(15)
入試前日の朝。
「お弁当、鞄に入れといたよ」
「ありがっちょー」
眠そうに目をこすりながら兄が食卓につく。
納豆をご飯にかけてかき混ぜながら、真剣な表情で私を見てきた。
「急にそんな顔してどうかした?」
「……両方受かったらあっちの方に行くの? 」
「うーん…、まだ決めて無い」
「こっちにしなよ。ちーちゃんがいなかったら、おにーちゃん心配しすぎて心労で倒れちゃうよ。いいの? いいの?」
「うん、いいよ」
「……」
私の冗談に、叱られた犬のようにうなだれたフリをする。あっちとは京都の大学のことだ。
「何にせよ受かってからの話。ほらほら、早く食べないと電車間に合わないよ」
「伏見の爺ちゃんは良い人だけどさ。俺に気を遣ってのことならやめるんだよ。俺は全く負担だとは思って無いし、卒業するまで側で見届けたいと思ってるし」
そう言うと、納豆ご飯を口にかきこみ始めた。
京都の伏見に住む祖父は私たち兄妹を以前から気にかけてくれていて、親が離婚した時に私たちに一緒に暮さないか、と言ってくれたこともあった。
今の、大学で京都の方に来るならいつでも世話すると言ってくれている。
私と二人暮らすようになってから、全くと言っていいほど夜遊びもしなくなった兄を私から解放してあげたいという気持ちもあり、京都の大学も受けてみた。幸いこの県でも試験会場があり、近くで受験出来る。
何も家事が出来ない兄を一人にするのは心配だが、私がそうだったように必要に迫られると出来るようになるのではと思う。
どちらにせよ、合格してからの話だけど…。
そして晩になって───。
今日で風見君が家庭教師に来てくれる最後の日。
朝から家に来たのは自主登校初日だけで、後はいつもどおりの夕方から来てくれた。
二人きりで過ごす時間が多くても、結局何も起こらなかった。それで当たり前だし、良かったと思う。
最後の晩餐もつつがなく終わり、見送りの時間になる。
玄関ドアの前の風見君に、兄がお礼にと買ってきたプリンを差し出した。
「風見君、お世話になったね。これつまんないものだけど御家族と食べてね」
「ありがとうございます。こちらこそ、連日夕食を頂いてありがとうございました」
「それは、こっちに言わなきゃ」
兄が私の肩をぽんぽんと叩く。
「ありがとな」
「ううん。作る量が増えるだけだし気にしないで」
「合格したら、風見君も一緒に小さなお祝いパーティでもやるか。残念会になる可能性も大きいがなー。…いてぇっ。ちーちゃんやめて、背中つねらないで」
「あはは…ほんと仲良いですね。しばらく実家の方に行くので参加出来ないんですが、帰ってきたら是非また夕食にでも呼んで頂けたら」
「そうかそうか。実家でゆっくりしておいでね」
アパートの外に見送りに行く。外は雪が少しはらはらと舞っていた。
「お母さん、良くなるといいね」
「うん。明日から長野に行ってくるよ。母さんとこれ食べるから」
プリンの入っている袋を持ちあげて目配せして見せる。
私も後ろ手に袋を持って来ていて、それを彼の自転車の前かごの中にそっと入れた。
「本当にありがとね。一生懸命やってくれて感謝してる。安いもので申し訳ないけど私からのお礼。良かったら使ってね」
「わわ。貰ってばかりで悪いな。結構大きい…これ何?」
「湯たんぽ。一晩中ぽかぽかして気持ちいいよ」
「へぇー…さっそく今晩使ってみる、サンキュ。今度さ、またカラオケ行こう。俺の小倉圭メドレー聴かせてやるから」
「だーめ、行かない」
「ちぇ」
苦笑しながら自転車にまたがる。
「じゃ行くよ。頑張ってな」
「ありがと、風見君もね」
もう彼はここに来ることは無いかもしれないけど、この一か月足らずで3年間見てきたことよりずっと多くの風見君を知れて、それが無性に嬉しく思えた。