14 秘密を共有するセラフィ
マルタの仕事場から帰ってきたセラフィは、バララッド辺境伯の所に行かなくてはいけない事を、アルヴァンにどう説明すればいいのかと、ずっと悩んでしまっていた。そのためにじっくり煮込んでいたお肉を焦がすところで、このお肉はもちろん高級な家禽ではなくて、年老いた四つ足の獣の肉である。
四つ足の獣の肉は、家畜ならば年老いた家畜ばかり食べられているといってよく、そうでない家畜は、生ゴミの処理のために飼育されている四つ足の獣で、そちらの方が少し値段が上がる傾向にあった。猟獣など最高級品である。
セラフィは煮込む手間を惜しまない方だったので、アルヴァンの元に来てからというもの、食べるなら、安くて手間だけがかかる方を選びがちだった。
「……」
なんて言えばいいんだろう。あなたの所じゃなくて、辺境伯の所に来るように言われてしまったから、三日後にはそちらに行かなくてはいけない。と伝えるのは、なんだかアルヴァンを捨てていくような言い方になりそうで、それがとてもセラフィにはいやなものだった。
セラフィは恋人だったはずの男に捨てられたわけで、同じ様な事をしたくなかったのだ。
出来るはずもないと言ってもいいだろう。どうしたって同じ真似が出来ないと思うのはありふれた感情だ。
一般的に言えば、かなりの出世と言っていい話だ。平民の家の家事手伝いの女の子が、働きを認められて貴族の屋敷、それも本邸に就職する。
これは客観的に見ればかなりの出世で、平民の女の子だったら一度はあこがれていてもおかしくない立場だ。
それでも。
セラフィは、まだ、アルヴァンの所にいたかった。どうして居たいのかと聞かれたら、上手な答えは見つけ出せそうにないのだが、それでもアルヴァンのそばにいたかった。
だが、自分を呼んでいる相手が悪すぎる。相手は太刀打ちできない身分の、このあたり一帯を支配する辺境伯なのだから。
ここでいやだと言う事は、不可能と言ってもおかしくない。
「……」
セラフィは鍋を眺めていた。ことことと煮込まれている肉は、きっと仕上がったらほろほろと崩れて、それを食べたアルヴァンがうれしそうに笑うのだ。
「こんな手間までかけてくれて、本当にありがとう、セラフィ。うまい」
そう言ってくれる未来まで見えてきて、少しセラフィは涙ぐんだ。
そんな生活ももうおしまいになるのだ。
エレナ姫がどれくらいのわがままなお嬢様なのかは、知らない。
だが、聞いた限りの話だと、絶望のあまりこちらの話など聞きそうにないので、癇癪を起こすかもしれなかった。
足が動くようになるかもしれない、そんな期待を何度も裏切られているだろう少女が、頑なな心になるのは仕方のない話でもある。
彼女のために、親身になって世話をしよう。セラフィはそう思うよりも前に、アルヴァンの所で穏やかに暮らしていきたい。と思ってしまう少女だった。
やっと落ち着いた生活が出来るようになったとたんに、この命令と言う事をされてしまったセラフィにとっては、これ以上の急な変化は望ましくない。
しかしそれは従うほかない事だった。
自分はどうしたらいいのだろう。他人の目線で見れば、辺境伯の所で、一生懸命にエレナ姫のお世話をするのが最善だ。
でも自分の心はそうじゃないと言ってくる。
さらには、心の整理をする時間さえ少ないのだ。たったの三日しか猶予がない。
ここも複雑だった。確かに知り合いの人達に、お礼を言ったりするには十分かもしれないが、自分の心と折り合いをつける時間としてはかなり短い。
その間に割り切れと言われて、うまく割り切れるかと言われたら難しいな、とセラフィは自分を評していた。
不安な事を考えていても時間は過ぎるし、お肉は煮込まれていく。
時間が過ぎてくれば、職業案内所で、自分でも就労可能な仕事を探していたアルヴァンも、帰ってくるわけで、彼は夕暮れ時に帰ってきた。
「ただいま、セラフィ。……どうしたんだ、ひどい顔をしているが」
ただいますら、今は聞くだけで涙ぐみそうだった。
「な、何でもないよ」
「何でもない顔じゃないぞ。道で誰かに、因縁を付けられてしまったのか? それとも、よく知らない相手から罵倒を浴びせられたのか?」
