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やわらかい陽をを浴びながら、ベランダに兄の布団を干す。

風邪はすっかり治った。さっき兄から連絡があり、もうすぐ帰ってくるという。


まだまだ寒いけれど、春の兆しが感じられるかすかな陽気を、しばしベランダで楽しんでいた。

下に見える道路で自転車が止まる。風見くんがこちらに手を振っていた。





「あんなことして! 私、まだ怒ってるんだからね」

「お茶貰うよ。あんなことって? …あぁあれか」

風見くんはまるで自分の家のように、冷蔵庫のお茶をグラスに入れて食卓に座り込んでいる。


「熱でうなされてるちーちゃん放って帰れないし、コタツで寝ると寒いし、仕方がなかった。だろ?」

「仕方がなかったで済まされることじゃないわ」

私の言葉など意に介さない様子で、コクコクとお茶を飲む。


きっと、私の気持ちなど知るはずもないだろうし、風見くんにとっては深い意味は無かったんだろう。

私にとっては夢心地だったけれど…付き合ってもないのにあんなことをするのは絶対駄目だ。


「風見くんのスケベ、エロ親父」

「男はみんなスケベなんだよ」

「うわ、認めた! 開き直った!」

「お昼に蕎麦でもおごるから。それでチャラな」

「私は蕎麦一杯の価値だっていうの?」

「えっ 違う?」


私が怒ると、風見くんが肩を揺らして笑う。私もつられて吹き出してしまった。





「…おとといさ、俺がここに泊まるから親父に…」

風見くんの表情が一変し、物憂げに背中を丸めてテーブルに肘を付く。


「親父に母さんの側にいてもらえるように頼んだんだよ。そしたら昨日も仕事帰りに泊まっていって、今日も来るつもりらしいんだ…」

「お母さんは嫌がってないの?」

風見くんが頷く。お母さんは嫌がるどころか喜んでいるらしい。それなら、何も悩むことはないと思うのだけど…


「母さんが嬉しそうなのはいいんだ。でも、また親父が離れたときに以前のように荒れるだろうからなぁ」

頭を抱えるような仕草をする。指の間から見える伏し目がちの漆黒のな瞳に迷いや戸惑いがこもっているように感じた。

「お母さん、まだお父さんが好きなんだね」

「ベタ惚れだよ。あんな女たらしのどこがいいんだか」


風見くんのお母さんが別れた今でもお父さんのことが好きなら、出来る限り会わせてあげてと言いたい。でもまたお父さんが離れて行ったとき同じような苦労が風見くんに振りかかったらと思うと、私は何も言葉をかけることが出来なかった。






ほどなくして兄が帰ってきた。


「ちーちゃあああん! ただいま!! 寂しかっただろー? ごめんな。ほれほれ、お兄ちゃんの胸に飛び込むといいよ。さぁ、遠慮無く!」

「キモイイィ。離して」

私から胸に飛び込むのではなく、向こうからぎゅうと抱きついてくる兄を振りほどいて突き飛ばした。


「あははは。こんにちは、お邪魔してます」

「いてて…お、風見くん。こんにちは! 久しぶりだねー」

「お久しぶりです」

「そいや合格祝いパーティでもやるかって言ってたね。卒業式の日に由佳ちゃんも呼んでやるかぁ」

「いいですねえ」


ついに週末は卒業式だ。風見くんの制服の第2ボタンは無理でも…シャツの一番下のボタン辺りでも貰えたらなあ…。






「ちーちゃん、ちょっと来て」

自分の部屋に行った兄がこちらに手招きをしている。何だろう。兄は私が部屋に来るやいなや真剣な顔をこちらに向けた。


「母さんに会ってきたよ」

えっ……。


「爺ちゃんから連絡があって、大阪にいる母さんに会ってきた。頭に腫瘍があって入院してる」

思いも寄らないことに思考停止してしまう。出張じゃ無かったのか。

兄から母親という言葉が聞けるとは。それに……会ってきた…入院…腫瘍…?


「3日後に摘出手術があるから、手術の前に会っておいで」

いきなりのことに言葉が出てこない。


「ごめん。最初はちーちゃんには黙っておこうと思ってた。もう何年も会ってないしな。でも手術だから万一のこともあるかもしれない。俺もちょっと迷って…どうすべきか確かめに会いに行ったんだ」

兄なりの優しさを感じた。私は兄妹間での親の話を極度に嫌う。拒絶してしまう。いつも兄なりに気を遣ってくれているのは分かっていた。

「母さん変わってたよ。新しい旦那さんも良い人だった。大丈夫だから。安心して行っておいで」

「………」

「伏見の爺ちゃんの所に泊まればいいから。分かった?」

「……私には関係ないよ。行かない」





「荷物まとめが大変でさ、ダンボール20個になっちゃったよ」

オープンテラスのカフェに由佳、美穂と3人でお茶をしに来ていた。美穂が卒業後に彼氏と同棲するらしい。


明日はお母さんの手術だ。朝、出勤前の兄にさんざん行くように言われたが、結局行かなかった。

さっきからマナーモードにした携帯が何度も振動している。きっと兄だろう。


「どれだけ持っていくつもりなのよぉ美穂ちゃんったら。お嫁に行くんじゃないんだから」

「あんたも沢木と暮らせばいいのに。あれはモテるから、放っておいてどこかの令嬢に取られても知らないよ」

「私はお菓子作りに専念するの! それで離れていけばそれでいいわよぉ」

「パティシエになりたいなら、それこそあいつの家の人脈とお金を利用すればいいのよ。沢木商事の創業者一族なんだから」

「美穂ちゃんリアリストねぇ。私は有名になりたいとかお金持ちになりたいんじゃなくて、お菓子作りの道を追求したいの! 職人なのよー」


二人の会話が耳に入ってこない。店で焼かれた自家製パンをもぐもぐと口に含む。

きっと行かなくてもきっと無事に終わる…私が行っても迷惑なだけ…きっと無事に終わるはず。由佳が心配そうな顔をして覗き込んできた。


「ちーちゃん、どうしたのぉ? 大丈夫?」

「う、うん」


ふと、目の前に風見くんの幻が見えた。大きい鞄を二つ抱えている幻。その幻がどんどん近づいてくる。私は大丈夫じゃないのかもしれない。幻が目の前までやってきた。

「見つけた! 大阪行くぞ」

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