


 声を殺して泣いたのは、領地へ向かう馬車の中と、自室のベッドに倒れ込んだその夜だけだった。豪華な羽毛枕に顔を深く押しつけ、誰にも弱さを見せずに。とめどなく溢れる涙の理由は、彼に捨てられた怒りでも、恥をかかされた屈辱でもない。ただひたすらに、私が人生をかけて「信じたかったもの」が死んでしまったことへの、深い喪失の悲しみだった。


 だが、夜明け前、涙が完全に枯れ果てたところで、私はすっきりと起き上がった。全身を冷水で清め、大きな姿見の前に立つ。

 鏡の中にいるのは、ジュリアンのために、王家の都合のために、長年無理やり形を変え続けてきた「歪な私」だ。王太子の隣を歩くために、自分より目立たないようにと地味に結い上げた髪。彼の瞳の色を引き立てるためだけに選んだ、没個性的なドレスの色。彼を脅かさないように、妬まれないように、賢さを隠して選んだ控えめな言葉遣い。私はいつしか、「私という存在」を小さく縮めることに慣れきってしまっていた。


 付与術師は、魔力をつなぐ相手を自由に変えられる。ならば――今この瞬間から、つなぐ相手を「私自身」に戻すだけのことだ。

 一般的に、付与術師による『自己付与』は禁忌とされている。術者自身の感情が乱れていれば魔力が暴走し、己の欲望が強すぎれば魔力回路がねじ曲がり、廃人になる危険があるからだ。だが、今の私に乱れはなかった。彼を取り戻したいというような未練がましい欲望も、今はもう要らない。


 今の私に必要なのは、ただ徹底的に自分を「整える」ことだ。

 私は目を閉じ、静かに、しかし力強く、体内の回路を組み替えた。外へ向かっていた膨大な魔力が自身の内側を激流のように巡り、細胞の一つ一つが歓喜の声を上げて静かに整っていく。縮こまっていた背筋がピンと伸び、浅かった呼吸が深く澄み渡る。視界を覆っていた靄が晴れ、遠くの鳥の羽ばたきまでが鮮明に聞こえる。血の巡りが良くなり青白かった肌に薔薇色の生気が戻り、うつむきがちだった瞳に、強い知性の光が宿る。


 朝の支度にやってきた古参の侍女が、鏡の前の私を見て思わずハッと息を呑み、手にしたタオルを落としそうになった。


「お、お嬢様……?なんだか、まるで別の方みたいに美しくなられて……」


「いいえ」


 私は、長年縛り付けていた髪をほどき、豊かな金糸の波を揺らしながら微笑んだ。


「これが、本来の私の姿よ。今までが、ずっと手加減して生きていただけ」


 私は煩わしい王都を未練なく離れ、クライス公爵家の広大な領地へ戻った。ジュリアンやリリィに対して、湿っぽく陰湿な復讐をするつもりは毛頭ない。そんなことに労力を割くのは、私の魔力の無駄遣いだ。今やるべき最も重要なことは、私が、私自身の人生の主導権を完全に取り戻すこと。


 領地に戻った私は、まず“付与魔法を受ける側”である領民たちの「生活の基盤」を徹底的に整えることから始めた。疲労困憊の農夫に一時的な筋力の付与魔法をかけても、根本的な睡眠が足りていなければ、無理な動きで大怪我をするだけだ。流行病に苦しむ子供に回復の付与をしても、村の井戸水が汚染されていれば、何度でも同じ病を繰り返す。


 私は領の財力を惜しみなく投じ、学校を新設し、各村に診療所を置き、汚れた井戸を深く掘り直し、泥濘む街道を石畳に整備した。そして、私自身の膨大な魔力が領地全体に網の目のように行き渡りやすいよう、街の要所要所に特殊な『術式柱』を設計して何本も打ち立てた。この柱から漏れ出す微弱な魔力は、夜の街を照らす無尽蔵の街灯となる。


 夜が明るくなったことで盗賊の類は姿を消し、人々が闇に怯えなくなり、安全を求めて他領から多くの商人が行き来するようになり、経済が爆発的に回り始めた。人間という生き物は、一時的な分かりやすい“奇跡”や“魔法”よりも、毎日の当たり前の安全と安定によってこそ、本当の意味で救われる。私は、為政者としてそれを熟知している。


 そして皮肉なことに、私のクライス領が豊かに、強固に変われば変わるほど――私が抜けた穴を塞げない王国の深刻な歪みが、日増しに目立っていくのだった。

 王都から領地へ定期的に届く情報機関からの噂は、どれも似たような惨状だった。


『第一王子ジュリアンの剣の腕が、素人同然にまで落ちた』

『王都を魔物から守る広域防壁の術式が不安定になり、魔力供給が決定的に足りていない』

『最近、聖女と名乗るリリィ男爵令嬢が不思議な癒やしの力を広めているが、彼女の治療を受けた者が、治った直後に原因不明の体調不良で倒れるケースが続出している』


 私は執務室の机でその報告書を読み、ただ一度だけ、静かに目を閉じた。ほんの少しだけ、かつての愛した国が傾いていくことに、心のどこかがチクリと痛む。けれど、その痛みは、もう私が彼らの泥船に戻る理由にはならない。



――王国から国境の山脈を挟んだ隣国、ヴァルハイト帝国。

 その宮廷は、常に派手な噂と権力闘争が絶えない王国とは対照的に、恐ろしいほど静かで、研ぎ澄まされていた。華やかさや血筋の良さを競うのではなく、純粋な「結果」と「実力」だけを競う弱肉強食の国。その絶対的な頂点に君臨する若き皇帝レオナードは、根も葉もない派手な噂話を嫌い、表面的な数字よりも、世界を流れる“見えない魔力と力の流れ”を正確に読み取る男だった。


 彼が王国の異変に最初に気づいたのは、国境線に張られた見えない壁、『広域結界』の異常だった。王国と帝国を隔てる山脈に張られた大規模な結界網が、ある夜を境に、まるで栄養を絶たれた植物のように急激に“痩せ細った”のだ。

 結界は、その国の根幹を成す魔力網と直接繋がっている。国からの魔力供給が減れば、結界は揺らぐ。結界が揺らげば、それを察知した周辺の獰猛な魔物が国境付近に異常繁殖する。帝国の国境を警備する巡察騎士からの急報を受け、レオナードは執務室の巨大な地図の上で、鋭い指先を止めた。