アルヴァンは前にもあった問題なのかと、聞いてくる。
「そんな事は起きていないよ」
アルヴァンの心配を、セラフィは慌てて否定した。
彼はセラフィの主張を信じる事にした様子で、それならいいんだが、と口に出した。
「それにほら、もうすぐご飯が出来るよ。すじ肉が安くってね、今日はお肉の煮込みだよ、アルヴァンさんも好きでしょ?」
「確かにセラフィの煮込みは好きだが……本当に困った事もないんだな?」
セラフィの態度から、何もないなどあり得ないだろうとは思ったらしく、念押しをされたが、彼女は頷いた。
「何もないよ」
食事が終わり、今日は体が動くから洗い物をさせて欲しい、練習だ、と言ったアルヴァンに洗い物を任せて、セラフィは机をきれいにしていた。
彼は背中を向けて洗い物を続けていた。確かに、お肉を煮込む鍋は比較的大きくて、セラフィは少しだけ洗うのに手間がかかっていたが、体格も背丈も違うアルヴァンは、それよりも作業が早そうに見えた。
「そうだセラフィ、すごいじゃないか」
背中を向けたままのアルヴァンが、不意にそう言ってきたので、何がすごいのか分からないで、セラフィは反応を返した。
「すごいって?」
「バララッド辺境伯の所の名代が、セラフィを引き抜きに来たと噂になっていたぞ。名代の方が、職業案内所にも来ていたんだ。セラフィが職業案内所の紹介で、誰かの所に来ているならば、筋を通す必要があるからと。そこで話していたのを聞いた人が、けっこういたらしい」
「えっ……」
アルヴァンにはまだうまく伝えられる自信が無かったのに、第三者の噂話の方で、とっくにアルヴァンに知られていたのだ。
それが何とも言えない気持ちになって、セラフィはうつむいた。
背中を向けているアルヴァンには当然見えないのだが、アルヴァンの方は心底感心している調子だった。
「セラフィのすごさが、立派さが、辺境伯の所まで伝わるというのは、うれしいな。あれだけろくでもない偽りの噂が流れていたとは、思えない。本当に、よかった」
「あ、アルヴァンさんは、私が行っちゃってもいいの?」
セラフィは何とか言葉を出そうとして、気付けば心の中に隠しておきたかった言葉を口に出していた。
言ってから、しまったと、血の気が引きそうな思いに駆られてしまう。
これでは、アルヴァンに引き留めて欲しいと言っているようなものだった。
洗い物をすませたアルヴァンが、手についた水を拭って振り返る。
その顔は少し寂しそうだ。
「セラフィにはとても助けてもらったし、いなくなられたら寂しいと思う。だがたとえ俺がいくら、行って欲しくないんだと駄々をこねたところで、このあたりで暮らすなら、辺境伯に睨まれるわけにはいかない。我儘でセラフィに迷惑はかけられない」
「じゃ、じゃあ、アルヴァンさんは、行って欲しくないって思う?」
「思う」
アルヴァンはまっすぐな顔をして頷いてきた。
「セラフィみたいな子には、幸せに笑って暮らして欲しいし、出来ればその笑顔が見られる距離にいたい。言っただろう。セラフィは、俺には特別に見える相手なんだと。……忘れてくれといいながら、こんな事を言うのは卑怯か」
少し困ったような表情だった。そして数秒黙った後、アルヴァンは恐ろしくまじめな顔をして、こう言ってきた。
「セラフィ。雇い主の側として、最後のお願いをしてもいいだろうか」
「最後……?」
「ああ。これはほかの誰かに頼む事の、難しい頼みだ」
何をお願いするのだろう。セラフィが聞く姿勢になると、アルヴァンは少し動きにくそうに、服の左側を脱ぎ、まくりあげた。
そして、左の肩胛骨のあたりを見せてきて、こう告げた。
「セラフィ。この左の所にある模様を、刃物ではぎ取ってくれないだろうか」
予想もしていないお願いに、セラフィは言葉が出てこなくなった。
普通、皮膚の除去は医療院に頼むべき事で、素人のセラフィに頼む話ではない。
なのにどうして。混乱したセラフィに、アルヴァンが続けた。
「ここにある模様は、ただの入れ墨ではないんだ。これは隷属の刻印。……これがある限り、俺は奴隷の契約に支配される事になっている」
