8 秘密基地のセラフィ
契約書はしっかりと取り交わされた。これによりセラフィは大家であったマルタと雇用契約を結ぶ事になり、アルヴァンという、マルタの親戚の家で住み込みの家事手伝いその他を行う事が、決定したわけである。
住み込みならば、いったいどこで寝泊まりするのだと言う話になったのだが、ここでセラフィが思っても見なかった事が判明した。
「あの家には小部屋があっただろう。アルヴァンあんた、あそこを物置にしていやしないだろうね」
マルタの言葉により、セラフィはあの家にもう一つ小部屋があった事実を知ったのである。
「あのおうちにそんな所があったんですか?」
「あるんだよ。二つ玄関があっただろう? あれは小部屋の住人が、自由に出入りできるようにって作られているんだ」
「なんでそんなところが」
セラフィからすれば思いもしない物で、マルタはこう言ってきた。
「あのアパートはずいぶんと前に私が購入したものでね、独り身の時はそこに訳ありの従業員を住ませていたのさ」
「マルタさんって、実はかなりの……」
やり手では。とセラフィは言い掛け、マルタの夫が言う。
「うちのかみさんは、そう言うところをかぎ分けるのがとんでもなく上手でね、大失敗にはならないのさ」
「経験がこれは物を言う世界だよ。さて、アルヴァンはあそこをどう使っていたんだい」
「使うも何も、あの場所の鍵は壊れているのか、全く開かないから、開けた事すらないんだが」
「あそこの鍵が壊れていた? ……あんたねえ、そういうのはちゃんと修理をしなくちゃだめだろう」
「開かなくとも十分な生活が出来るものだから」
「それで八年も暮らしてたって事が驚きだよ」
マルタは少しあきれた調子だったが、そこでふとセラフィは気になったので問いかけてみた。これくらいは聞いても許されそうだな、と思った事を。
「あの、アルヴァンさんの暮らしているあの部屋が、元々マルタさんの物なのに、どうしてアルヴァンさんが所有しているんですか?」
それには全員、大した秘密でもないと言う声で答えた。
「ああ、アルヴァンが独り立ちした時に、一年分の給料をためて、私から買ったんだよ」
「独り立ちする前から入れてもらっていて、居心地がいいものだから、契約に縛られないでおきたかったんだ」
なるほど。マルタから自分の家と言う事で購入し、三年行方不明になった事で再び、マルタの方に所有権が移ったという話だったのだろう。
あの空間はたしかに、なんとなく居心地のいい風が流れている一階なので、購入できるならそれに越した事はないと考えるのも変ではない。
親戚という事で、買う相談もしやすかっただろうし。
セラフィは納得したので、それ以上の事を言わなかった。
「さて、アルヴァンはまだ、色々な手続きがあるんだろう? こんな朝っぱらからうちまで来たんだ。この後の予定はどうするんだい」
「訓練施設に登録に行こうと、思っているんだ」
「なるほど、それが出来るくらいには体も回復したって事なんだね。本当は寝込むような体なのに、無理してうちに来たわけじゃなくてよかったよ」
「痛み止めの薬草なら、うちで親戚値段で売ってやるからな」
「いつもありがとう、マルタさん、ジョバンニさん」
アルヴァンはそういって頭を下げ、セラフィの方を見やった。
「さて、君の寝床をどうにかしないとな」
「小部屋の鍵も開けなくちゃいけないしね」
小部屋があるなら、着替えの時に遠慮をしなくていいだろう。
それは男女と言う事で、住み込みでの仕事でもとてもありがたい話だった。
「セラフィは家事魔法が得意だと言っていたが、簡単な修復も使えたりするのか?」
「上級の”修復”は使えないけど、初級位だったら使えるんだ」
「セラフィはそう言った職業訓練所で、一生懸命に学んでいたんだな」
アルヴァンの考え方はありふれたもので、平民でも、それなりに素質があれば職業訓練所で、仕事の選択肢が増える家事魔法の修得は推奨されている。
