20.涙
通りに面したバルコニーに、リストリットとニアは足を踏み入れた。
周囲に人はおらず、眼下に見える道の人通りもまばらだ。
リストリットが先に口を開く。
「あまりムードがある場所、とは言い難いな、スマン」
「いえ……それで、お話とは何でしょうか」
リストリットは伏し目がちに話を進めていく。
「ノヴァがお前を責めた、と聞いた。俺が不甲斐ないせいだな。済まなかった」
ニアは淡々と言葉を返す。
「いえ、あれは正論です。お気になさらず」
ニアはただ、たった一つの言葉を待つ。淡い期待を胸にして。
その事を充分理解しているリストリットは、それでも言えない自分に内心、歯噛みしている。
「あ……その……ふぅ。わかっているのに、どうして言葉にできないんだろうな。お前が断るわけがないと、知っているのにそれを恐れている」
「……もう、それもわかりませんよ。これが最後です。アイリーンとも話しました。次の機会で腑抜けたら見限ると。この場で腑抜けていたら、それでもう見限ると決めているのです」
慌ててリストリットがニアの目を見た。
ニアの目は、真っ直ぐ自分を見つめている。嘘や冗談ではない。それを理解した。
リストリットは自嘲の笑みを浮かべながら、静かに口を開く。
「そうか。手遅れ、ということか。十年だもんな。だが手遅れだとしても、俺はお前に伝えなければならない言葉がある。最後に、それだけ受け取っておいてくれ」
ニアは無言でリストリットの目を見つめている。
リストリットは、真っ直ぐニアを見ることができず、その瞳は足元を映していた。
「お前に、”第二王子妃になる覚悟はあるか”、と聞きたかった。だが手遅れという事なら、残った言葉はただ一つだな――ニア、俺の傍に、ずっと居て欲しい。俺には、お前だけなんだ」
目を伏せたリストリットが、ニアの言葉を待って居る。
ニアはただ、言葉を返さずリストリットを見つめ続けていた。
リストリットは小さく溜息を吐いた――手遅れだった。最後の言葉すら、目を見て言えなかった己の不甲斐なさに、我ながら呆れていた。
「そうか。返す言葉も貰えないか。十年間、済まなかったな。本当なら、十年前のあの日に送るべき言葉だった。だが後の事は安心して――」
ようやくニアが口を開く。
「そうですよ、十年、遅いんですよ、この馬鹿」
その涙声に、ハッとしてリストリットが顔を上げた。
目の前には、涙でぐしゃぐしゃになってしまったニアの顔がある。
言葉を貰えなかったのではない。返事を言いたくても、泣いてしまって言葉にならなかったのだ――そう理解した。
リストリットは、そんなニアの顔を己の胸に埋めて周囲から隠した。
「そんな涙と鼻水まみれの顔を、俺以外の奴に見せるわけにはいかんからな。その顔を知っているのは、俺だけでいい」
「――殿下の不甲斐ない姿を知っているのも、私だけでいいんです」
涙声のまま、胸の中で抗議の声が聞こえた。リストリットはそれに笑顔で返しながら、静かにニアが泣き止むのを待って居た。
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ニアが泣き止むと、リストリットはその肩を抱いて部屋に戻った。
室内には、ベッドに仲良く並んで腰かけ、ノヴァの肩に頭を乗せるアイリーンの姿があった。
その顔は幸福に満ち溢れ、見ているこちらが幸せになってしまいそうなほどだ。
ノヴァがリストリットたちの姿に気が付き、声をかける。
『煮え切らない関係が煮え切ったか』
「お前も、神の沽券を守れたようだな」
ノヴァは僅かに自嘲の笑みを浮かべた。
『いや、最後まで全てアイリーンに押し切られた。神の沽券など、跡形もない――だが、代わりに得るものがあった』
リストリットたちはノヴァたちの隣のベッドに腰かけ、ノヴァたちと向かい合う様に並んで腰を下ろした。
「得るものとは、なんだ?」
『アイリーンは燃え盛る魂を持った少女だ。烈火の如く苛烈に燃え盛る存在――かつて俺の傍には、同じように燃え盛る、とても大切な存在が居た。そしてその存在は失われてしまい、永く孤独を味わった。俺はアイリーンに、失われてしまったかつての大切な存在の影を見て、それでヴォルディモートに力を貸すことを決意した』
その言葉に、幸福で顔を緩めていたアイリーンが反応し、顔を上げてノヴァの目を見た。
『それってどういうこと? 記憶が戻ったの?』
ノヴァは静かに頷いて言葉を続ける。
『俺は恐らく、星の神だ。その傍にかつて居た、失われてしまった炎の神を追い求め続けていた。そしてヴォルディモートの祈りでアイリーンの魂を知り、その傍に居られるのであれば、そう思ってこの身体に神の魂を降ろすことを許した。うっすらと思い出せたのは、その程度だ』
リストリットが顎に手を当てて考え始めた。
「それはつまり……お前好みの女を偶然見つけたから、持ち掛けられた縁談を承諾した、ということでいいのか?」
ノヴァは苦笑を浮かべて頷いた。
『お前らしい解釈だな。だが、その通りだ。それで間違いない』
アイリーンはやや不満気だ。
『死んでしまった奥さんそっくりの女を見つけたから、私を望んだ、とも聞こえるわ。心外よ! あなたは、ちゃんと私自身を見て心を決めてくれたのかしら?!』
