2 昔のセラフィ
「お母さんの言ったとおりになっちゃった……」
セラフィは一人取り残された家の中で、こらえきれずこぼれてくる涙を、ぬぐう事も出来ずにそう呟いた。
自身の母が言っていた言葉が、彼女の頭の中でよみがえってくる。
「いいこと、セラフィ。あなたは身の程をわきまえていなくちゃいけません。いつかあなたは、本当のひとりぼっちになってしまうのだから」
母はどうしてかわからなかったのだが、よく彼女にそう言い聞かせていた。幼い頃からずっとそうで、セラフィは身の程という言葉もわからない年の頃から、そうしなくちゃいけないのだと、思って生きてきた。
「あなたは、誰かに無条件で愛してもらえると思ってはいけません。愛は対価が必要なんですよ」
母はこう言う事もよく言っていたので、だから、セラフィはこうして、愛する人のために、どんな苦労もいとわないで生きてきたのだ。
だが結果どうなったのか。
愛した人は彼女を捨てて去っていき、少女は誰の手も借りられないひとりぼっちになってしまったのである。
「……どこが悪かったんだろう」
セラフィは座り込んで、今までの自分の事を、ぼんやりと思い出していた。
セラフィは幼い頃、父親という存在がいないのだと思って暮らしてきていた。
というのも、母はいたし、祖父母も同じ家で暮らしていたけれども、父親に該当する男性が、家にいた事が一度もなかったのだ。
祖父母はセラフィに優しくはなかった。母の事はとても大事にしていたけれども、その娘である孫娘のセラフィの事は、厄介者扱いしており、母の目が届かないところでは
「おまえがいなければ娘は、ちゃんと結婚が出来るというのに」
そういう、存在を否定するような言葉を投げつける事もあれば
「おまえがうまれた事ですべてが狂ったんだ。全く忌々しい」
と呪いの言葉のような物を口にする事もあった。
それ故セラフィは、子供の頃は、家にいちゃいけないんだと思って、外で遊んでばかりだった。
外で遊ぶのはだいたいが男の子で、セラフィは男の子に混じって荒っぽい遊びをする子供だった。
でも服を破ったり汚したりすると、これで祖父母にも母にもののしられたり怒られたりしたので、そうならないように注意を払う子供時代だった。
そんな日常が変わるきっかけになったのが、セラフィが偶然、その通りでは見た事がない立派な衣装の男性に、道を教えた事だった。
その男性は壮年の男性で、周囲を見回して困っている様子だったから、セラフィは近付いて問いかけてみたのだ。
「ねえねえ、あなたはどうしてここにいるの? どこかと間違えちゃったの?」
「この辺りに暮らしている知り合いを、訪ねてきたんだが、昔と変わってしまっているせいか、どうにもたどり着かなくなってしまってね」
「あ、だったら近い場所までだったら、わかるかも」
セラフィはにこにこしながらそう言って、男性が探している家が、自分の家の近くだった事から、道を案内してあげて、彼が目的地に着いたら手を振って別れたのだ。
セラフィはこの時知らなかった。この壮年の男性が、彼女の実の祖父であって、人を雇ってセラフィの母親を監視しており、今日は数年ぶりにその雇った人間の契約更新のために、この辺りを訪れていた事なんて、全く知らなかったのだ。
そして、祖父は雇っていた人間の情報と、母とよく似た顔をしていたセラフィと実際に会った事で、父が妻を亡くした後誰とも再婚しようとせず、しかしどこかに通っているという事の理由を知ったつもりになり、父が母と再婚する事を認めてやろうと決めたのだ。
娘まで産まれた仲になったのならば、ある程度責任を持ってやらなければ、産まれた娘がかわいそうだ。
そう言った考えを持った祖父は、祖母の反対を押し切って、父と母の再婚を認める旨を父に告げ、父は喜び勇んで母に求婚し、押し負けた母は父と結婚したのだ。
これには理由があり、父には当時娘は、妻との間に一人きりで、その子が跡取り娘なのは間違いなかったわけだが、そうなると政略結婚のための子供が一人もいないという計算になっていたのだ。
そんな時に、かわいらしい顔をしたセラフィの存在を知った祖父が、政略結婚の出来る存在として、セラフィを認知しなければと思ったのは仕方のない事で、一般的な貴族の考え方だった。貴族は子供が一人という状況を由としないのだ。
