9 観察するセラフィ
セラフィがアルヴァンの家で、彼の補助や家事その他の事をするようになって一ヶ月と少しが経過した。
それはセラフィにとって体験した事の無かったような、穏やかな日々だった。
アルヴァンはセラフィに非道な事を強いたりはしないし、無理矢理に、無茶な事をさせる気配もない。
いつもセラフィの事を気にかけてくれて、何かにつけてお礼を言ってくれる。
そんな相手との生活は本当に体験した事のない物で、何度もセラフィは戸惑っていたのだが、アルヴァンはそんなセラフィを優しい顔で見てくれる。
「俺のしている事は普通の事だ」
というのがアルヴァンの主張で、セラフィにとって必要な、しかし羞恥心を覚えない物をくれる事に関しては
「当たり前の物を支給しているだけで、そんなにかしこまらなくていいものだからな」
これもそんな事を主張してくるわけだ。
今のところ寝具一式ほど高価な物を渡してくる事はもうないので、セラフィとしてはそこまで心苦しくなく受け取れる。
セラフィの分の食器。セラフィのための髪を洗うための洗剤。セラフィのための石鹸。セラフィが必要なタオル。
それらは皆、生活必需品のたぐいで、それらをアルヴァンは大した事でもないし、支給するべきだと言う姿勢を崩さずに、与えてくれた。
そのためセラフィは、だんだん訳が分からなくなってくる。
恋人にすら用意してもらえなかったそれらの品々は、本当にうれしくて、そしてそれらは、どこか境界線がきっちりと定まったものばかりだ。
さらにセラフィがいくつか観察したり推測したりした所、アルヴァンは住み込みの介助人にとっての、生活必需品にはお金を払うけれども、セラフィ自身がちゃんと選んで決めたい物、たとえば靴や洋服などの個人的な物に介入するつもりがない事も分かった。
少しセラフィには、アルヴァンがいったいどこでこれだけ色々なものを購入する資金を手に入れているのか、不安だったが、これに関してもアルヴァンの方から答えが用意された。
「アルヴァンさん、私のためにたくさんのお金なんて使わないでほしい」
そうセラフィが訴えたところ、アルヴァンはさらりと
「退役軍人の年金がそれなりに入っているから大丈夫だ。そこから、セラフィへの給料としてあれこれ用意しているまでの事だから、お金の心配はしなくていい」
そう答えてくれたのだ。セラフィももちろん、国のために働き、その結果軍役を続けられなくなった人が、申請すれば一人暮らしの分程度の年金が支給される事は知識で知っていたのだが、それを実際に受け取る人を見た事がなかったので、アルヴァンの言葉に納得した。
そして何よりも、アルヴァン本人はあまり欲望がないのか、特に何かを購入するという事が少ないから、セラフィに少しずつ、生活必需品を買い与える余裕があるらしい事も分かった。
これに関してはセラフィの方が
「アルヴァンさんはもっと、自分のためにお金を使った方がいいよ!」
と主張したのだが、アルヴァンの方は不思議そうに
「だから、セラフィに使っているんじゃないか。セラフィの居心地がよければ、この家も快適だろう?」
そんな事を言ってくるわけで、相談のしようがない。
また、アルヴァンは町でもそれなりに有名な人だったらしく、アルヴァンの日課であり歩行訓練の一つである、朝方の散歩を一緒に行っていると、よく声をかけられた。
だいたいが
「アルヴァン、あんた生きていたのか!」
である事から、町の誰もがアルヴァンが死んだと思っていた事が明らかで、隣で時に手を貸したりしているセラフィを見てから、アルヴァンの方を見て聞いてくる。
「こちらの女性は誰なんだ、アルヴァン」
これに対する答えはいつも同じで、アルヴァンは穏やかに
「マルタさんが雇ってくれた、住み込みで補助をしてくれているセラフィだ」
