5 出会ったセラフィ
気まずいとはまさにこの事、セラフィは自宅であるはずの建物の中で、男性と向かい合って大きな机に座っていた。
向かい合う男性の顔の半分には、濡らした布があてがわれている。
それもそのはずセラフィが先ほど投げつけた手桶が、彼の顔面の左側を直撃し、彼が呻いて下がった時に、セラフィは素早く風呂場の扉を閉めて、今度こそ言語のある叫び声を放ったのだ。
「変態!! 押し入り強盗!!」
この場合どうすれば自分の身を守れるのだろう。セラフィはかなり慌てていたし、焦っていたし、恐怖も感じていたのでろくな思考が回らなかった。
逃げ出すべきなのだが、全裸のセラフィはそれも叶わない。夕方の町中で、全裸の少女がふらふらしていれば、あっという間に物陰に引きずり込まれて、望まない事をされるだろう。それくらいは予想がついたセラフィは、そこではっとした。
「さっきの男の人、私の事を泥棒とか言ってなかった?」
そうだ、そうだった。男性と思わしき声の主は、風呂場の扉を開けながらそういった。
それって、自分の方が泥棒と間違われたのでは。
そうすると、自分が物を投げつけて反撃した男性は一体何者なのだ。
セラフィは訳が分からなくなったが、脱衣所の方から小さなうめき声しか聞こえなかったため、そっと、できるだけそっと、風呂場の扉をほんの少しだけ開けた。のぞける程度だ。
そして彼女の目に飛び込んできたのは、壁に背中を預けて、座り込んで顔を片手で押さえて呻いている男性だった。
先ほど、手桶を投げてそれが当たったと思われた時、手桶が当たったにしては大きすぎる音が響いていたが……、もしかして、壁に頭までぶつけてしまったのか。
「だ、大丈夫ですか!!」
セラフィはこんな時でも、お人好しが抜けなかった。頭を打って目を回していたら大変だ。と思ってしまったのだ。
彼女は大急ぎで、濡れたままだが緊急なので下着を身につけて、男性に近寄った。男性は呻いていた事から、意識はある様子だった。
「ご、ごめんなさい、びっくりして思いっきり投げてしまって。でもここ私の家で、あなたの方が不法侵入者ですよ?」
「……君は、泥棒じゃないのか……?」
セラフィが近付いて膝をつき、手桶が直撃したのだろう相手の顔を見ようとしながらそう言うと、男性は怪訝そうな顔をして、それからセラフィが下着姿である事に軽く赤面し、目をそらしてこう言った。
「とにかく、話が聞きたいんだが……君は服をきちんと着てくれ……」
目のやり場に困る、と言った男性は、目をそらしながらよろよろと、左側の手足の動きもぎこちなく立ち上がり、脱衣所を出てくれたのである。
それならば、とセラフィは大急ぎで服の方も着て、男性がひどくゆっくりとした歩き方で机の前にある椅子の片側に座ったため、急ぎ台所で冷やした布を用意し、彼に差し出した。
「これ、どうぞ。たぶん冷やした方が、良いと思うんです」
「ありがとう。……君もそこに座ってくれないか、話が聞きたいんだ」
男性の言葉にセラフィは頷き、お互いの認識がおかしな事になっているのは確定なので、向かい合って話をしようという事になったのだった。
「えっと、私はセラフィで、ここを、一昨日大家のマルタさんに紹介してもらって、暮らし始めたんです。……あなたは?」
「教えてくれてありがとう、セラフィ。俺はアルヴァン。ここで暮らしていたんだが……マルタさんがここを紹介した? 変な話だ、俺がここに長い事住んでいると、マルタさんは知っているはずだが」
「……」
セラフィは少し考えた。大家のおばさんはここに前に暮らしていた人が、三年前に敵国に捕まって、以来行方不明になってしまったと言っていなかったか。
もしかしてこの人が。セラフィはアルヴァンが、すぐにばれる嘘を吐くほど馬鹿とは思えない、という判断もあって、その可能性に気が付いた。
