6 追い出されないセラフィ
「君は料理も上手だし、掃除もうまいし、何でも出来るんだな」
セラフィが用意した食事を食べながら、アルヴァンが感心した調子でそう言った。料理がうまいとほめられたセラフィは、それに対してこう反論する。
「あんまり、お世辞を言わなくていいよ」
もう、取り繕っても意味がない気がしてきたので、セラフィの口調は普段通りのものになっていた。相手も、丁寧な口調ではないため、おあいこだ。
「素直にうまいと思ったんだが、何か気に障る事だったか?」
「……一緒に暮らしていた恋人が、最後にまずいって言ってたから」
「それはおかしい。セラフィの料理はちゃんとしたものだし、おいしいと思うぞ」
アルヴァンさんは奴隷になっていた時間が長いから、何でもおいしいんじゃないかなと、セラフィはふと思った。だって三年だ。
三年も、劣悪な環境にいて、そこで与えられる食事って、まともとは思えないので、そんな事を考えてしまったのだ。
アルヴァンさんは、きっと今はなんでもおいしく感じちゃうんだろう、とさえ失礼ながら思ってしまった。
ローレンスはまずい食事を我慢していた、と言っていたのだ。一年間、ありったけの心を込めて、材料もローレンスの好みに合わせて作ったものが、まずいと評されたのだ。
それよりも節約し、材料も安くていいものじゃない食べ物が、おいしいと言われるのは何か、変な気がしていた。
「調味料は、前の家から持ち出したから、それで、じゃないかな」
何とかセラフィはそう言った。調味料や香辛料は、しっかり密封して、鞄に背負って持ち出したのだ。家具や服や調度品は、中古でも買い手がつきやすい物と言っていいが、使いかけの調味料や香辛料は、それを買いたいと言う人もあまりいない物だし、物によっては結構高額だ。
それもこれも、ローレンスがあれが食べたい、この味が恋しい、とセラフィに言っていたからそろえたものである。
そうだ、きっとそうなのだとセラフィは納得した。それなりの調味料や香辛料を使っているから。
だからおいしいのだ。きっとそうだ。
セラフィは自分も食事をしながら、そう結論づけた。いつまでもローレンスの事を引きずるのは、未練がましいけれども、一年と少しという時間は、若い女の子にとって決して短い時間ではない。長い時間だ。
その時間の間、愛して献身していた相手の事をすぐに忘れたり、割り切ったりしろというのは、なかなか、難しい物である。
そんな事を考えながら食べ物を口にしていたからだろうか。
アルヴァンがセラフィの方を見て言った。
「君は、おいしい物を難しい顔で食べる癖でもあるのか?」
「えっ?」
「眉間にしわを寄せながら、食べているから気になったんだ。何かこの料理に、いやな思い出があったのか?」
「う、ううん! そんなんじゃ、ないの。そんなのじゃ」
「そうか。ほら、君はそんなにやせ細っているんだから、もっと食べなければだめだ。材料も君のお金で買ったものなんだろう? 俺に遠慮したりしないで、もっとたくさん食べろ」
アルヴァンはそう言って、なかなか食事を進めないセラフィに皿を押しやる。
こんなところで、ローレンスとの大きな違いを見た気がして、セラフィはちょっと黙った。
こう、いつまでも元恋人と、偶然出会っただけの人を比べるのはおかしいような気にもなるのだが、同じ男性という形で、比較してしまうのは仕方のない事だろう。
ローレンスはたくさん食べる男で、セラフィの分まで食べる男で、そのためセラフィは自分が食べる量が少なくても、彼の分として笑顔で渡してあげていた。
それもあってセラフィはどんどんやつれて、やせ細って、今のがりがりの姿になってしまったのだが、好きな人にお腹を空かせて欲しくなくて、その思いで食事を渡し続けたのだ。
栄養のある物、おいしいもの、ちょっといいもの。それらは二人分買ったはずでも、八割どころか九割は、ローレンスの方に流れていた。
セラフィはそれでも、文句を一つも言わないで笑い続けたのだ。
ローレンスはそれだけ、セラフィから食事を奪っておきながら、別れる時にはまずいと酷評したわけである。
まずくても、空腹を感じるよりはましという事だったのだろうと、セラフィは思っていたのに、アルヴァンがそれを覆し続けているのだ。