である。セラフィという名前には、この町でもいい評判はなかったはずなのに、誰しもがうんうんと頷いてから
「よかったじゃないか、青い髪の毛のセラフィっていったら、献身的な働き者って評判なんだぞ。いい人を雇えたな、アルヴァン」
そんな反応が返ってくるので、セラフィは訳が分からなくなったりした。
その他にもセラフィの生活の変化は細かく色々あり、まず人から避けられなくなり、食料品の買い物の際に、汚い物を扱うような対応をされなくなり、通りを歩くだけで舌打ちをされたりしなくなった。
それは、男爵家に行く前の子供時代に近い対応で、絶対にアルヴァンが何かしたんだと、セラフィは思った。
そのためアルヴァンに、
「いったいどんな魔法を使ったんですか?」
こんな問いかけをしたのだが、アルヴァンの方は何もしていないと言う調子で
「セラフィの心根の良さが、ついに皆にも伝わったんだろうな」
と返すばかりだ。
恋人だったローレンスに捨てられて、アルヴァンの家に住み込みで働くようになってから、いい事ばかりが続いている。
まるでアルヴァンさんは、善き魔法使いといわれている人達みたいだ。
セラフィはいつも、そんな事を思いながら、アルヴァンのために家が居心地がいいように、整えるのだった。
ほかにもセラフィは、マルタの所の事務の手伝いを副業で行う事にもなり、アルヴァンの機能が回復した後も、仕事に困らなくなりそうで、ほっとする事になった。
マルタはまさか、セラフィに事務仕事の経験があると思っていなかった様子で、ちょっと帳面の手伝いをしてくれという話から、どんどん任される事が増えて、正式に雇ってもらう事に発展したわけだった。
セラフィとしては、マルタの息子とは顔を合わせたくなかったのだが、マルタの息子は母親の仕事場に顔を出す事がないので、安心して仕事に精を出せるわけだ。
「うちの息子は絵しか興味がない。絵の中の美女にしか興味がなくて困ったもんだ」
とはマルタの言葉だった。さらに愚痴を聞く事になったところ、マルタの息子は、本来お礼金が発生する裸婦画の対象に、お礼金を支払わず、話が違うと、その相手がマルタの息子が通っている絵の学校に怒鳴り込みに行き、学校の信用問題に発展し、大問題になったらしい。
確かに、学校の生徒がそんな真似をしたら、学校にも嫌な評判が立つだろう。事実話を聞かされたマルタがかんかんに怒って、自分でお礼金の用意をしろと言い放った結果、息子は絵の勉強どころでなくなり、お礼金の支払いのために、日雇いでこき使われているそうだった。
「ちょっとうちで、甘やかしすぎたのがよくなかった」
というのがマルタの言葉である。
そう言うわけで、セラフィの一日は、アルヴァンを訓練施設に送り届けたら家の仕事をして、それからマルタの所に仕事をしに行き、程々の時間になったら夕飯のための買い物を行い、アルヴァンの帰りを待つという物になったのである。帰りは一人がいいと、アルヴァンが言った事もあってだった。
その日もセラフィは、アルヴァンの帰りを待っていた。しかし、いつもならば帰ってくる時間になっても、彼が帰ってこない。
もしかしたら、誰か知り合いに声をかけられて、近況報告とかで盛り上がっているのかも。
ありそうな事をセラフィは考えて、一時間は待っていたのだが、それでもアルヴァンは帰ってこない。
それはさすがにおかしくて、セラフィは彼を迎えに行く事にした。
夕方も過ぎれば、町は酒を飲む人間が増えるから、若い女の子が一人でふらふらするのはよろしくない、とマルタもアルヴァンも、マルタの夫のジョバンニも言うのだが、そのアルヴァンが帰ってこないのだ。
仕方のない事、と後で怒られるだろう事は割り切り、セラフィは夜の町を歩き出した。
ローレンスといた時はこの時間も働いていたな、とセラフィは思い出してから、今との違いに人生って何があるかわからない、としみじみした。
