10 治癒師のマリーナ
治癒師のマリーナは中堅の治癒師として、この辺境の町の医療院で働いている。
凄腕、天才、といった評判はないものの、堅実で努力を惜しまず、常に患者の事を考えて治療するという評判を持っており、自身も治癒師として働いている時は、患者のためを第一に考えて行動していた。
そんなマリーナを信用する同僚や上司も多く、そのため今回の往診を頼まれたと言っていい。
ちょうどマリーナの担当する患者が数人、退院した事も理由だ。
運良く手が空いた、という奴かもしれなかった。
マリーナはそれでかまわなかったし、助けられる相手を助けるという事にためらいは持たない。
だが今回は少しばかり緊張する相手が、往診の相手である。
召還使いのアルヴァン。それが往診の相手で、辺境の町では名の知られた軍人だった男である。
三年以上前に始まり、一年前に終息した戦争にかり出された男で、その腕前の良さから戦時中であろうともどんどん階級をあげた男だ。
しかしこの男は三年前に、敵の作戦によって孤立させられた第二王子の部隊とともに捕まり、何があったのか、他の捕虜達が解放された後も消息が分からなかったのである。
彼を知っている人間は、人間性の善かった男を心配し、無事を祈っていたが、三年という月日の結果誰もが、死んだのだとあきらめた男だった。
葬式はこの男の実家が行うという話で、辺境の町はこの男の故郷では無かったから、ひっそりと、死を悼むという流れになりそうだった時、なんと驚いた事にアルヴァンは帰ってきた。
誰もが驚いたし喜んだ。それだけ親しまれていた男なのだ。
だがアルヴァンは戦争の代償を負っており、奴隷として売られた事でなのか、もう軍人としては動けないような体にされてしまっていた。
その怪我などは、機能回復訓練を行っても、軍人としての復帰が難しいと医療院も診断したし、訓練施設の方もそういう判断をするほどの重篤な物だったのだ。
だがこのアルヴァン、なかなかに神経が太く、前向きなのか、動けるようになったら何か、また仕事を探すという事を口にしている男だった。
出来なくなったのは仕方のない事。今出来る事を一つずつこなしていく。
そういう割り切り方をする男だったからか、苦痛のため大半の人間が、心が折れそうになる機能回復訓練に毎日通い、少しずつ少しずつ、体を元の通りとまでは行かないが、ましにしている男だった。
そんな男が襲われた。偶然……というかよりを戻そうと近付いた……元恋人であり、既婚者の女性の話を聞いていただけで、女性の夫に襲われて重傷を負った。
あれだけ訓練を続けていたというのに、それが無駄になるほどの怪我を負い、受けた毒のために寝込む事になり、事情を聞いた町の人間は皆、アルヴァンに同情する。運のない奴だな、と。
そして元恋人には白い目を向け、その夫に至っては
「自分の思いこみと妄想で、無関係な人間を襲ったろくでなし」
という事を言う。誰しも不運なアルヴァンに同情している。
マリーナはそんなアルヴァンの往診の担当になり、彼の家に通う事になった。
初日から数日はとても緊張した。
失礼があってはいけない、と誰にでも思う事で緊張したが、数日の間こんこんと眠った後、意識を取り戻したアルヴァンは寝込んでいたが、終始穏やかな調子で往診を受け、マリーナは往診の結果を次に来た時に、言わなければならなかったのだ。
残酷な話になってしまうが、アルヴァンはこの先、起きあがれないという判断をマリーナはしていた。毒の後遺症が背骨の神経に回り、機能不全を起こしていたのだ。たとえ解毒のために寝込む期間が終わっても、一度毒によりひどい機能不全を起こした神経が、元通りになる可能性は限りなく低く、マリーナ自身もどうにかできないかと、上司に相談して、診断結果を見た上司に難しい顔をされたのである。
「もっと早く解毒が出来ていて、背骨に回る前だったら」
と上司は悔しそうに言った。マリーナも悔しく思った。医療院までの距離が近ければ。もう少しだけでも。そう悔やんだのである。
そのためマリーナは重い足取りでアルヴァンの家にやってきて、扉越しにかすかに聞こえた、朗らかな少女の声に少し目を丸くした。
少女。それは噂と言うものが全くあてにならないものだな、と町で噂される、アルヴァンとは別の意味で有名な少女セラフィだ。