「王国の結界の厚みが、ここ数週間で急激に細くなっているな」


 それだけならば、単なる王国の内部事情、あるいは術師の怠慢として片付けることもできた。だが、優秀な帝国の情報部から、同時に別の奇妙な報告がいくつも上がってきた。


「王国の次期国王たる第一王子が、最近別人のように武術も政務も弱体化しているそうです」

「王都の魔力を管理する術式塔の総出力が、原因不明のまま三割も落ち込んでいます」

「一方で、王国辺境の『クライス公爵領』では、逆に高度な術式柱が次々と建造され、独自の魔力網が強化されているとのこと」


 報告を聞き、レオナードは形の良く整えられた眉を深く寄せた。広域結界の痩せ方は、術師の老いや施設の老朽化といった自然な衰えではない。まるで、太い血管をいきなり縛られたかのような、巨大な“供給源が物理的に切断された”痩せ方なのだ。

 彼は黒ずくめの調査官に、短く冷徹な命令を下した。


「王国で、最近『国家レベルの巨大な魔力の断絶』が起きたはずだ。単なる個人の問題ではない。その震源地を徹底的に洗え」


 帝国の情報網が全力で動いた結果、集められた報告は、やがてたった一人の女性の名前に集約された。


――エルザ・フォン・クライス。


 王国筆頭公爵家の令嬢であり、国内最高位の付与術師。そして、第一王子ジュリアンの長年の婚約者であったが、数週間前の夜会で公衆の面前で無惨に婚約破棄され、その翌日から王子の能力が急激に衰退した女。


「王太子の夜会で、婚約破棄、か……」


 レオナードは、報告書のその一行だけを、妙に長く、険しい目で眺めた。貴族間の政略結婚の破棄など、どの国でもよくあるありふれた痴話喧嘩だ。だが、一人の令嬢が婚約を解消された直後に、王子個人の能力はおろか、王国全体の魔力網が揺らぐほどの国家的影響が出るなど、常識ではあり得ない異常事態だ。つまり彼女は、王子という「個人」の能力を底上げして支えていただけではなく、無意識か意図的か、王国という「国家の根底」にまで自身の膨大な魔力を流し込み、支えていた可能性がある。一人の人間の規格を遥かに超えたバケモノだ。


 そして――レオナードの経験上、そうした常軌を逸した自己犠牲を強いてきた人間は、裏切られた時、必ず「壊れる」。報われなかった愛に絶望し、踏みにじられた尊厳に狂い、感情の濁流に飲まれ、国への復讐に燃え上がり、最終的には自分自身の魔力に呑まれて自滅していく。それが常だ。


 ところが、調査官が読み上げた次の報告が、レオナードの予測を、良い意味で完全に裏切った。


「彼女は王都を去った後、狂乱するどころか、クライス領をここ数週間で急速に整備、発展させています」

「領内の治安は劇的に改善。独自の術式による夜間の灯りが増え、安全を求めた商流が活発化し、税収が跳ね上がっています」

「また、領民の魔力欠損症が激減し、彼女自身が教鞭をとって新たな付与術師の育成学校まで立ち上げた様子です」


 レオナードは、読んでいた報告書の束をバサリと机に置いた。長い指先で、紙の端をトントンと軽く叩く。彼の口元に、微かな笑みが浮かんでいた。


――壊れていない。復讐という無駄な感情に己を浪費するどころか、即座に気持ちを切り替え、自分の足場を恐ろしい速度で立て直している。その強靭な精神力が、冷徹な覇王である彼の興味を、強烈に引きつけた。


 最初は、一国の主として完全に“超常的な魔力能力への興味”だった。帝国をさらに強固にするため、彼女という「兵器」が欲しい。だが、集まってくる彼女の領地経営の手腕を知るにつれ、興味の質が変わっていく。


「彼女は、公衆の面前で婚約破棄され泥を塗られたというのに、王家への復讐に走らず、黙々と領地を整えたというのか?」


「はい。王都の貴族たちの間では『冷酷で血も涙もない女』と罵られていますが、彼女の庇護下にある領民たちからは、生き神のように歓迎され、敬愛されているようです」


 冷たいのではない。状況判断と、損切りの決断が異常なまでに速いのだ。そして、どれほど傷ついても、一時的な感情の波に溺れず、最適解を導き出せる。

 レオナードは、彼女のその行動の奥底に、揺るぎない“矜持プライド”を見た。他人が下した不当な評価に縛られず、他人に依存せず、自分の価値を自分の手で証明し、立て直す圧倒的な矜持。強大な帝国の頂点に立ち、常に孤独な決断を下し続けてきた自分が最も信用に足る人間とは、まさにそういう質の人間だった。


「これは、直接見て確かめる価値がある」


 ただし、帝国の皇帝が突然大軍を率いて会いに行けば、警戒心の強い彼女は即座に心を閉ざすか、臨戦態勢をとるだろう。レオナードはまず、相手の懐に入るための「表向きの正当な理由」を周到に用意した。


「国境沿いのクライス公爵領に建てられた新型の『術式柱』の設計が、帝国の技術から見ても非常に優秀だ。純粋な技術交流と、魔力網の接続に関する会談を申し入れろ」


 使者を送り、返ってきた手紙の文面は、驚くほど簡潔で、そして不遜だった。


『――会談の申し入れに応じます。ただし、日時はこちらの都合を優先していただきます。また、この技術交流を帝国による政治的圧力、あるいは王家への牽制として利用することを目的とするならば、会談は即刻拒否いたします。エルザ・フォン・クライス』


 強気だ。一国の皇帝への返書とは思えない。だが、全く筋が通っている。レオナードは手紙を読み、そこで初めて、自分が一人の令嬢から“試されている”のだと肌で感じた。

 彼女は、帝国の武力や、皇帝という権威の冠には少しも怯えていない。力を持つ者の顔色を窺うのではなく、提案の「内容」と「メリット」だけを冷静に天秤にかけ、取引の相手として相応しいかを見定めている。

 

 面白い。そして、触れればこちらが怪我をしそうなほど、危うく、美しい。


 数日後の雨の日、レオナードは自ら馬に跨り、国境を越えてクライス領へ赴いた。護衛は最小限の側近のみ。力による威圧ではなく、一人の人間としての誠意を示すためだ。

 領主の館の応接間。扉が開き、対面した瞬間、レオナードは直感で理解した。紙の上の報告書では決して掴みきれなかった、彼女が纏う独特の“空気”がある。彼女は、華美な装飾のない深い青のドレスを着て、背筋を伸ばし、凛として座っていた。着飾って自分を大きく見せようとしていないのに、部屋に入った者の視線が、磁石のように彼女に吸い寄せられる。強さを虚勢で張り上げるのではない。彼女の内部には、最初から絶対に折れることのない鋼の骨が通っているのだ。