おいしい、おいしいと、言って食べてくれる。
自分だってお腹いっぱい食べたいだろうに、奴隷の時代は空腹がつらかったんだろうに、何とか一人分の材料で、お腹が膨れるように工夫した節約料理を、セラフィの方にもっと食べろと勧めてくる。
わけがわからなかった。セラフィの料理はまずいんじゃなかったのか。
……まあ、まずいと言われた料理でも、用意するといって振る舞ったセラフィもセラフィだ。
どこかに買いに出かけるにはあまりにも時間が遅く、アルヴァンは買いに行くと言ってそのままいなくなりそうだったから、という理由もあって、セラフィは、さすがにまずくなりようのない調理方法で、食事の支度をしたわけだが。
「……どうしたんだ、そんな今にも泣き出しそうな顔をして。君に泣きそうな顔をされると、どうにもどうしたらいいか分からなくなるんだが」
「え、えっ。なんでもないの、なんでも! でもアルヴァンさん、お粥と野菜のスープだけで足りそう?」
「家に帰ってくるまでの数ヶ月の旅では、ひたすら干し肉をかじって、干した果実と脂を固めた携帯食を水で流し込む生活だったからな。こうして温かいものだというだけで、かなり満足感がある」
「そっか……」
「それに、セラフィの料理は優しい味がするから、胸がいっぱいになるからかもしれない」
「ま、まずかったら食べなくていいからね!?」
思っても見ない事を言われたセラフィは、慌てた物の、右手でぎこちなく匙を動かして、食事を進めるアルヴァンは首を横に振る。
「だから、セラフィの料理はちゃんとうまい」
「……」
それ以上の言い合いはなんだか出来なくて、セラフィは黙って、机の上に置かれた鍋の中のお粥を、お代わりした。
そうして、ニ杯目を食べ始めたセラフィに、アルヴァンが優しい顔で笑う。
「我慢しないで、ちゃんと食べた方がいいぞ、セラフィ」
「……」
痛い事も悲しい事も、つらい事も苦しい事もないのに、訳もなく泣きべそをかきそうになったセラフィは、それを飲み込んで、とにかくお粥のニ杯目を食べる事に集中したのだった。
今日はもう遅いから、とひとまず二人は休む事で話し合いは終わり、セラフィは寝台の主であるアルヴァンに、そこを押しつけた。本物の家主の方が優先されるべきだと主張したセラフィに、アルヴァンはまた押し負けたのだ。
「……本当に申し訳ない。俺が女だったら、一緒に寝ようと言えたんだが」
「気にしないで、いいの! 大丈夫! 毛布も貸してもらえたので」
セラフィはそう言って、実際にアルヴァンの寝台から少し離れた、毛布を広げられる場所に実際に寝転がった。本当に床をしっかり掃除して置いてよかったなとセラフィは思った。
そして二人とも、明かりを消して就寝したのだが、数時間後、セラフィは呻く小さな声で目を覚ました。
「……」
アルヴァンが、左腕を押さえて呻いていた。小さな声だったから、セラフィに聞かせるつもりなど欠片もなかっただろう。
その声は、食いしばった歯の隙間から聞こえる声だった。
「アルヴァンさん、痛むの?」
起きあがったセラフィは寝台に近づき、寝台の脇に座って問いかけた。
「……ああ、すまない……起こしてしまうつもりは……」
「痛い?」
「……この時間になると、な」
アルヴァンが受けた傷は相当なものだったのだろう。見た目は治ったように見えるのに、アルヴァンの額には脂汗が浮き、痛みから赤銅色の肌色が青ざめたようにも見えるほどだった。
「ねえ、手を握るよ」
セラフィはそう言って、アルヴァンの痛むのだろう左手を、両手で包み込むように握った。
「学校で、よく言われたんだ。私に手を握ってもらうと、痛みが少し引いてくるんだって。だから、アルヴァンさんが眠れるまで、手を握っていてあげるよ」
「だが、君が」
「気にしないで、私がやりたくてやっている事だから。……なんだかアルヴァンさんを、放っておけないなって思うんだ。どうしてだろうね」
セラフィは少し眠かった。眠くてずいぶんと変な事を言っているかもしれないと思いながらも、口からぽろぽろとこぼれる言葉の中身を、吟味する事はしていなかった。眠かったので。
「痛いのを我慢しているアルヴァンさんが、前の私みたいだからかなぁ……」