そのため、彼女はあの、と声をかけてから問いかけた。
「あの、アルヴァンさんは……三年くらい前に、敵国に捕まっていませんでしたか?」
「確かに俺は、ずいぶん前の戦争で相手の国に捕まったが……申し訳ないんだが、今年はロクサーヌ暦で何年になるんだ?」
アルヴァンは不思議な事を言い出したが、セラフィは素直に答えた。
「今はロクサーヌ暦で1058年です」
ロクサーヌとは聖女であり、西の地方で使われている暦は、聖女が大地に降臨した年を元年とする一般的暦である。
それを答えたセラフィの言葉に、アルヴァンはしばらく沈黙して、左側を冷やしていた右手を一度下ろして、それからやはり右手で顔を覆った。
「そうか……船でずいぶんと時間の感覚が無くなってしまったらしい。もうあれから三年もの時間が過ぎてしまったのか」
「船で時間の感覚が……?」
敵国に捕まって、どうして船という話になるのだろう。というか、敵国が捕らえていた捕虜は、一年ほど前に、戦争が終わって色々と決着が済んだ時に解放されているはずだ。
彼の言っている事の意味が分からなかったセラフィに、アルヴァンが教えてくれた。
「捕まった時に、敵国の将軍を徹底的に怒らせてしまってな。あっという間に奴隷として、東の方を根城にする海賊に売り飛ばされてしまったんだ」
「ええっ! そんな事ってあるんですか!? 奴隷制ってこっちじゃ無くなったのに」
「東ではまだまだある程度は使われている物で、海賊船の漕ぎ手の大部分は奴隷だ。……それは置いて、それからもう海賊船の奴隷をしていたんだ。つい数ヶ月前にその海賊船が西の海で捕まって、奴隷達は皆解放された、そういうわけで俺も自宅に数ヶ月をかけて戻ってきたんだが……」
アルヴァンは三年も経っていたら、仕方がないな、と苦笑いをした。
「三年も過ぎていたら、死んだ事になってしまうからな。家の権利が一番近い親戚の、マルタさんに移っていてもおかしな話じゃなかったか」
「あの、どれくらい時間が経っていたのかも、わからないものなんですか?」
セラフィはおそるおそる聞いた。時間の感覚がわからなくなると言う事が、少しだけ理解できなかったのだ。
彼女のような少女の問いかけは、ありふれた疑問に聞こえたのだろう。アルヴァンは気分を害した様子もなく答えてくれた。
「朝も昼も夜もなく、ひたすら船の櫂を握って漕ぎ続ける。時間の把握が出来るのはよくて数ヶ月まで。朝と夜が来るのは日の光でなんとかわかっても、だんだん何日そこにいるのか、わからなくなる」
「えっ……」
セラフィは思っていた以上に、ぞっとする話を聞かされた気分になり、血の気が引いた。それに彼はすぐに気付いた。
「ああ、恐ろしい話を聞かせてしまったか。悪かった」
「いえ、あの、私の想像力が足りなくて……」
「西ではこんな事は滅多にされない話だからな、仕方がない。そういうわけですっかり時間の感覚が狂っていた俺は、普通にまだここが自分の家だと思って帰ってきてしまったわけだ。鍵も変えられていないから入れた事もあって」
風呂場で物音がしたから、泥棒だと思って不用意に開けて申し訳なかったと謝られ、セラフィはぶんぶんと首を横に振った。アルヴァンの事情を聞けば、怒るわけにもいかなかった。
「……マルタさんには、今日も遅いから、一度休んで明日顔を出そうと思っていたんだが。君に賃貸としてここを貸してしまっているなら、もう俺はここにはいる事は出来ない。すぐに出て行く。セラフィ、本当に悪かった」
彼もセラフィも知っていたのだ。戦争で行方不明になった人間は、三年音沙汰もなかった場合、法的に死亡扱いになり、権利その他が関係者に渡される事を。