「突然の訪問を受け入れていただき、感謝する。あなたが魔力の接続を断った瞬間、王国の広域結界の魔力網が痩せ細った」


 レオナードは、挨拶もそこそこに、鋭い目で相手を見据えて率直に核心を突いた。


「事前の調査で把握している。あなたは、あの愚かな王太子個人の能力だけでなく、王国の結界という土台にまで、長年ご自身の力を無償で流し込んでいた。……なぜ、見返りもなしにそこまで自分を犠牲にできた?」


 エルザは、皇帝の威圧感に微塵も動じることなく、静かに紅茶のカップを置き、少しだけまぶたを伏せた。ほんの一瞬、その瞳の奥に、言葉にできない古い傷跡の痛みがよぎったのを、レオナードは見逃さなかった。だが次の瞬間には、凪いだ海のような元の冷静な顔に戻る。


「……彼を、愛していたからよ」

 彼女は、過去の遺物を語るような淡々とした声で言った。


「不器用な彼が、立派な王になるという未来を、この目で見たかったのです。私のこの力で、彼が見える景色が少しでも広がるのならば、自分の身を削ってでも、喜んで差し出した。ただそれだけのことです」


 レオナードの胸の奥が、その言葉を聞いてわずかに重く締まった。“差し出した”という、静かだが重みのある言い方。そこには、生半可な令嬢の恋遊びではない、自分の全人生をベットした壮絶な覚悟の重さがあった。


「その、全人生を賭けた繋がりを……あなたは、自らの手で切った」


 レオナードは、確認するように低く問いかける。エルザは、皇帝の強い視線を真っ向から受け止め、決して逸らさなかった。


「ええ、切りました。……私自身が、完全に壊れてしまう前に」


 その声音は、冷徹というよりは、極めて正確で、理性的だった。


「私は魔力を扱う付与術師です。私自身の心が絶望や憎悪で濁り、魔力回路が腐敗してしまえば、私と繋がっている他人の心身まで巻き込んで汚染し、壊してしまう。相手を依存させ、共に破滅に落ちていくような未来は、私の定義する『愛』ではありませんから」


 その瞬間、レオナードの中で、彼女に対する「優秀な道具が欲しい」という冷たい欲求が、全く別の熱を帯びた感情へと劇的に変わった。彼女の価値は、その希少な能力だけではない。この女性は、自分が深く傷つけられたという「被害者の立場」に酔い、その痛みを利用して無関係な他人を傷つけることを、よしとしないのだ。


 圧倒的な力を持つ強者が最も陥りがちな「傲慢」や「暴走」を避け、強さには責任が伴うことを、魂のレベルで理解している。だからこそ、権力や金で釣るような、安い誘い文句は口にできなかった。


「帝国へ来い......とは、今は言わないでおこう」


 レオナードは、深く息を吐き出して言った。


「あなたが心血を注いでこの領地に築き上げたもの置いて、力ずくで連れ去ることは、私の覇道には反する」


 エルザが、ほんの少しだけ意外そうに目を細めた。張り詰めていた警戒の糸が、わずかに緩むのを感じる。


「では、皇帝陛下はわざわざ何をしに、この辺境までいらしたの?」


「確かめに来たのだ」


 レオナードは、彼女の瞳の奥を真っ直ぐに射抜いて答えた。


「あなたが――誰の権力にも支配されず、自分の足で立ちながら、それでも他者を正しく導き、支えられる本物の器を持つ人間かどうかを。……そして」


「そして?」


「そして、もしあなたの隣に立つに相応しい人間がいるとすれば、それは帝国にとっても、私自身にとっても、決して悪い話ではないと確信した」


 エルザは、すぐには笑わなかった。けれど、応接間を満たしていた氷のような空気が、春の風が吹いたように少しだけ柔らかく解けた。

 この雨の日、無敗の皇帝レオナードがエルザという一人の女にどうしようもなく惹かれたのは、彼女の類まれな色気でも、目を引く美貌でもなかった。どんな理不尽に直面しても、自分を見失わない『壊れない決断』のその高潔な在り方に、一人の為政者として、そして男として、深く胸を打たれたのだ。


 その後、レオナードとエルザの会談は、一度きりでは終わらなかった。レオナードは「術式柱の技術交流」というもっともらしい名目で、激務の合間を縫って何度かクライス領を訪れ、エルザは彼を客人として遇し、自ら領地の開拓現場を見せて回った。


 魔力を効率的に循環させる井戸の整備、清潔な診療所、身分を問わない付与術師の訓練施設、そして夜を照らす術式柱の緻密な管理。彼女は、皇帝であるレオナードに媚びることもなく、かといって見下すこともなく、ただ淡々と、着実に「民のための結果」を積み上げていた。


 ある夕暮れ時、新しい水路の工事現場で、手伝いをしていた小さな子どもが石につまずいて転び、膝から血を流して泣き出したことがあった。エルザはドレスの裾が泥で汚れることも気にせずしゃがみ込み、傷口に手を当てて、短い回復の付与魔法で痛みを散らした。そして、子どもの泥だらけの頭を軽く撫でて、こう言った。


「痛かったわね、泣いてもいいわ。でも、痛みが引いたら、自分の足で立ち上がりなさい。あなたは歩けるのだから」 


 その声は優しいが、決して甘やかすものではない。相手から自立の機会を奪うのではなく、再び歩き出すための「強さ」を、そっと手渡しているのだ。レオナードは少し離れた場所からその美しい横顔を見て、決定的な敗北感と共に気づいてしまった。


――この女性は、俺の背中を守る臣下ではない。俺と同じ、頂点の場所に立てる女性だ。


 誰かの上に君臨して見下すのでもなく、誰かの下に傅いて尽くすのでもない。対等に隣を歩ける、唯一の存在。だから、彼女を帝国へ誘う言葉は、皇帝からの絶対の“命令”であってはならない。一人の人間としての、対等な“契約”でなければ、彼女の心は動かない。そして、この胸に芽生えた確かな恋情が混じっているからこそ、なおさら安い言葉で誤魔化すことはできなかった。


 視察の帰り道、夕日に染まる丘の上で、レオナードは足を止め、真っ直ぐに彼女に向き合って、ようやく口を開いた。


「エルザ。帝国で、あなたのその類まれな力と知恵を、正式に迎え入れたい。ただの配下ではない。私と共に国の舵取りを行う、共同統治者としての権限と立場を用意する」


 風が吹き抜け、彼女の金糸の髪が揺れる。レオナードは一歩だけ距離を詰め、低い声で続けた。


「あなたが望むなら、この私の、唯一の隣の席に――」


 エルザは、頬を染めて即答するようなことはしなかった。彼女は静かに丘から下を見下ろした。領地の街並みには、彼女が設置した術式柱の灯りが、迫りくる夜の闇に溶け込むことなく、点々と力強く輝き始めている。