セラフィは王都から、除籍された王子と共に追い出されてきた希代の悪女とされていた。
美しい顔と容姿で、男という生き物をことごとく誘惑し、数多の婚約を破棄させた女狐。邪悪で誰もをだます悪女。そんな評判でやってきたセラフィは、しかし、噂とは全く違う少女だった。
働く事をまるでしない王子のために、一人大変な仕事を山のように行い、王子の贅沢があっても借金をしなくて済むほどに稼ぐ少女だった。
王子とセラフィは身なりからして大違いで、贅沢な主人とそのぼろをまとった召使い。二人が並ぶとそうも言われて、だんだん町の人間達も噂が嘘では、と思うようになっていった。
王子はいつでも優雅だが、セラフィは泥にまみれて働き、どんどんやせ細り、やつれ、町にやってきたばかりの時の美貌は見る影もなくなったという話だった。
そして結局彼女は、町の人間が感心して、意識を改めるほどの献身を王子に捧げていたのに、王子に捨てられて、大家の計らいでアルヴァンの補助を行うようになったのだ。
その彼女が、体も動かせなくなったアルヴァンをこれからずっと、面倒を見る事になりそうだ、とマリーナは思っていたのだが、かすかに聞こえた声は笑っていて、いい事があったと言わんばかりだった。
何があったのだろう。
マリーナはそう思ってから、扉を叩き、現れたセラフィに言う。
「今日の往診に来ました」
「はい! マリーナさん、毒消しがとてもよく効いてくれたんですよ!」
セラフィはうれしそうに、マリーナを家に上がらせ……マリーナはありえないものに仰天した。顔にでなかったのは、驚きすぎて表情をとれなかったからだ。
それはそうだった。
アルヴァンは寝台の頭の部分に背中を預けて座り、ゆっくりと貸本屋の本を読んでいたのだから。
治癒師達の誰もが、アルヴァンが起きあがる事は出来ないと判断していた。
背骨の神経をやられた結果、手足ももう満足に動かないと、診断していた。
マリーナはこの結果を、彼らに話す事がとても憂鬱で、足取りも重くここまで来たのに、目の前の事が診断を覆していた。
そして、マリーナを見たアルヴァンが、軽く頭を下げた。
「昨日も今日もありがとうございます。昨日新しくいただいた解毒剤が、とてもよく効いてくれたのか、こうして起きあがる事も出来るようになりました」
「は、はい……」
何が起きたのだ。どういう事になったのだ。昨日、体調などから新しく処方した解毒剤は、確かに評判のいいものだが、だからといってだめになった神経にまで働きかける物ではない。
マリーナは中堅と呼ばれるだけあり、経験も豊富で、解毒剤にも詳しかった。ゆえに、あり得ない事が起きていると、はっきり分かっていた。
「まだ足の方はおぼつかないので、動く時にはセラフィの助けを借りるんですが」
まて、動く? おぼつかないという事は多少は動くというわけで?
マリーナは頭の中が混乱していた。訳が分からないながらも、治癒師根性を発揮し、彼女は気付けば診察をし、症状その他を記録しており、はっとした時にはそれらを眺めていた。
「この回復状態なら、そうですね、一月もあれば元通りと言っていいくらいに回復しそうです。その後また、機能回復訓練に移ってください。くれぐれも急がない事です」
……本当だったら、最悪の話をしなければならなかった。というのにそれらはなくなり、マリーナはお茶を飲む時間までつきあい、半分呆然とした調子で彼の家を後にして、医療院に戻っていたのである。
「マリーナ、つらい事をさせてしまって申し訳ない。アルヴァンさんはどういう反応だった? 彼ほどの精神の人間でも、もうあんなに若いのに寝たきりというのは……」
「せ、せんせい……」
マリーナは上司の言葉に、真っ青な顔になりながら、こう言った。
「アルヴァンさん……座ってたんです……」
「は? あの症状だ、体はまともには動かないはずだろう」
「でも!! 起きあがって、座って、本の頁までめくっていたんです!!」
「はあ!?」
マリーナは直属の上司に叫び、上司もそれを理解して叫んでいた。
そして二人して真っ青な顔になり、急いでマリーナが新たに記録した事を、確認する事になったのであった。
「いくらアルヴァンさんが、魔力が多くて自己再生力が高い可能性があっても、これは奇跡としか言えないだろう……」
上司はあり得ない結果に真っ青なまま、そう言ったのだった。