そして場合によっては親戚筋から養子をもらったりするので、セラフィという血はつながっている娘は、家に迎え入れる者としては、祖父の仲ではぎりぎり合格基準だったのだ。
ここで祖父の誤算だったのは、父が母を溺愛していたのに、娘の存在に気付いていなかった事である。
ちょうど母が妊娠していた時期は、父の妻も妊娠し出産し、と色々あって、父は母の元に通っていない空白の時期だった。
日付を計算すれば、間違いなく父の娘という事だったのだが、母がセラフィを隠し続けていたために、父はセラフィを知らなかった。
それでも結婚した母は、セラフィを自分の両親の元において置くわけに行かなくなり、彼女を連れて男爵家に嫁入りしたのである。
セラフィは、母が再婚してそれについて行く、という話は下町でもありふれたものだったから、特に違和感もなくそれについて行き、男爵家の次女というものになったのだった。
しかし、セラフィの男爵家での生活は、彼女が思っていた以上につらい日々だった。
男爵家の長女、リリアンヌは、セラフィからすればお姫様といいたくなる綺麗で可憐な女の子だった。しかし彼女は父親の愛人とその娘が家にやってきたという考えを持っており、セラフィの年齢が自分と一年しか違わないから、父がリリアンヌの母をないがしろにして作った、憎い子供だと思っていた。
そのためセラフィは、たくさんの嫌がらせを受けたのだ。ちょうど、父男爵が再婚した数ヶ月後に、再婚の許可を出した祖父が急な病に倒れて亡くなり、男爵家の暴走を止められる人間がいなくなった事が災いした。
セラフィはすぐに物置同然の部屋に押し込められて、着る服もすりきれたぼろぼろのものになり、食事の支度もしてもらえないので、厨房に残飯をもらいにいく日々になり、ささやかな事で義姉と義祖母から折檻を受けることになった。
そして、まるで義姉の召使いのように義姉のそばにいなければならなかった。
義姉は大嫌いな、浮気の果てに産まれたセラフィを、徹底的にいじめる事に対しての抵抗がなかったので、容赦は全くなかった。
ちょっと目があったら生意気で、頭を下げる角度が足りないと生意気で、返事が悪ければ育ちが悪く、歩き方がみっともないから家の恥で。
よくまあ、折檻の理由をこれだけ思いつけるな、と後から思うほどの、無茶な理由でセラフィは折檻を受け続け、しかし両親はそれを黙認していた。
セラフィは生け贄だったのだ。両親に、義姉と義祖母の苛烈な怒りや憎しみの矛先が向かないようにするための生け贄だった。
セラフィがそれらを受け止めていれば、両親にそれは向けられる事がない。
父は母をとても愛していたので、母を守るためなら、こうなるまで知らなかった娘なんて簡単にむげに出来たし、母は義姉と義祖母の怒りに震え上がり、それらが自分に向かないならば、と見て見ぬ振りをし続けたのだ。
セラフィはこうして、義姉の元で貴族的な事をほとんど学べない状態で、数年が経過したのだった。
それでもセラフィはめげなかった。
母がいつも、
「愛は対価が必要」
と言っていた事が理由だ。愛してもらうには対価が必要で、この家で自分が愛してもらえるようになるには、もっとがんばらなくちゃいけない。
生まれの関係で、まだまだ自分への感情は負の世界なのだ。だから、一生懸命に働いていれば。
義姉だって、浮気されていた母親への思いが少し落ち着いたら、穏やかになってくれる。
義祖母だって、冷静になってくれれば、暴力を振るっても利益なんてでなくなるって気付いて、止めてくれる。
セラフィはそう信じていた。信じなくては生きていけなかったのだから。
そんなある時、義姉がとても浮かれた調子で、婚約者との初めての顔合わせなのだと自慢してきたので、セラフィは義姉をとびきり綺麗にする手伝いをし、やっぱり部屋の片隅で見守る体勢を命じられた。
今日は初顔合わせで、義姉は肖像画でしか見た事のない、眉目秀麗な婚約者と会える事を楽しみにしていた。
婚約者が出来れば、少しは義姉も落ち着いてくれるかな、とセラフィもちょっとだけ期待し、そして顔合わせが行われた。
悲劇はその日のうちに起きて、その婚約者は初めて男爵家の屋敷に来て、扉を開ける係りだったセラフィと目があったその時に、セラフィに一目惚れをし、彼女の出自を婚約者である義姉に聞き、格好いい婚約者にべらべらと義妹の情報を口にした義姉に幻滅し、