セラフィがまさか、貴族の家の娘だったとは思ってもいないのだろう。
おそらくアルヴァンは、セラフィがそこそこの魔力を持った平民の少女で、働き口を探すために、職業訓練所でそういった技術を修めたと考えているのだろう。
セラフィは否定も肯定もしなかった。
自分の身の上の事は、まだ話す事にためらいがあり、そして思い出したくない事の一部である。
そのためセラフィは、否定も肯定もしない代わりに、こう言った。
「すごく、勉強したんだ」
事実だけを。
そしてアルヴァンが訓練施設に登録している間に、セラフィは一度家に戻り、問題の開かない鍵穴が、どういう状態で開かないのかを確認する流れになった。訓練施設の登録に、セラフィがいても何にもならないからだ。
もう何年も閉じられた空間というわけなので、大がかりな修繕が必要かもしれないので、確認は早い方がいい、という話であるわけだ。
家に戻ったセラフィはまず、外の玄関の方から、鍵の状態を確認した。
マルタから教えてもらったのだが、少し不用心だが、鍵は二つの玄関の両方とも同じ形だそうで、鍵を差し込めば開くはずになっているのだ。
セラフィは、小部屋があると思わなかったので、玄関は一つでいいから開けようとも思わなかったのだが、実は防犯上の確認は大事な物だった。
ちょっと警戒心が足りなかったな、とセラフィは少し反省しつつ、鍵穴に鍵を差し込んだ。
鍵穴と鍵に異常は感じ取れず、普通の手応えである。セラフィはそれを回して開けようとしたのだが……妙な事に、鍵は開いたはずなのに扉は開かない。何度か押したり引いたりしてみたのだが、がちゃがちゃという音はするのだが開く様子を見せてくれない。
扉の方が壊れているのかもしれない。
セラフィはそう判断して、鍵を締め直し、今度は家の中に入って、内側から、小部屋に続く台所の扉の鍵を開けようとしてみた。
こちらも鍵は開いた気配があるのに、扉が頑固に動く様子を見せてくれない。
なんだろう。
セラフィは少し考えてみて、鍵穴や鍵ではなくて、扉や壁の方を調べてみる事にしてみた。何かあるかもしれない。
しかし、扉や壁の方にも、おかしな物や異常な物は見つけ出せず、手詰まりになったセラフィは、だめで元々、と扉のドアノブを握り、”修復”の低級の物を流し込んでみた。
もしかしたら、扉や壁が時間の流れでどこかゆがみ、どうにも開かないのかもしれない、と思いついたからである。
魔法のかかった部屋などの場合は、大量の魔力を消費する大規模な”上位修復”が必要だろうが、この家は見る限り普通のアパートの一室なので、それはないだろう。
そして”修復”はちょっとした扉や壁のゆがみ程度のものだったら、直せる便利な呪文なのである。
平民といわれる人達でも、これを自在に操る事で、中流貴族くらい稼ぐ人もいるので、職業訓練所では魔力さえあれば誰しもが、ある程度は修得したい呪文である。
だが実際には、いくら便利でも、魔力調整が細かい事から、難しさで断念する人も後を絶たない呪文だ。
セラフィはこれもまた、学校の図書館で覚えて、男爵家の自室であった物置で、朽ちかけた書き物机などを使える程度に直す為に覚えたし、練習もした呪文なので、低級のものだったらそこそこの直し方が出来るのだ。
これも家事魔法といわれるくくりにあり、やはり貴族の子女達は必要に迫られる事があまりないため、覚える事をしない魔法である。貴族は泥臭い魔法を覚えたがらないのだから。
そして、運が良かったのか、セラフィの低級の”修復”をかけられた壁や扉は一瞬光って、セラフィはもう一度、扉を開こうとしてみた。
鍵を開けて、ドアノブを回して、少し力を入れて押すと、先ほどはあんなに力一杯押しても引いても、動くまいとしていた扉がすんなりと開き、セラフィは何年も開かずの間であったそこを、見る事が出来たのだった。
「埃っぽいなあ……」