「……受けるにあたり、絶対に譲れない条件があります」


 彼女は、皇帝の目を射貫くように見つめ返した。


「一つ。私の下す政治的決断に、ことわりなき口出しをしないこと。二つ。私を『愛』や『恩』という感情の鎖で縛り付けようとしないこと。三つ。私を、帝国を飾るための便利な『人形(飾り)』にしないこと」


 レオナードは、一切の迷いなく、力強く頷いた。


「当然の条件だ。私が求めているのは、玉座の隣に座らせる美しい飾りではない。共に血を流し、共に前を向いて歩ける、唯一の同志だからだ」


 その揺るぎない言葉を聞いた瞬間、エルザの胸の最も深い場所で、あの夜会以来、長く冷たく凍りついていた部分が、ほんの少しだけ、温かい音を立てて解けていくのを感じた。


 エルザが帝国との結びつきを強めていた頃、一方の王都では、音を立てて崩落が進んでいた。

 王家主催の年に一度の重要な儀式、御前試合。第一王子ジュリアンは、最近の不調の噂を払拭し、かつての「無敵の天才剣士」としての自分の姿を、王と民衆に改めて見せつけるつもりだったのだろう。

 民はいつの時代も、分かりやすく英雄的な物語が好きだ。王も貴族たちも、不安な情勢の中では“安心できる偶像シンボル”を喉から手が出るほど欲している。


 だが、いざ闘技場に立ち、相対した騎士と向かい合った瞬間。ジュリアンが愛用の長剣を握る手は、情けないほどに小刻みに震えていた。これまで羽のように軽く感じられていた剣が、鉛のように重い。足運びは泥に足を取られたように遅く、相手が踏み込んでくる間合いが全く読めない。数回打ち合っただけで息が上がり、心臓が破裂しそうに早鐘を打つ。


「嘘だ、こんなはずでは……!」


 焦りが視界をさらに狭める。対戦相手の騎士が、手加減しつつ軽く一歩踏み込んで剣を払っただけで、ジュリアンの体は簡単にバランスを崩し、無様に砂の舞う闘技場の地面に転がった。


 観客席から、最初はどっと失笑が起き、次に困惑のざわめきが波のように広がり、そして最後に、重く冷たい「沈黙」が闘技場全体に落ちた。沈黙とは、期待を裏切られた者が下す、最も残酷で決定的な評価だ。


 ジュリアンは砂にまみれた顔を上げ、血走った目で観客席を見回し、子供のように叫んだ。


「違う!これは何かの間違いだ!本当の俺は――!」


 本当は、何だというのか。本当は、自分は最強の剣士なのか?本当は、誰もが認める天才なのか?それとも、本当は……今まで自分の背中には、常に『エルザの魔法』があっただけなのか?


 彼は、その一番核心を突く答えを、自分の口から吐き出すことができなかった。それを口にした瞬間、天才王子という虚像が崩れ去り、自分が「何者でもない空っぽの男」であったと、世界に認めることになるからだ。


 その夜、プライドをズタズタに引き裂かれたジュリアンを、自室のベッドで優しく慰めながら、男爵令嬢リリィが甘い声で囁いた。


「ジュリアン殿下は何も悪くありませんわ。これはきっと、あの女の呪いです。殿下を失ったエルザ様が、狂おしい嫉妬に狂って、殿下に呪いをかけたに決まっています……」


 証拠もない荒唐無稽な責任転嫁。だが、今の彼にはその言葉が麻薬のように心地よかった。


「大丈夫です、私が私の力で癒やします。私の奇跡で、殿下をお守りいたしますわ」


 ジュリアンは、リリィの細い身体にすがりついて泣いた。自分が縋り付いている相手が、根本的な解決策を何一つ持たず、ただ耳障りの良い甘い言葉しか吐けない空虚な存在であることにすら気づけないほど、彼の足元の地盤は完全に崩壊していた。

 一方で、王国の上層部、国王や大臣たちは深刻な焦りに直面していた。エルザが抜けたことで王都の魔力を管理する術式塔が慢性的に不安定になり、国境の広域結界が薄紙のように脆くなっている。結界の綻びから凶悪な魔物が侵入し、辺境の村々が次々と襲われ、討伐に向かう兵士たちは魔力不足で疲弊していく悪循環。


 そんな絶望的な状況下で、苦し紛れに神輿として持ち上げられたのが、“聖女リリィ”の存在だった。彼女は広場で華やかな癒やしの奇跡を示し、不安に怯える民衆に感動の涙を流させ、その熱狂を利用して貴族たちから多額の寄付金を促した。


「我らが王国には、神に愛された聖女がいる。彼女の奇跡がある限り、王国は必ず救われる!」


 崩れゆく現実から目を背けるように、そんな耳障りの良い物語だけが、王国の都合よく広まっていった。



 ――その後。


 帝国と王国の間で開かれた、緊急の国際会議。

 表向きの議題は「国境付近で激増する魔物対策のための両国連携」だが、実際のところは、衰退著しい王国が帝国に支援を乞う場であり、帝国側からすれば王国の弱みを徹底的に探り、優位な条約を結ぶための草刈り場だった。


 エルザは、帝国の全権代表団のトップシークレットとして、堂々と会場へ足を踏み入れた。彼女の頭上にはまだ正式な王冠はない。だがすでに、帝国の中枢において皇帝レオナードの右腕として迎えられ、その手腕は全閣僚に認められている。

 彼女が纏うドレスは、王都の夜会で着ていたような男に媚びる色合いではない。帝国の威信を体現するような、漆黒と純白の洗練されたデザインだ。余計な宝石の装飾は一切ない。けれど彼女が一歩歩みを進めるだけで、周囲の乱れた空気がピシッと整い、会場にいる各国の要人たちの視線が、まるで重力に引かれるように勝手に彼女へと揃う。


 王国の使節団の先頭には、第一王子ジュリアンの姿があった。彼は正面から歩いてくるエルザを見て――すぐには、それがかつての自分の婚約者だと認識できなかった。

 彼の記憶の中にあるエルザは、常に自分の半歩後ろに控え、自分が目立つようにと自己主張を抑え、控えめに微笑んでいた従順な女だ。自分という主線を際立たせるために、自ら進んで輪郭をぼかしていた都合の良い存在。