「義妹をこんな風にする、性悪な女性とは結婚できない、結婚するならこちらの、笑顔のすてきな義妹と婚約を結びなおしたい!」
と言い放ったのだ。
相手は男爵家では太刀打ちできない、侯爵家の人間で、男爵家は必死に縁をつなぎまくって、やっとこの男性と長女の婚約にこぎ着けたという事実があったため、かなり慌てたのだが、男性がぼろぼろのセラフィをかばいながら、
「そちらからの申し出では、家と家とのつながりのためという話だった。ならばこちらの異母妹でも問題はないはずだ!」
と主張し、セラフィのぼろぼろさに彼の両親も
「家族をこんな風に出来る姉を嫁にもらっても、性根の悪さで使用人がみんな逃げ出してしまうわ」
などと息子の味方をし、その後すったもんだがあったが、セラフィが侯爵家の三男との縁談を結ぶと言う事で、話はいったん決着したのだった。
三男は、セラフィに一目惚れしたし、ぼろぼろのかわいそうな女の子を助ける自分に酔っていたので、はじめは優しくしてくれた。
だが、セラフィがろくなマナーも知らない事で、あっという間に幻滅し、距離を置くようになったのだ。
セラフィはその間、可能な限り必死になってマナーを覚えたのだが、侯爵という上位の貴族の合格基準にはなかなか達せず、最初彼が向けてきてくれた
「君を愛しているんだ、君を助けられて幸せだ」
言葉を心に抱いて、全力で貴族的な物事を覚えていったのだ。
そして実家の方では、さすがにやりすぎたと義姉も義祖母も、婚約破棄になった事で気がついて、以降セラフィを腫れ物扱いで取り扱うようになった。暴力の次は放置放任である。男爵も、あまり醜聞が広まると、長女の縁談などもろくな事にならないと言う事で、多少介入するようになり、そしてセラフィも義姉も、貴族の学校に入学する年齢になり、入学したのだった。
入学したセラフィは、学校内でも友達が出来なくて困っていた。
彼女の話は尾ひれを付けた噂話として、貴族中に広まっており、そして何がおかしな事になったのか
「正当な後継者である義姉の婚約者を寝取った、女狐」
という前評判が立っていたせいだ。そのためセラフィは、どんなに相手に友好的に話しかけても、無視されたり素っ気なくされたり、はっきりと
「あなたなどとはおつき合いいたしません」
と言われる日々だった。学校では友達が、一人くらいはほしいと思っていたセラフィは、そう言われ続ける事が悲しくても、涙を流せなかった。
涙を流すと、家では折檻を受けたからだ。それもご満悦と言った表情の義姉から。そのため、涙は相手に攻撃する隙を与えるもの、と言う認識がセラフィの中にできあがりつつあり、友達も出来ず、社交らしい事もできず、セラフィは仕方がないので勉強に打ち込んだ。他にやるものがなかった事が理由だ。
そして彼女は気付けば、学年でも上位の成績優秀者になっており、それ成績の悪い義姉にとっていらだちの種となった。
そしてまことしやかに、セラフィは
「学校の教員をたぶらかして、試験問題を手に入れてカンニングしている」
という噂を立てられるようになった。ここで、事態を放置しておけなくなった生徒会が動き、セラフィはそこで尋問を受けて、人生を変える決定的な出会いである、第三王子と対面した。
セラフィは生徒会の人間が立て続けに質問してくる事に、何も見る事なくすらすらと答えられたので、生徒会の面々は、セラフィがカンニングをしているという認識を改めた。
そして、セラフィの実力を認め、彼女を生徒会に誘った。
友達が出来るのだ、同じ会話が出来る人がいる、とセラフィは喜んで誘いに乗って、生徒会の事務になった。
その中でも、セラフィを物珍しさから特にかまっていたのが、第三王子で、セラフィは彼に笑顔で話しかけたし、第三王子は婚約者が素っ気ないと言う事で、友達という立場から無償の笑顔を向けてくるセラフィに、あっという間に恋に落ちた。セラフィの方は、婚約者がついに彼女を
「試験問題を盗むような性根の女性とは、未来が見えない」
と噂だけで判断して、婚約破棄したので、よくある婚約者のいる身の上でふしだらな、という噂にだけはならなかった。義姉がその話を、たっぷりの嫌がらせとともに広めていたからだ。