ノヴァは優しい笑顔でそれに応える。
『お前の魂と炎の神の魂は別物だ。同じ性質を持っているが、人間で言えば似ても似つかない別人、それくらい異なる。安心しろ。俺はお前の魂を見極めたうえで心を決めた』
ニアも複雑な表情だ。
「前の女に似ているから惚れた、というのはとても屈辱だものね。でも、別人くらい違う、というのであれば、好みのタイプだった、という範疇でいいんじゃないかしら」
アイリーンは悩みながら口を開く。
『うーん……そうね、好みのタイプなら、ギリギリ納得してあげるわ――でもそれなら、ノヴァはテスケウシス本人、ということよね。それは間違いないの?』
ノヴァは頷いた。
『テスケウシスという名も、星の神という名も、俺の心にしっくりと馴染む。そしてその傍にかつて燃え盛る存在が居た、というのであれば、先史文明で当てはまるのは星の神テスケウシス本人以外ありえない』
アイリーンも思案しながら頷いている。
『そうね。確かに、他に似た神様は居ないわ――それでノヴァは、テスケウシスの力をどこまで使えるの?』
『わからんな。細かな記憶はまったく思い出せん。今までお前たちに見せたように、人間離れした魔導を扱うことはできるようだが、あくまでもヴォルディモートが修めていた魔導の範囲だ。リストリットの力になれるとしても、その範囲に限られるだろう』
リストリットがその言葉に驚いて尋ねる。
「俺の力になる?! どういう意味だ?」
ノヴァが優しくリストリットに微笑んだ。
『お前の助言で、俺はアイリーンという得難い存在を得ることができた。アイリーンを助けられたことと合わせて、お前には特大の恩義が二つもできてしまった。ならば神として、この恩義は返さねばなるまい。それこそ神の沽券に関わる。お前が望むならば、俺ができる範囲で力を貸してやろう』
リストリットは頭を掻きながら悩んでいる。
「あーそれはつまり、古代遺物としてウェルバットの窮状を救ってくれる、そう言いたいのか? だが俺はお前たちを兵器として扱う真似は嫌なんだ。それをするくらいなら、ウェルバットが滅ぶことになってしまって構わない。その決意は変わらない。嬢ちゃんには、今度こそ救われて欲しい」
アイリーンがきょとんとして応える。
『あら、私はノヴァと同じ時を歩めることが決まって、もう充分幸福よ? ノヴァと一緒にリストリットさんの力になるくらいはしてあげるわ。これでも先史文明の魔導における名家の生まれ。そのなかで稀代の天才魔導士と呼ばれていたのよ? 現代の後退した魔導技術の世界でなら、今の私でも立派に役に立てるはずだわ』
リストリットは渋い顔で応える。
「だが、戦争の道具になるという事の意味がわかっているのか? 命じられるままに人を殺す道具として扱われる。そこに人の心はない。そんな人の矜持の欠片もない事に、お前らを巻き込みたくないんだ」
アイリーンは心外そうに不満を漏らす。
『人を殺す経験なんて確かにしたことはないし、殺したいとも思わないけれど、ノヴァと一緒なら怖いものなんてないわ』
リストリットはそれでも頷かない。
「……女ってのは、恋に生きると逞しいな。だが、そんな経験を嬢ちゃんにさせたくないんだ。だが、お前たちの覚悟はわかった。陛下に知られる危険を承知で、王子として保護して嬢ちゃんに人間らしい生活を送ってもらうことも考えてみよう。それでも、まずは予定通りクランでいったん匿って、そこでアルスラーとも相談する。お前たちの言葉と素性も、なんとかせにゃならん。先史文明の人間として連れて行くかどうかは、それから決めたい」
ノヴァは笑みを浮かべたまま応える
『貴様も頑固だな。下手に隠そうとするから無理が出る。ならば最初から明かしてしまえば、伸び伸びと暮らせるという考え方もあるだろうに。だがまぁ、確かにまずはアイリーンの身体を保守していける場所の確保が先決だ。その問題を先に解決させる。王都へ戻れるだけの魔力回復薬の確保は終わったのか?』
ニアが頷いた。
「ええ、ちゃんと確保できたわ。三十日分の量があるから、十分余裕があるはずよ――でも、そんなに大量に服用して副作用の問題はないの?」
アイリーンがそれに応える。
『今はまだ、大きな影響はないわ。でも成分的に問題が多いわね。副作用のない魔力回復薬の製造は急務よ。私とノヴァの主食ですもの。早く何とかしたいわ』
リストリットが疑問を投げかける。
「人間の食事じゃダメなのか? ホムンクルスってのは。ほとんど人間と変わらないんだろう?」
ノヴァがそれに応える。
『現代の食事の栄養価では、ホムンクルスの魔力消費を賄うことができん。この身体は人間より高機能な分、ただ日々を生きて行くだけでも消費が大きい。ホムンクルスは人間の食事を必要としない身体だが、先史文明でも専用の魔力補給薬があったほどだ。現代でも、どうしても魔力回復薬に頼らざるを得なくなる。身体を作り替えることができる工房があれば、機能を削減することで人間の食事で対応する事はできると思うがな』
リストリットが頭を掻きながら悩む。
「課題が多いなぁ~。まぁいい。今夜はここに泊って、明日の朝王都に出発する。後の事は、アルスラーを交えて改めて相談しよう」