何年も開く事の無かった部屋は埃にまみれており、セラフィはまず、中に入ってすぐに窓を開けた。煙のように埃が舞うんじゃないかという世界だったので、セラフィは事前に口や鼻を布で覆って作業した。
そこはたしかに小部屋というか、物置というか、そんな言葉が似合いそうな狭さだったものの、窓も大きく、窓の下には備え付けの机があり、面積にあわせた空っぽの棚と、梯子を使って棚の上に上れるような仕組みになっており、棚の上には柵がついている事から察するに、そこを寝床にする仕組みの調度品であるらしかった。
そして外につながる扉の前は、靴を脱ぐ仕様であがりはだになっており、蜘蛛の巣が張っている。
「よし。アルヴァンさんが帰ってくる前に、掃除を終わらせなくちゃ」
これからここが自分のちゃんとしたおうちなのだ。セラフィは気合いを入れて、掃除用のゴーグルという、マルタから借りたものを身につけて、そこを徹底的に掃除する作業に移ったのであった。
掃除している間中、やたらに上の階が騒がしかったのだが、何か大きな虫が出たんだろうと、セラフィは気にしてもいなかった。セラフィは物置暮らしの結果、かなり虫に耐性がついているが、そうでない人はこの世の中にたくさんいるわけで、そう言う人が運悪く出くわすと、そんな叫び声も出るだろう。
「やっぱり築年数の長い建物は、色々大変だよね」
独り言を言いつつ、セラフィはアルヴァンが帰ってくる前に、なんとかそこが使い物になるくらいに、掃除を終わらせたのだった。
ここにももちろん”害虫駆除”を使ったので、セラフィの嫌いな刺してくる虫は当面は現れない。
一昨日は小部屋の存在を知らなかったので、小部屋の分までそれをしなかった。そのため念のためというわけで、また”害虫駆除”をかけたのであった。
「こんなに色々もらえないよ!」
「君に対する初期投資だ」
「何それ!」
セラフィは思っても見なかったアルヴァンからの初期投資に、とにかく目を丸くしてしまうほかなくて、当たり前のようにそれらを差し出してくるアルヴァンから、うまくそれを受け取れなかった。
「奴隷生活を三年も経験して、身についた事実だが……人間は割とどこでも眠れるが、眠れるから体の疲労が無くなるわけじゃない。昨日もセラフィには床に毛布で眠らせてしまって、本当に申し訳なかったんだ」
「でも、これって、マットレスに毛布に枕! 新品のシーツは洗い替えまであって!! 高くなかったの!?」
「初期投資はあまり惜しんではいけないんだぞ、セラフィ」
「そこまでしてもらう理由がわからないよ!」
「これからしばらくの間、かなりの迷惑をかけてしまうかもしれないんだ、もらっておいてくれ」
訓練施設から戻ってきたアルヴァンは、掃除を終わらせて、自身の埃も風呂場で落としてきたセラフィに、道具袋を差し出した。
道具袋は、これも四世代前の天才令嬢の発明品で、どんなに大きな物を入れても大きさが変わらず、重さも変わらないという、今でこそ平民にまで普及したが、当時はとんでもなく画期的なものと言われていた品物である。
ちなみに製作技術は国家機密の一つとされており、未だにこの国の専用施設でしか製作されない魔法の袋である。
値段は、天才令嬢であった国母の願いにより、割と低価格で購入できる。
道具は普及してなんぼ、と言ったとか言わないとかが、記録に残されているほどだ。
さて、そんなありふれた道具袋の中身を開けてみて、セラフィは驚くほか無かったのは、明らかに雇う側が渡すにしては、価値のある物が入っていたからだ。
どうしたって寝具一式は、そこそこの値段になってしまう物である。
それをアルヴァンは惜しみなくセラフィに渡したわけで、彼女が仰天するのも無理はない。
「お給料より高いよ!」
セラフィは考え直すように伝えたのだが、アルヴァンの方もこれに関しては譲れなかったのか
「君に、俺が体験した奴隷時代のような眠りを、体験して欲しくないんだ」
この言葉に折れた結果、セラフィはその寝具一式を、小部屋の自分の寝床になる場所に、設置したのであった。