そしていつも通りの訓練施設までの道を歩きながら、彼の姿を探すセラフィに、一人の女性が走ってきた。かなり焦っている。
「あなた、アルヴァンのセラフィね!?」
「は? 私はセラフィで、アルヴァンさんのおうちで介助をしてるけど……」
「ごめんなさい、ごめんなさい!! こんな事になるなんて思わなくて!!」
「あの、何に対して謝って……?」
「こっちに来て!」
「え。え?」
何がなんだか、さっぱり分からなかったセラフィの腕を強くつかみ、女性は彼女を引きずる勢いでどこかに連れて行く。
こちらの通りは、明るいうちはいいけれど、暗くなったら女の子が通ってはいけないと言われている通りだ、と歩きながらセラフィは思い、そして……それを見る事になった。
人垣が出来ていて、衛兵はまだ来ないのかとか、誰か血止めをもってこいだとか、そういった騒ぎになっている。
何かとてもいやな予感がして、セラフィは自分を連れてきた女性が、人垣を割るように進むのについて行き、それを見る事になった。
見た瞬間に、血の気が一気に引いていき、目の前の物が現実か信じられなくなり、わなないた口が悲鳴の形をとって、叫んだ。
「アルヴァンさん!」
人垣の向こうにいたのは、壁に寄りかかり動けなくなっているアルヴァンで、彼は夜の明かりの中でも分かるほど、血塗れになっていた。
手ひどく顔を殴られていて、吹き上がりそうなほど鼻血を出して、腹部もどす黒い。まさかお腹の方は刺されたのか、と悪い想像をしながら、セラフィはアルヴァンにかけよって、すぐに怪我の状態を調べた。手触りから、どこかの骨をひどく折られたわけではなくて、だがやはり腹部を深く刺されている様子だった。
「お嬢ちゃん、それ以上触っちゃいけない、毒の付いた剣で刺されたんだ!」
そう怒鳴ったのは、衛兵を呼べや、治癒師を呼んでこいと叫んだ誰かで、もう何人もの人間が、そう言った人を呼びに走っている事が明らかだった。
だがこの通りの一番はしにある、衛兵所の一つまでは遠く、治癒師が夜も勤務している医療所は、もっと遠い。
誰も止血が出来ないでいたのは、毒に対する恐怖から。
セラフィはそこまですぐに察して、それでもアルヴァンに声をかけた。
「アルヴァンさん、意識はある? 私だよ、セラフィ! 大丈夫じゃないよね、でもがんばって!」
セラフィはきつく腹部の傷を押さえていたが、手のひらを溶かすような痛みがじわじわと広がり、刺した何かに付いた毒は、相当に強いのだとここでわかった。
それでもセラフィは、止血のための手を離さない。
「お嬢ちゃん! あんたの手が、煙を上げているよ! 手を離すんだ!」
誰かまともな人間が怒鳴るのだが、セラフィは言う。
「だって、血を止めなくちゃ」
そう言ったその時の事だった。セラフィの頭をよぎったのは、小さな頃の記憶である。
とても小さな頃。まだ男爵の家に行く前。セラフィは一緒に遊んでいた男の子が、廃屋の屋根から落ちて、頭から血を流して倒れてしまった時の事を思い出したのだ。
あの子はあの時死ななかった。それはどうしてか。
「……!」
そうだ、すっかり忘れていた。いいや、”忘れさせられていた”。あの時、友達を助けたいセラフィは、その子の手を両手で握って、必死に祈ったのだ。
”助けて”と。
そして、遊び仲間の子供の一人が大急ぎで呼びに行ったのは、その廃屋がある通りに暮らす変人の魔法使いで、その魔法使いが駆けつけた時、こう言ったのだ。
「君は魔力変換率が強すぎるね。過ぎた力は災いを呼ぶ。……忘れなさい。ここは私がこの少年を治したと、覚えているんだ」
そう、セラフィの額に指を当ててつぶやき、セラフィは自分の行った事を全て忘れたのだ。
どうして今、それを思い出したのかは分からない。
でも。
それと同じ、奇跡に似た物を起こせるならば。