そして生徒会に入ったセラフィは、それに嫉妬した女学生達から、義姉そっくりの嫌がらせを受け、それを見てしまった生徒会の友人達が、彼女を守る為に、一緒にいる事が増えてしまっていた。
しかし、異性の友達なので、貴族令嬢として肉体接触は全くなしと、お互いに理解していたので、不誠実な事は何一つ、友人達の間では起きていなかった。
それでも、友人達の婚約者に、色々言われたので、セラフィは常に、誰はばかる事のない真実である
「私と彼等は同じ机を並べて勉学に励み、切磋琢磨する友人です」
と答えていた。これも友人達の婚約者にはいらだちの原因になったようで、嫌がらせは加速し、セラフィは階段の最上段から突き落とされたり、頭の上に鉢植えが降ってきそうになったり、噴水に突き飛ばされたりする事も増えた。生傷は絶えなかった。余計に友人達が過保護になるほどに。
セラフィは訳が分からなかった。友人達とはきちんと適切な距離を保っているし、第三王子からはいろいろ愛をささやかれているけれども、一生懸命に拒否していた。友人達と一緒にいるのは、生徒会の仕事を協力しあって行っているからなのに。
セラフィの悪い前評判がなければ、彼女は
「勤勉さで生徒会入りした、努力家の秀才」
になっただろう。それらを義姉の広めた前評判がすべて打ち消し、セラフィを
「見た目で生徒会の貴族男性達を誘惑し、手玉に取る悪女」
と表されるように仕向けていたのだ。
そうなってくると、セラフィもさすがに弱っていく。そんな弱るセラフィに、第三王子は愛をささやき続け、セラフィは、
「身の程をわきまえていればいいんだ」
と母から言い聞かされていた事を思い出して、第三王子の愛情を受け取る事にしたのだ。一番にならなくていい。ちょっと視線が重なるだけの相手になれば。
でも誰かを大事に思って、大事に思われるのはとても幸せで、言葉だけでも、愛していると感じられるのが幸せで、これもきっと卒業したら忘れる幻で、とセラフィは身の程を知っていたから、つかの間の夢と思う事にしたのだ。
セラフィは向けられる悪意の多さに、とうとう疲れ果てていたのである。
そんな風に第三王子が愛をささやくのは、生徒会の部屋の中だけで、その他の場所では有能な生徒会役員と、それを統括する王子様という立ち振る舞いをしていたのに、セラフィと王子の恋はあっという間に広まり、第三王子の婚約者は、王子に素っ気ない態度と聞いていたのに、セラフィに圧をかけ始めた。
そのためセラフィは、彼女に呼び出された時にきちんと
「私は身の程を知っておりますから、卒業とともに、きちんと身を引きます」
と何度も言っていた。学生時代の恋愛など、婚約者がいても数多転がっている話だったからだ。
それなら王子の婚約者も、黙認するはずだった。
恋の一つも体験せずに成人し、その結果色仕掛けにだまされ、手遅れになる方が王家にとって問題とされていたのだから。
王家と近しい王子の婚約者も、自身の未来のために、セラフィを一時的に黙認した方が、良いと判断できると思ったのだ。セラフィは第三王子と結ばれたいわけではなく、つかの間誰かと大事に想い合いたいだけだったから。
だというのに、彼女達の卒業記念パーティで、第三王子は婚約者から不貞の事で叱責を受け、その他の生徒会の役員達も、婚約者から不貞の扱いを受け、彼らはきちんと、理路整然とした証拠も証言もある否定をしたのに、話を聞いてもらえず、一方的に婚約破棄となり、セラフィは
「あまたの男性を手玉に取り、楽しんでいた悪女」
と大勢の学校関係者以外の人間にも見える形で嘘を張り付けられ、第三王子は父王から
「おまえは何も見えていない。罰として婚約者である公爵令嬢とは婚約破棄だ! 辺境の土地で王籍をはずれて暮らすがいい!」
と命じられた。
そう、第三王子は身分も居場所も、婚約者も何もかもを失って、それでも輝く笑顔でセラフィの手を取り
「君と愛し合って暮らしていけるなら、どこだってかまわない」
そう、セラフィに言って、二人は命じられたとおりの辺境で、何もない状態から暮らしを作り、今までやってきていたのだった。
……二人が愛し合っていれば、これくらいなんて事ない、と信じていたかったセラフィにとっては、もう、何をすればいいのかわからないほど、今は訳の分からない状況で、かろうじて
愛する恋人から捨てられてひとりぼっち
だと認識できる程度だったのだった。