そして、それが分かっているアルヴァンが、この家は確かに自分の物だったが、今はそうではないと理解したくなくとも、理解せざるを得ず、他人の家になったこの家から、出て行く事を選んだ事も、セラフィだってすぐに分かった。
だが、はいそうですか、とセラフィは彼を追い出せなかった。だって。
ぎこちなく立ち上がったアルヴァンは、左側の手足が、かろうじて動くというような、危なっかしい動き方で立ち上がり、だらりと左腕を垂らし、ずりずりとぎこちなく動く左足を、ややひきずる動きで、外に出て行こうとしたのだから。
「ねえ、待って! あなたは、もしかして左側の体が、うまく動かないんじゃ」
セラフィはとっさにそう問いかけた。アルヴァンが振り返る。振り返った顔の、左側の目は、奇妙な動き方をしていた。
そして、理性のある右側との違いははっきりしていて、アルヴァンが笑った。
「ああ、実を言うと、捕虜になっていた時と、海賊船にいた時に、手ひどい事をされてな。何とか動く程度までは、すぐに治癒魔法師達も治療できたんだが、これ以上は、長期の訓練をしなければ動かないんだ」
「っじゃあ、あなたは」
そんな状態になって、やっと自宅に帰ってきたのに、自宅がもう他の人間の物になっているからと、出て行こうとするのか。
それは、セラフィにとって納得できる話ではなかった。
だから彼女は、立ち上がって走って、彼の前に立ちはだかった。
「きょ、今日はここで休みましょう! 私は大丈夫、毛布が一枚あれば、床でも寝られるから! あなたは、やっとおうちに帰ってきたんですよ、それに、今から宿を探しても、見つからない!」
事実だ。今日の今日で、アルヴァンが寝泊まりできる場所は早々見つけられない。それにぎこちない体では、一番近い宿までだって、どれくらいの時間がかかるかも分からなかった。
「だが、君に迷惑はかけられない」
「いいの! 迷惑じゃない!」
セラフィはどうして、彼に対してそんな強い声を出せたのか自分でも、全く分からなかった。でも、彼の言った事が、他人事のように思えなかったのだ。
帰る宛が無くなったなんて、色々な事情は違っていても、自分と同じだとさえ思ったのだ。
同じような境遇になった相手と、セラフィは出会ってしまって目の前にいるのだから、無視してさようならする事なんて、出来なかったのだ。
そのためセラフィは、彼が意見を翻すように、とっさに彼の左手を両手で握って、まっすぐに彼の緑色の目を見つめて、こう言った。
「あなたは、やっとおうちに帰ってきたんだよ? 大丈夫、明日大家のおばさんにちゃんと話して、私がここから出て行くから! あなたが追い出されるのは、変な話だよ。国の為って事で戦って、捕まって、売られて……やっと自由になって、帰ってきて、おうちがないなんて、おかしいよ……」
丁寧な言葉など使っていられなかった。それくらい感情的になっていたのだ。
言っているうちに、どうしてかセラフィは胸が痛くなって涙がこぼれてきて、それでもアルヴァンを見つめながら説得した。
それをどう思ったのかは、アルヴァンではないから分からない。
だが、セラフィが譲る気配を見せず、玄関の前に立ちはだかって動かない姿勢を見せた事で、アルヴァンはあきらめた様子だった。
「わかった。……だから、もう泣かないでくれ、セラフィ」
困り果てた顔をしたアルヴァンに、セラフィはうん、と頷いて涙を拭って、笑いかけた。
「じゃあ、ご飯は食べた? すぐに用意できる物もあるよ!」
「それは」
さすがにそこまでは、と遠慮しそうなアルヴァンだったが、彼の腹が、なかなか盛大な音を立てたので、セラフィは彼を椅子に追いやってこう宣言した。
「待ってて、すぐに用意するからね!」
お腹も空いていたのに、今からあてどない宿探しに行こうとしていたのかと思うと、セラフィはその無謀さに、少しだけ腹が立ったのであった。