欠伸をしながらセラフィはそう言って、それでも寝台から痛みで動けないアルヴァンに見られている事もあまり気にせず、手を握り続けたのだった。
「まあまあまあ!! まあ! アルヴァン!! あんた生きてたんだね!! 音沙汰もないし、同じ部隊にいたって言う人達は全員解放されても、あんたはどこにも見あたらないって聞いてて! 戦争で死んだんだとばっかり!」
「マルタさん、心配をかけてすみませんでした。お元気そうで何よりですよ」
明くる日、セラフィはアルヴァンと共に大家のマルタの仕事場に来ていた。
マルタは最初、アルヴァンを怪訝そうな顔で見たのだが、数秒で親戚の顔を思い出したのか、感極まって立ち上がり、近づいて手を握って、今にも泣きそうな大声でそう言ってきたのである。
「あんたみたいないい男が、死んじゃうなんて世の中も世の中だって思っていたけれど、生きていたんだね、よかった、よかった……」
マルタは泣きそうな顔で何度も頷き、涙のにじんだ目を拭った。
アルヴァンは泣かれてちょっと困っている様子である。そして、騒ぎを聞きつけたのか、隣の道具屋を経営しているマルタの夫も姿を現し、アルヴァンを見たとたんにおいおいと泣きだし、この二人の親戚にアルヴァンが好意的に見られている事が明らかな光景が、繰り広げられた。
それが少し落ち着いた時に、アルヴァンは
「相談があるんです、マルタさん」
と申し出た。マルタはというと、親戚の無事を祝ってか、笑顔だ。
「なんだい、あんたが帰ってきたなんて本当にうれしいよ。ああそうだ、あんたの家や財産を返さなくちゃね。あんたが死んだと思って、こっちで管理していたけれども」
「それですが、俺にどこか、安くても借りられそうな家を紹介してくれませんか」
「何を言うんだいあんたは!」
「アルヴァンさん! それは私がちゃんとどこかに行くって言ったじゃない!」
アルヴァンの言葉に叫んだのは、大家のマルタだけではない。聞いたセラフィも叫んだ。昨日そう言う話で落ち着いたはずではないか。
セラフィはすぐさまアルヴァンに言う。
「あそこは、アルヴァンさんの大事なおうちでしょう! 私は一日しか入ってないから、私物なんて背負った荷物だけでいいんだよ! 出て行くなら私の方で」
「だが、セラフィはあの家を正式に借りているだろう。この場合出て行くのは俺の方だろうに」
そこは譲る気配がないのだろうか。アルヴァンは頑なな気配を見せてくる。
だが、めざといマルタは、そのアルヴァンの顔の半分がろくに動いていない事や、体の左側が奇妙に動きを止めている事に気付いたらしい。
「……あんた、出て行って一人で暮らしていけると思ってんのかい」
「それは何とか慣れていけばいいだろう」
「何言ってんだよ! ……よし決めた。アルヴァン、大家の私が決めた事に文句言うんじゃないよ。賃貸で強いのは大家って相場が決まっているからね」
「マルタさん……?」
いったい何を言い出そうというのか。アルヴァンが怪訝な顔になった時、大家のマルタおばさんは高らかにこう言ったのだ。
「セラフィ! あんたちょっと私に雇われて、アルヴァンの家で住み込みで、家事手伝いをやってくれないかい、やるんだったらあんたの家賃はとらないよ」
「……え、ええっ!?」
「マルタさん! 何を言い出すんだ!」
「うるさいね! 昨日の祝祭日で、セラフィが希望していたような金額の賃貸は、ほとんど契約が決まっちまったんだよ! 後はやたらに高いところばっかりでね! しかもこういうめでたい理由で、こっちの都合だけでセラフィを外に追い出すなんて、出来ないだろう! アルヴァン! それにあんたもその体って事は、長期の訓練で体が回復するまでは不自由だろう? 極めつけ、にセラフィの働いている酒場は、今月いっぱいで閉店なんだよ。なんでも娘さん夫婦が随分前から誘っていたらしくて、娘さん夫婦と一緒に、王都でもっと大きな酒場を開く事にしたってね。どうだい、いい大家だろう!? 全員困らないってね!」
まくしたてるような大家のおばさんの言葉である。
セラフィは思っても見なかった事がどんどん起きていて、ついていけなくて口をぽかんと開けるばかりだった。
アルヴァンの方も、呆気にとられた顔で、大家のマルタと、セラフィと、やれやれ、と言いたそうなマルタの夫を見るほか無かったのだった。