「どれいのけいやく……」
「ここに空白があるだろう? ここに本来ならば、主人の名前が浮き上がるんだ」
アルヴァンの示しているところは、確かに不思議な空白があった。
ここに何もないならば、アルヴァンは奴隷ではなくて、自由なのではないだろうか。
セラフィはそんな事を考えたのだが、それを刻まれてしまったアルヴァンの方が、これには詳しい様子だった。
「ここに名前がない奴隷は、やろうと思えばかなり強引に主人と奴隷という間柄にさせる事が出来て、支配できる。奴隷は主人の命令に背けば、気が狂う程の激痛を味わう事になるからだ」
「アルヴァンさん……まさか」
その痛みを経験した事があるような口振りに、セラフィは動揺した。
だが、過去の事と言う調子なのか、アルヴァンは平気そうに言う。
「三年もやっていたからな。片手では足りないくらいには、経験がある。そのおかげか、やたら反骨心のある、骨があり過ぎる奴隷というわけで、奴隷ではなく、海賊の仲間にならないかと持ちかけられて、拒否した事もある」
「……」
「これがある限り、俺は主人の名前がない状態だと、ずっと強引な契約を結ばれる不安と戦わなくてはならない。俺はもう誰かに、唯唯諾諾と従う奴隷になるつもりはない。だから本来ならば、医療院ではがしてもらうべきだったんだが……」
何かあった様子で、アルヴァンが続ける。
「これには魔術的な契約も絡んでいて、無理にはがすと、只でさえ制限のかかっている、魔力変換率がさらに狂って、どれだけの損傷になるか分からない、と拒否されてしまったんだ。医療院は、命に関わる無謀は拒否する事が出来るからな」
「あ、アルヴァンさんは、魔力変換率も、その印のせいでおかしくなっているの?」
「ああ」
セラフィは想定もしない話ばかりで、言葉がうまく見つからなかった。
魔法は、ただ魔力があれば使用できるものではないのだ。
魔法を使用する際には、体内にある魔力を、体外に具現、発現、顕現させる必要があり、体外に放出するだけでも、魔力をかなり使用するため、そのまま魔力通りの魔法は現れないのだ。
どれだけ強い魔法を使えるかは、魔力変換率にかかっており、これの数値が大きいほど、強い魔法を使用できる事は一般的に知られている。
仮に百の魔力があって、四十の魔力変換率ならば、数値として四十の魔法を使用できる。
だが百の魔力がありながらも、魔力変換率が十程度と低かったならば、数値として十の魔法しか使用できない。
魔力の量が多ければ多いほど、魔力変換率が低くとも、それなりの魔法が使えるが、やはり魔力変換率の割合は大きくなる物なのだ。
それを、隷属の刻印は狂わせているのだという。
……たしかに、強い魔力を持ち、魔力変換率の高い奴隷など、いつ反旗を翻して主人側に手痛い事をするか分からないから、弱体化するためにそう言った作用があるのかもしれないが。
「刻まれる前はたしか、数値は六十程あったが、今は八だったはずだ」
「そんなに低くなるの……!?」
六十なんて凄腕と言われる魔法使いの数字だ。それが、八。
とてつもない刻印だ……。
「そうだ。だから俺は軍に戻れない。八の魔力変換率の軍人は、よくて肉の壁にしかならないからだ」
「でも、その刻印をはがしたら、それもどうなるか分からないんでしょう?」
「わからない」
「……でも、アルヴァンさんは、奴隷になりたくないから、はがしたいの?」
セラフィは念を押すように問いかけた。ためらってくれないだろうか、と思ったのだ。
「そうだ」
「で、でも、きっと痛いよ! いらないって気持ちはすごくわかる、でも、でも」
これ以上、アルヴァンにひどい痛みを感じて欲しくなかった。いらぬ苦労もしてほしくなかった。死ぬなんてとんでもない。そんな危険を犯そうとしてほしくない。
博打のように、皮膚を剥がしてほしくなかった。
だからセラフィは考えに考えに考えて……頭が混乱したその時に、自分でも思っても見なかった事を言ってしまったのだ。
「私が、アルヴァンさんの主人になれば、そんな必要ないんだ!!」
「は?」
アルヴァンは呆気にとられた顔をしていた。言ってからセラフィも、自分がとんでもない事を言ったと気が付いた。血の気が引いていく。