セラフィは毒のせいなのか、出血が多すぎる事によるのか、呼吸も怪しくなってきているアルヴァンの手を、両手で包み、目を強く閉じて、力一杯祈ったのだ。
「助けて、治して!」
ちょうどその時だったのだ。知らせを受けて駆けつけた衛兵や、近くの飲み屋で飲んでいたらしい、治癒師が騒ぎを聞いて走ってきてくれたのは。
「君、それ以上はもう大丈夫だ! すぐに医療院に運ぶからな!」
「運がいい、まだ息がある。誰か手伝ってくれ!」
駆けつけた彼等は、すぐさまセラフィをアルヴァンから引き離し、そして素早く応急処置や、その他の事をし始めたのだった。
「君も、手が大変な事になっている。一緒に来てくれ」
「はい。アルヴァンさんは、助かりますよね!?」
不安にかられたセラフィの声に、治癒師は状態を見てこう言った。
「それは、治療してみないと何とも言えない。ここで断言はできない」
「っ」
速やかに担架が用意され、意識のないアルヴァンが運ばれる。セラフィもここに来て痛み出した、両手を押さえながら、走る彼等の後を追いかけたのだった。
セラフィをあの場所に連れてきたのは、アルヴァンの元恋人だった。
しかし三年前に、戦地へ赴くアルヴァンに行くなといい、意見の相違で別れた人で、その後アルヴァンへの当てつけのように、アルヴァンの恋人だった頃から言い寄ってきていた人と交際し、今年結婚した人だった。
ここまでなら普通の話で、ありふれた恋愛の終わり方と言っていいだろう。
そこからが問題で、この言い寄ってきていた男の方の独占欲が強すぎて、彼女は男性と仕事で話すだけで、浮気を決めつけられて罵倒され、疲れ果てていたらしい。
そう言う事が続いていた時に、アルヴァンがこの町に戻ってきた事で、彼女はアルヴァンのいいところだけを都合よく思い出し、今の夫と別れてアルヴァンとやり直す計画を立てたのだ。
そして偶然を装ってアルヴァンに声をかけ、大通りの店の前で夫の愚痴を言い、さりげなく迫ってみたのだ。
だがアルヴァンの方は、終わってしまった恋愛に対しての未練や心残りなど無く、単純な愚痴だという反応をしていたらしい。
これはその話を、女性がしていた店の店員が、証言した。ぜんぜんなびいてませんでしたよ、と衛兵に証言したのだ。
ただここからが、アルヴァンの不運で、彼女の夫に話している現場を見られ、そして夫の方もアルヴァンが妻の前の恋人だとよく知っていたので、とたんに頭に血が上り、動きの不自由なアルヴァンを引きずっていき、話をいっさい聞かずに暴行の限りをつくし、頭に上りすぎた血のせいか、やめどきを見失い、持っていた剣に毒を付与して、薄汚い泥棒やろう、とアルヴァンを刺したのだ。
話していた妻の方は、夫の激情があまりに恐ろしく、止める事もしないでそれを見続け、そしてそこまでやってしまった夫が、我に返り逃げ出した後で、恐ろしさのあまり走り出し、ここでセラフィに出会ったわけである。
アルヴァンはとんだとばっちりである。なぜそんなひどい目に遭わねばならなかったのか。ただ昔の恋人に話しかけられ、一方的に旦那の愚痴を聞かされて、それだけだったのに。
そう言った事情を衛兵から聞かされたセラフィは、ひどい話すぎると言葉が出なかったし、結局その元恋人の夫は、やりすぎたので捕まった。
そして、アルヴァンは運良く命が助かったのだが、解毒のために、しばらく寝床から動けない生活を始める事になってしまったのだった。
セラフィは、とばっちりを受けたアルヴァンを絶対に見放すつもりはないので、医療院で、そういった状態になった人の面倒を見る方法を教えてもらい、そして医療院からも毎日、様子を見る治癒師が派遣される事になったので、よかったと心から思ったわけだった。
セラフィ自身の両手も毒によりただれ、ひどい有様だったが、これは治癒師の治療がよかった事で、二日で包帯もとれて、日常生活が送れるようになったのだった。