 しかし、今目の前を堂々と歩いてくるのは、圧倒的な存在感で自らの『強烈な輪郭』を取り戻した、一人の完成された支配者の姿だった。自信に満ちた目の光が違う。真っ直ぐに天を突くような背骨の在り方が違う。同じ顔のパーツでありながら、細胞の底から全くの別人に生まれ変わっているように見えた。


「失礼。あなたは……もしや……」


 すれ違いざま、ジュリアンが思わずフラフラと近づく。顔に引きつった愛想笑いを貼り付け、一国の代表としての礼儀を辛うじて装う。だが、その見開かれた目は、相手の政治的価値を測る為政者の目ではなく、砂漠で水を見つけた遭難者が、無意識に相手に助けを乞うような、すがりつく目だった。

 エルザは立ち止まり、彼を一瞥すると、不思議そうに小首を傾げた。


「あら。そちらは、どこの背景モブなのかしら?名乗る価値もありませんの?」


 瞬間、会場の空気が絶対零度に凍りついた。ジュリアンの顔が、羞恥で爆発したように真っ赤に染まり、次の瞬間には血の気を失って青ざめる。


「お前……エルザ……なのか……?なぜ、帝国の席に……」


「ええ、いかにも」


 エルザは、目の前の男の動揺など微塵も気にかける様子もなく、極めて事務的に、淡々と答えた。


「あなたがかつて『資産価値ゼロ』だと査定し、捨てた女です。ですが、現在の私は、ヴァルハイトの皇帝陛下より全権を委任された正式な主席交渉官です。申し訳ありませんが、過去のあなたの薄っぺらい言葉は、現在の私の人生において、何一つ影響を与えませんし、価値もありませんわ」


 ジュリアンの喉が、ヒクッと惨めに動く。反論や言い訳の言葉が、一つも出てこない。どんな美辞麗句を並べ立てたところで、目の前の圧倒的な強者となった彼女が、もはや自分の手の届く場所に決して戻ってこないことを、本能で直感してしまったからだ。

 そこへ、背後から重厚な足音を響かせ、皇帝レオナードが現れた。彼はエルザの前に立って彼女を“庇う”ような真似はしない。彼女の力量を誰よりも認めているからこそ、“同列のパートナー”として、彼女の隣に自然に並び立った。


「私が、帝国皇帝レオナードだ」


 相手が王国の王子であろうと、レオナードの礼儀は最低限で、その声音は冷たく研ぎ澄まされた刃のようだった。


「彼女は我が帝国の宝であり、私の片翼だ。彼女に対するいかなる無礼な振る舞いも、私自身、ひいてはヴァルハイト帝国への明確な不敬行為と受け取る。よくご理解いただきたい」


 その静かな一言で、周囲の空気の重力そのものが変わった。ジュリアンが今、世界の底辺の位置に立たされているのかが、残酷なほどはっきりと示された瞬間だった。絶対的な格付けというものは、野蛮な暴力や大声によってではなく、ただそこにある『揺るぎない事実』の提示によってのみ行われるのだ。


 ジュリアンは完全に言葉を失い、震える足でただその場に立ち尽くすことしかできなかった。エルザは、それ以上彼に対して蔑みの言葉すら投げかけることなく、優雅に身を翻して通り過ぎた。

 かつて愛した男を、視界から完全に外す。激しい憎しみすら向けない、完全なる『無関心』として。それが、プライドだけが高い空っぽの男にとって、一番内臓をえぐる毒になることを知っていたからだ。


 息の詰まるような会議の最中、窮地に立たされた王国側の席が突如としてざわついた。帝国からの厳しい要求に反論できなくなった王国側が、苦肉の策として、同行させていたリリィによる“奇跡の癒やし”を、他国の要人たちの前で披露すると言い出したのだ。


 王国は今、度重なる魔物との戦闘による兵士の疲弊と、いつ結界が破られるか分からないという民衆の不安を抱え、国家として今にも破綻しそうになっている。ここで聖女の奇跡を大々的に見せつけることは、帝国に対する唯一の牽制であり、政治的な切り札となるはずだった。


「この絶望的な状況を打破するためには、派手な見せ場が必要なのです」


 王国の大臣がすがるようにリリィを促した。

 壇上に立ったリリィは、純白の薄衣をふわりと揺らし、両手で豪奢な装飾が施された聖杯を高く掲げた。その黄金の聖杯の表面には、細く複雑な銀色の紋様がびっしりと刻まれている。素人の目には、神の祝福を祈る神聖な宗教文様に見えるだろう。だが、最高位の付与術師であるエルザの目には、それは全く別の邪悪な代物に見えていた。


――あれは、『他者から魔力を強制的に吸い上げ、集めるための回路』だ。器の中に貯め込むための、強欲なシステム。


 リリィは、透き通るような悲劇のヒロインめいた声で朗々と告げる。


「迷える皆様、どうか私と手を繋いでください。私は神の代行者として皆様の苦痛と痛みを我が身に引き受け、代わりに大いなる癒やしの奇跡をお分けいたしましょう」


 彼女の甘い声に導かれ、王国の随員たちが次々と壇上に上がり、列を作った。戦傷を負った将軍、頭痛を訴える貴族、疲労困憊の侍女たち。皆が盲信したように互いの手を繋ぎ、リリィと聖杯を中心にして大きな輪を作る。

 エルザは、腕を組み、帝国側の席からその茶番を静かに、しかし鋭く観察していた。

 人々の輪が作られ、リリィが祈りの言葉を紡いだ瞬間、会場内の目に見えない空気の流れが微かに、しかし確実に変わる。ほんの僅かに、だが暴力的な強制力を持って、参加者全員の体内から魔力が“聖杯に向けて吸い引かれている”。

 確実に引かれ、奪われているにもかかわらず、輪の中の誰一人としてその事実を自覚していない。なぜなら、一人ひとりから奪い取る魔力の量が、気づかないほどの『ほんの一滴』に巧妙に調整されているからだ。


 リリィが目をつむり、大げさに聖杯へ手をかざすと、まばゆいばかりの白い光が会場いっぱいに溢れ出した。光を浴びた兵士の深い切り傷がみるみる塞がり、貴族の青あざが綺麗に消え去る。会場中から、感嘆のどよめきと割れんばかりの拍手が沸き起こった。


「おお、信じられない……!」

「これぞ神の御業!本物の聖女様だ!」


――だが、その光は決して“彼女自身が発した署名オリジナル”ではない。


 人間の魔力には、指紋のように、持ち主ごとに全く異なる微妙な癖がある。熱の帯び方、光の粒の粗さ、流れる速度の波。高位の付与術師であるエルザは、それを香水の種類を嗅ぎ分けるように、視覚と感覚で正確に分解できる。