どうしよう、こんな傲慢な事を言ってしまった。
アルヴァンさんは、奴隷になる可能性をなくしたくて、この刻印の秘密を守ってくれそうな自分に、この話を持ちかけたのに。
それくらいの信頼が、この人との間に出来上がっていたのに。それを壊すような事を私は。
青ざめてから、血の気がなくなって、ふるえだしたセラフィを、丸くした目で見ていたアルヴァンが、そうだ、そう。
おかしくてたまらないという調子で、笑った。
こんな風に、年相応の声で笑うアルヴァンは初めてで、セラフィが目を丸くしていると、彼は笑いすぎて浮かんだ涙を拭って、こう言った。
「確かに」
その言葉は、セラフィが想定していた何とも違っていて、今度はセラフィの方が言葉も出てこなくなる番だった。
「確かに、セラフィが主人なら、俺の考えつく物はきっと排除されるんだが……セラフィ、奴隷との契約には、主人の方から、何か特別な接触をしなければならないんだぞ。君は男女経験というものが、きっと皆無だろう」
「えっ」
思いもしない契約更新の方法に、セラフィは顔が真っ赤になったのだけれども、言い出した以上、それを翻すつもりが無かったセラフィは頷いた。
「だ、大丈夫。アルヴァンさんに、痛い思いをさせるくらいなら」
「……俺の事より、自分を大事にしてくれセラフィ。君の申し出はとてもうれしいし、ありがたいものとしてだけ、覚えておく。君に皮膚を剥がせというのも、随分ひどい頼みだったな。……すまない」
アルヴァンの方も、かなり悩んだ結果の頼みだったのだろう。
そしてセラフィの言葉で我に返った部分も大きそうだった。
無かった事に、と言いかけたアルヴァンに、セラフィは前のめりになってまくし立てた。
「するよ! わ、私がアルヴァンさんのご主人様になる! そうすれば、アルヴァンさんの怖い事、皆、なくなるでしょう?」
「……」
「どうやればいいの? 手順は?」
セラフィは恥ずかしさその他から、真っ赤になりながらもそう言った。
これに、アルヴァンは顔を覆った後に答えた。
「刻印に手をあてがい、魔力を流して自分が主になると誓って、特別な接触をする」
「わかった」
それだけを言って、セラフィはアルヴァンにぐいと近付いて、彼が露わにしているその刻印に手のひらを当てた。
それから、つたないながらも魔力をそれに流して、まっすぐにアルヴァンを見上げて、言った。
「私が、アルヴァンさんのご主人様だよ」
あまりにも迷い無くやるものだからか、アルヴァンが呆気にとられる間に、セラフィはつま先だって、アルヴァンの首元をつかんで引き寄せて、そして。
その額に、唇を落としたのだった。
いりりりり、と契約の魔術が作動する音がして、じゅう、と焼け焦げる音がそれに続き、アルヴァンが顔をゆがめた。これを見て、セラフィは失敗したのか、と血の気が引く思いに駆られた。
だが、音が消えてからアルヴァンの問題の場所を見ると、そこには、古代文字で、セラフィの名前が刻まれているのだろう。読めない文字があったのだった。
「……アルヴァンさん、これ、秘密にしてくださいね」
「ああ。……俺は、セラフィの形だけは奴隷になったわけか。……誰にも知られない秘密にしておかないとな」
奴隷制度はこの国や近隣の国では撤廃されているため、それをどうしようもない理由であっても、更新したと知られたら、どちらもただでは済まない可能性があった。ゆえの言葉だ。
これを言うアルヴァンは、泣きそうな、笑いそうな、そんな変な顔をしていた。
きっと向き合う自分も、似たような顔なのだろうと思いながら、セラフィは強い声を意識して、こう告げた。
「私の奴隷、あなたに最上位の命令を下します。……あなたは私の命令を聞かなくても、罰を受ける事はありません。あなたの信じる道を行くのです」
奴隷契約ならば、初手で最上位の命令を言えば、奴隷契約自体を上書きできるかもしれない。
セラフィが思いついたのはそれで、そして。
きいいいいと、きしむような音を立てながら、アルヴァンの肩の刻印は、先ほどから一変した、美しくも奇妙な模様に変化したのだった。