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エチュード

マジックガール

 生きていることの重責が、苦いうめきをあげて胃の腑を締めつける。いっそ死んでしまおうと空想すれば、ひとときの安らぎを得られた。そうだ、死んじまおう、死んじまおう。傍目はためからは健康そのものの男がひとり、なんら予兆なく命を絶ってしまったら、どうだろう。余所よその人間にとって、悲しいものだろうか。わずらわしいものだろうか。僕は死をもって赤の他人どもに痛快な一撃を与え、そうして静かに、自然の成り行きで、また、忘れられる。年寄って死ぬより清涼だ。椿つばきの散りざまだ。想像するだに堪らない。


 夜とは、こうやって明かすものだ。布団の中で、いつまでもひとりきり、さめざめと、一途いちずしぼんでいくものだ。ペシミストなんて、いやらしい。だから僕は、人前で黙っている。黙ったあとで、文字をしたためる。外面は気丈で、誰もこいつの内側が狂っているとは思うまい。今時の若者はきっとこういう遣り口だ。それとも、僕だけだろうか?


       *


 窓の外が白みだした。じきに騒がしい朝になる。


 僕は空腹に耐えかねて、まだ町が閑散としているうちに靴を履き、外にでた。空腹を満たすには、牛丼屋が楽でいい。いつぞや大学生協で買った自転車の折れかけたサドルにまたがって、ふらふらとだらしなく漕ぎすすむ。歩道の上で信号待ちをしていると、あとから来た徒歩の女性が、いくらか距離をおいて横に並んだ。


 白のブラウスとチェックのスカート。どこかの学生服を着ている。どこの高校生か知らないが、他に通行人は一人もいなくて、登校時間にしては随分と早すぎる。さては不良少女かと思うが、それにしてはれた人間の雰囲気がない。横顔は如何いかにも品行方正で、しかしずっとうつむいている。思い詰めた人間の重苦しい溜め息が、ひとつ地に落ちた。僕のものではなく、実際彼女の溜め息だった。


 赤信号が青に変わり、再び自転車を漕ぎだす。今さらになってやって来た睡魔を噛んで呑みこみ、のろのろと、いくらも漕がないうちに目当ての牛丼屋に着いた。後ろのほうで「あっ」と、頼りない声がした。


 振り返り、さっきの女の子に追いつかれたのだと理解する。僕も彼女も意味なく立ち止まり、ぎこちなく向き合って沈黙を持て余し、どこの誰かも知らない相手に遠慮して、配慮して、何か言うべきだろうと言葉を探した。


「いらっしゃいませ」と彼女が言って、はにかんだような笑顔をした。


 お愛想あいその笑顔だ。だけど彼女にはどこも偽りがないように思われた。


「あ、おはようございます」


「おはようございます」


 挨拶を返してぺこりとお辞儀を済ますなり、彼女は駆け足で、店の裏手に逃げていく。そういえばこの牛丼屋には、あの女の子のような店員がいて、もう何度も言葉を交わしているはずだ。たぶん目を合わせたのは、今日が初めてだっただろう。


「なるほど、逃げ足が速いのか」


 一人きりでそう呟くと、心がすこし、軽くなった。


 つくろった笑顔や本意でない義務の挨拶に、時に救われもするのだ。



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