 今、リリィが放った眩い光は、たった一人の純粋な魔力の癖ではない。何十人、何百人もの異なる魔力が、ミキサーにかけられたようにグチャグチャに混ざり合っている。歪な“寄せ集めのキメラ”だ。

 万雷の拍手の中、エルザは一人、音もなく席を立った。そして、冷ややかに響く声でその熱狂に冷や水を浴びせた。


「素晴らしい手品ですね。ですが、いま放たれたその癒やしの光……あなた自身の魔力ではありませんわね?」


 水を打ったように静まり返る会場。リリィが、わざとらしく目を丸くして驚き、被害者の顔を作る。


「な、なんて恐ろしい言いがかりを……!私は神に選ばれた聖女ですわ!無償で人々を救うのが私の使命なのに……!」


「言いがかりではありません。根拠は二つあります」


 エルザは、裁判官が判決を読み上げるように淡々と、論理的に言葉を紡いだ。


「一つ目。いまあなたが放った光は、あなた一人の魔力の波長ではない。あまりにも他人の不純物が混ざりすぎている。魔力のパッチワークです。そして二つ目。あなたが王都で頻繁に開いている“癒やしの集会”に参加した人間の多くが、翌日から原因不明の慢性的な疲労……つまり『魔力欠損症』を起こして倒れている事実」


 リリィの顔色が一瞬変わったが、すぐに大粒の涙を浮かべ、か細く震える声を出した。


「ひ、ひどい……!エルザ様、あなたがジュリアン殿下を奪われた嫉妬で私を憎むのは自由ですが、これはあまりにも……!私は身を削って皆を救っているのに……!」


 周囲の王国貴族たちから、エルザに対する非難のざわめきが起きる。だが、エルザは微塵も揺るがない。同情もしないし、怒鳴りもしない。ただ、冷徹に確定的な証拠のカードを切るだけだ。


「王国の魔力鑑定局が、上層部の圧力によってひた隠しにしてきた患者のカルテ記録。帝国情報部がすべて保護し、裏付けを取らせていただきました。集会に参加した欠損者の数は、雪だるま式に増え続けている」


 エルザの言葉に、王国側の大臣たちがビクッと肩を震わせる。


「欠損する魔力量が毎回微量であるため、本人はただの寝不足や過労と勘違いする。あなたはそれを、治療の過程で一時的に起こる『好転反応です』などという都合の良い言葉で誤魔化し、治療と称してさらに集会へ依存させてきた」


 リリィの貼り付けたような被害者の表情が、一瞬だけピキリと凍りついた。見事に図星を突かれたのだ。エルザは、ヒールを鳴らして壇上へと近づきながら、種明かしを続けた。


「つまり、あなたは癒やしの集会で輪を作らせ、参加者全員からほんの少しずつ魔力を密かに吸い上げ、その手にある特殊な聖杯の回路に貯蓄している。そして、こうして大勢の注目を集める舞台で、“自分自身の奇跡”としてその魔力を一気に放出する。しかし、放出する回復の量は、吸い上げた総量よりも常に少なく設定されている。差額の余った魔力は、あなたが自分の延命や若返りのために懐へ抱え込んでいるのでは?」


「ち、違うわ!でたらめよ!私は神に選ばれたのよ!」


 追い詰められたリリィが、金切り声を上げる。


「ならば、今ここで証明してみせなさい」


 エルザは指先を軽く弾き、壇上の中央、リリィの足元だけに小さな結界を発生させた。透明で強固な魔法の膜が、リリィと聖杯だけをすっぽりと覆い隠す。


「この特殊な結界の内側からは、外部の人間から一切の魔力を吸い引くことができません。あなたが本物の聖女だと言うのなら、他人から搾取せず、あなた自身の内なる魔力だけで、この場にもう一度奇跡の癒やしを見せてみなさい」


「あっ……!」


 リリィの顔から、完全に血の気が引いた。彼女は無意識に後ずさり、助けを求めるように聖杯へ手を伸ばしかけて、ピタリと止める。


 彼女の起こす癒やしの奇跡は、常に“魔力を持った他人が大勢いる場所”でしか成立しないのだ。輪を作り、肌を接触させ、多数から薄く広く奪い、それを自分の力だと偽って混ぜて出す。新しく魔力を提供してくれる信者カモを集め続けなければ、この派手な奇跡の自転車操業はすぐに破綻する。


 それはまさに、先に集めた他人の魔力で“回復の実績”を作り、その実績を利用してさらに多くの人を集め、集まった魔力でまた実績を作るという、極めて悪質な投資詐欺ポンジ・スキームの仕組みそのものだ。


 信者が増え続けている間だけは、奇跡が無限に続くように錯覚する。だが、こうして外部からの供給を完全に遮断された瞬間、彼女の力は空っぽになるのだ。

 リリィは結界の中で唇を噛み破るほど強く噛み、ボロボロと大粒の嘘の涙を流して膝から崩れ落ちた。


「お願い、私を、いじめないで……!私は……私はただ、皆に必要とされたかっただけで……!」


「私はいじめなどという低俗な趣味は持ち合わせていません。これは真実の検証です」


 エルザは、泣き崩れるリリィを冷たく見下ろし、最後の一撃を振り下ろした。


「あなたは人を救う尊い聖女のふりをして、人々の命を薄く長く奪い続けている。奪われる側は、気づかないままに徐々に弱り、ある日突然倒れる。国を守る兵は戦えなくなり、国を支える民は畑で働けなくなる。あなたの虚栄心を満たすためだけに、この国は内側から食い破られていくのです」


 そして、エルザは決定的な証拠となる解析結果の羊皮紙を、王国の席へ向けて放り投げた。


「いま彼女が放った光の残滓を、我が帝国の技術で完全に解析・鑑定しました。いまの光に混ざっていた魔力の署名は――王国貴族十七名、前線の兵士四十二名、城の侍女八名、さらには王都の孤児院の衰弱した子ども三名分。たった一人に与えられた神の奇跡だと言うのなら、どうしてこれほどまでに、無関係な人々の魔力の痕跡が入り混じっているのですか?答えてみなさい」


 羊皮紙に記された残酷な真実に、会場が凍りつき、直後に、王国側の席から爆発的な怒りの声が沸き上がった。人は、自分の命を救ってくれたと「心底信じ込み、感謝した相手」から裏切られ、命を搾取されていたと知った時、最も激しい憎悪を抱く。“癒やし”を信じ、涙を流してすがりついた者ほど、その反動は恐ろしい。


「騙したのか、この魔女め!」

「俺たちの魔力を返せ!」


 リリィは結界の中で震え上がり、床に突っ伏した。涙は本物になって流れたが、もはや誰一人として彼女に同情する者はいない。泣けば可愛い女だと許される段階を、彼女はとっくに通り越してしまったのだ。


 その惨状を目の当たりにして、ジュリアンは完全に顔面蒼白になり、石像のように立ち尽くしていた。彼がエルザを捨ててまで自ら選び取ったものは、国を救う真実の愛でも奇跡でもなく、国を破滅に導く甘く腐った毒の嘘だったのだ。


「俺は……俺は……こいつに騙されていたんだ……!」


 自己保身のために、震える声でリリィを切り捨てるジュリアン。


「騙されたのは、他でもないあなた自身の浅はかな選択よ」


 エルザは、かつての婚約者を一度も見つめることなく、冷たい声で斬り捨てた。


「誰のせいでもない。選択の責任と、その無惨な結果だけが、今のあなたに残された全てです」


 会議が帝国側の完全な主導で終わり、条約が締結された夜。冷え込んだ大理石の廊下で、エルザの行く手を阻むように、一人の男が待っていた。


 近衛騎士の護衛も連れておらず、かつて纏っていた王国の威信も、溢れんばかりの自信もない。顔には濃い疲労と絶望の色が浮かび、ただ「第一王子」という空虚な肩書きだけが、彼の頭上にふらふらと宙に浮いているようだった。


「エルザ……頼む、話を聞いてくれ」


 ジュリアンは、すがるような目をして、エルザの目の前で、かつては決して曲げなかった両膝を床についた。


「俺が悪かった。すべて俺の目が曇っていたんだ。あんな女の嘘に騙されて……君の本当の価値に気づけなかった。やり直そう。どうか、帝国などに与さず、俺の元へ戻ってきてくれ。破滅していく王国を……いや、俺を……助けてくれ!」


『助けてくれ』。その言葉は、物語の中であれば、遅れて届いた真実の愛の告白のように聞こえるかもしれない。だが、今のエルザの冷静な耳には、ただの「自分が作ってしまった穴の埋め合わせを、無償でやってくれ」という、身勝手な依頼にしか聞こえなかった。


 ジュリアンは、震える両手で床を掻きむしりながら、必死に言葉を紡ぐ。


「あの頃は……君がそばにいるのが当たり前すぎて……君が裏で俺にかけてくれていた魔法の力すら、全部俺自身の生まれ持った才能だと思い込んでいたんだ。でも違った。全く違ったんだ……。頼む、お願いだ。もう一度俺に力を貸してくれ。君の支えがないと、俺は剣も振れない、政務もこなせない、王になんて……なれないんだ!」


 エルザの胸の奥底で、わずかに、本当に針の先ほど、古い傷が疼いた。王宮の庭園で、「怖いんだ」と本音をこぼしてくれた、あの小さな少年の姿が一瞬だけ重なる。あの頃の彼は、自分の力不足と向き合い、弱さを認める純粋な勇気があった。


 けれど、今の目の前で地べたに這いつくばる男は違う。自分の弱さを認めた上で、自らの血を吐くような努力で“自分を変える”のではなく、ただ自分が弱者であることを免罪符にして、手っ取り早く不足分を埋めてくれる「便利な道具」としての彼女を求めているだけだ。


「ジュリアン殿下。あなたがいま切実に必要としているのは、私という『人間』ではありません」


 エルザは、氷のように静かな声で言い放った。


「あなたが欲しているのは、私が魔力で作り上げていた、無敵の才能を持つ『都合の良いあなたの虚像』よ。違いますか?」


「違う!俺は君を愛してる!今なら分かるんだ、俺には君しかいない!」


 泣き叫ぶような必死な言葉。だが、その響きはあまりにも安っぽかった。すべてを失ってから遅れて出てくる都合の良い愛の言葉など、だいたいは保身のためのただの免罪符だ。

 エルザは、彼に向かって手を差し伸べることなく、ドレスの裾を翻して一歩だけ距離を取った。それは彼を蔑む残酷さではなく、二度と彼の毒に触れないための、自分自身を守るための冷徹な礼儀だった。


「ごめんなさい。私には、価値のない景色モブと会話を楽しむ趣味はないの」


 その決定的な一言で、ジュリアンの顔から全ての表情が抜け落ち、グシャグシャに崩れ去った。怒りでも、悲しみでもない。完全なる『理解の崩壊』。自分がどれだけ泣いて喚いても、謝罪しても、もう永遠に彼女の視界にすら入らない「無価値な存在」になってしまったのだと、魂の底から悟ってしまった男の顔。


 エルザは一切の未練なく背を向けた。歩き出す彼女の背中に、すがりつこうと手を伸ばす気配は、最後までなかった。伸ばせなかったのだろう。彼女のドレスの端に触れるだけの価値すら、いまの自分には微塵も残っていないのだと、彼自身が誰よりも分かってしまったからだ。


 その後、帝国ヴァルハイトは、国際社会においてエルザ・フォン・クライスを正式な国賓として、いや、それ以上の存在として迎え入れた。彼女に与えられた地位は『帝国の共同統治者』。つまり、皇帝レオナードの真横に並び立ち、国家の根幹である政治決定と、広大な帝国魔力網の再設計に絶対的な責任と権限を持つ、実質的な「もう一人の皇帝」としての立場だ。


 当然、帝国の上層部である保守派の貴族たちからは、猛烈な反発が起きた。


「いかに優秀な付与術師とはいえ、得体の知れない外国の令嬢に、帝国の命運を握る権限を与えるなど正気の沙汰ではない!」

「皇帝陛下は、あの女の色香に狂われたのでは!?」


 会議の場で怒号が飛ぶ中、玉座に座るレオナードは、一切感情を交えずに、冷酷なまでの論理で彼らを黙らせた。


「色に狂ったのではない。これは国家の『責任』の問題だ」


 レオナードの鋭い眼光が、反発する貴族たちを射抜く。


「彼女は、個人でありながら、一国の魔力網の基盤をたった一人で支え切るという、類まれなる規模の力を持っている。それほどの巨大な力を、本人の『気まぐれな善意』や『無償の愛』などという不確かなものに依存して任せっぱなしにする方が、為政者として遥かに愚かで危険なのだ。彼女の力を帝国の制度の中に正しく組み込み、適正な権限と責任を与えることで初めて、その力は真に国家の礎となる」


 そして、最も声高に反対していた筆頭公爵に対しては、覇王の圧を込めてこう言い切った。


「私が彼女を求めるのは、玉座の横を華やかにする飾りが欲しいからではない。もし彼女をただの飾りにするつもりなら、私は最初から彼女の力を求めはしない。都合の良い人形は、国を強くはしないからだ。私は、私と共にこの帝国の未来を背負って立つ『意志』を求めているのだ」


 エルザは、少し離れた席でその白熱した議論を聞いていた。レオナードは、エルザを「守る」ために感情的になって怒鳴っているのではない。あくまで帝国の利益と、統治の理屈として、彼女の必要性を理路整然と語っている。その事実が、エルザにとって何よりも甘い愛の言葉より、深い信頼の証となった。


 数ヶ月後、帝都の巨大な大聖堂で、戴冠式が執り行われた。初冬の澄み切った空気に、荘厳な鐘の音が静かに、そして重厚に響き渡る。エルザは祭壇の階段を上り、教皇から共同統治者の証である白金の王冠を受け取った。


 ずしりと重い。だが、その王冠の重さは、かつて王国でジュリアンのために背負わされていたような、他人に“押しつけられた息の詰まる重さ”ではない。エルザ自身が自分の意志で選び取り、覚悟を持って背負うことを決めた、誇り高き重さだ。

 王冠を戴いた彼女の隣に、皇帝の正装を纏ったレオナードが進み出て並び立ち、誰にも聞こえない声で囁いた。


「今日から、あなたの強き意志が、この帝国の未来の形になる」


「……ええ。存分に働かせていただきますわ」


「そして約束しよう。私は、あなたのその美しい意志を、決して私の都合よく消費して使い潰したりはしない」


 エルザは、初めて彼に向けて、心からの柔らかい笑みを浮かべて小さく頷いた。


「当然です。私たちは対等な、共同統治者なのですから。約束を破れば、即座にロスカット(損切り)して差し上げますわ」


 その軽口を交わした瞬間、二人の間に、甘ったるい恋愛ごっこのような空気は一切なかった。ただの甘さの代わりに、背中を預け合う強固な戦友としての、血の通った強い契約があった。だからこそレオナードは、ここで初めて、皇帝としての鎧を解き、一人の男として安心して彼女への深い恋情に溺れていくことができたのだ。


 レオナードがエルザという女に惹かれた理由は、一目惚れなどではない。時間をかけて彼女の在り方を見るうちに、確固たる信念として固まったものだ。


 誰かを深く愛し、裏切られた痛みを、無関係な他人を傷つけるための免罪符にしない気高さ。

 自分自身が持つ規格外の力の大きさと危険性を客観的に理解し、それを個人の感情で振り回さず、国家の制度へ落とし込んで誰かの人生を安定させる知性。

 圧倒的な強者の側に立っても決して媚びず、弱者の側に立っても決して無責任に甘やかさない、厳しくも温かい目線。

 そして何より、自分を壊す関係であれば、どれほど愛していても、完全に壊れてしまう前に自分の意志で「断ち切る」ことができる強さ。


 弱肉強食の帝国に今一番必要だったのは、一時的な熱狂を生む奇跡を見せる胡散臭い聖女ではない。奇跡や魔法に頼らなくても、当たり前に民が明日を生きられる、強固な仕組みを作れる現実主義の女王だったのだ。


 エルザは壇上の中心に立ち、帝国中の要人と民衆を見下ろして、静かに、しかしよく通る声で演説を始めた。


「私はこれから、私自身の持つ力を、この帝国に生きる人々のために惜しみなく使います。ですが、私自身を無意味な自己犠牲で壊すような真似は、二度としません」


 彼女の言葉に、大聖堂は水を打ったように静まり返る。


「なぜなら、誰かの人生を根本から支えるためには、支える側の人間が、何があっても絶対に折れてはならないからです。私は折れない。だから、あなたたちも自分の足で立ちなさい。立ち上がる者には、私が全力で付与ちからを与えましょう!」


 その力強い宣言に、大聖堂に集まった人々が一斉に膝をついた。それは武力や権威に対する「恐れ」による服従ではない。彼女の言葉が、自分たちの明日を確実に変えてくれる本物であるという「深い理解と敬意」だった。


 一方、魔力網が崩壊し、有能な人材を失った王国は、その後、音を立てることもなく静かに、歴史の波に沈んでいった。詐欺師であった偽聖女リリィは、国家反逆と魔力搾取の大罪で厳しく裁かれ、地下牢へ繋がれた。彼女を盲信し、国政を放置した第一王子ジュリアンは、すべての責任を取らされる形で王位継承権を永久に剥奪された。


「次期国王」「天才剣士」という、彼を分厚く覆っていた金メッキの肩書きがすべて剥がれ落ちた彼は、驚くほど簡単に、誰の記憶にも残らない「薄っぺらい男」になった。



――ある晴れた日。

 帝都の巨大な城壁の上に立ち、エルザが遠く国境の街道を眺めていると、豆粒のような小さな影が見えた。みすぼらしい荷物を背負い、放浪する男が、街道の途中で立ち止まり、遥か彼方にそびえ立つ帝都の眩い輝きを見上げている。


 それがかつての婚約者ジュリアンだと分かったのは、彼がこちらに向けて、すがるように力なく手を伸ばしたからだ。決して届くはずもない、絶望的な距離で。決して戻るはずもない、遠い過去に向けて。


 エルザは、その小さな影を、ただの「無意味な点」として認識した。点は、風景を構成するただの一部に過ぎない。自分から意味を与えなければ、それはただの背景モブで終わる。

 コツ、コツ、と硬い足音を響かせ、レオナードが彼女の隣に並んで立った。彼もまた、遠くの影を一瞥し、そしてエルザの横顔を見た。


「……過去に、後悔はあるか?」


 静かな問いに、エルザは一切の迷いなく、即答した。


「ありませんわ。一ミリも」


 彼女は風に髪を揺らしながら、晴れやかな顔で笑った。


「私は、あの時の彼を、私の全霊で愛していました。だからこそ、あの泥沼で、私自身の尊厳を守るために終わらせたのです」


「そうか」


「愛を理由にして、自分自身をすり減らして壊すような愚かな真似は、私の人生において二度としません」

 レオナードは、彼女の手を、決して強く縛り付けることのない、柔らかい手つきでそっと取った。いつでも彼女が自分の意志で振り払って逃げられる、逃げ道を残した誠実な握り方。それは相手を「支配」するためではなく、共に並んで歩くための、対等な手だった。

 エルザはその温かい手を、愛おしそうに握り返し、決して拒まなかった。


 この世界には、二種類の人間しかいない。

 私という物語の主人公か、私以外の「背景モブ」か。

 

 価値を失い景色に成り下がった者たちを過去に置き去りにして。

 今日も、明日も、私は私で在り続ける。


(了)

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