表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

観覧車で会いましょう

 出来るなら働かずに楽して生きたいと思っていたはずなのに、職場に来るのも今日で最後だと思うとなんだか寂しい気がする。


 一週間前、全ての荷物を整理してしまった。私が使っているデスクはここにはもうない。けれど、それは私のデスクだけじゃなくて、並んでいる全てのデスクが綺麗に片付けられて、同じ作りのものがいくつも並んでいる。

 少し前まで隣の席は先輩が座っていて、その奥の奥の席には私の好きな人が座っていたというのに、今はそんな過去を示すものは何一つ残っておらず、ただ無表情に並んでいた。


 会社が倒産した訳じゃない。ーーー世界が倒産するのだ。難しい事はよく分からないけれど、宇宙ゴミが重力のバランスを失って明後日あたりに一斉に地球に落ちてくるらしい。嘘みたいな、SF映画みたいな壮大なお話だけれど、笑えるぐらい本当の事だ。

 通りを歩いても、殆どの店は空いてないか誰もいない。電車だって今日で動くのが最後だ。もしこれが、例えば映画のような作り話だったら、どんな手を使ってでも、きっとどこかの誰かがどうにかしてくれて世界は滅びない。

都合の良い事は、夢だ。現実に起こらないから、みんな夢を見る。


世界は滅びる。でも、それを私は見届ける前に死ぬ事を選んだ。


 会社が好きだった訳じゃない。ただ何と無く、最後に誰もいない会社を見てみたかった。何人かは同じ考えの人がいたようで、動かなくなったエレベーターに悪態をつきながら階段を上っていると数人に会って、苦笑いをしながら会釈をした。

 人の気配がする度に、私は期待して、すれ違う度、私はほんの少しだけ失望した。


 息を切らして辿り着いた私の職場にはもちろん誰もいなかった。部屋で一番偉い人の席に座って、窓を思い切ってあけて身を乗り出してみたり、私はやってみたかった幾つかを試してみた。

 けれど、それらや、誰もいない雰囲気を味わうのは、数分もいれば充分だった。

 ひと通り楽しんだ私は、結局、自分の席に座ることにした。

 これだけじゃなんだかつまらないから、せめて一つ上の階にある、一番偉い人の部屋に入って椅子に座ってやろうかと思って立ち上がると、ふと好きだった人の机が目に入った。年上の、結婚している人。つい、相談を持ちかけてしまいたくなるような、不思議な人。目元に小さなシミがあって、それさえ愛しく見えた、ずっと出会ってから好きだった人。


 会社に来たら会えるかもしれないと、少し思っていた。会える筈はないと分かっていても、彼と私を繋ぐのはこの場所しかないのだ。かつて彼の席だった机は、もう「彼」の気配を残していない。机の上にも、デスクマットの中にも。


 それでも気配を感じたくて、何となく引き出しを引いてみると、果たして、一本の万年筆がころりと転がり出てきた。高そうな、使い込まれた黒の万年筆。

 途端に彼の気配がして、鼓動が確かに大きく打った。大事な書類に記名する時はいつも使うんだと言っていた、きっと誰かからの贈り物。彼の字が好きだった。その字が書類にあれば、私は安心して仕事が出来た。

 それにしてもこんな大事なものを忘れるなんて。彼らしくないと一瞬だけ思ったけれどすぐに思い出す。ああ、そう言えば会社が終わる日、彼の子供が熱を出したとかで早く帰ったんだった。


 私は、彼の万年筆にも及ばない。「大事なもの」にはなれなかった。そうなってしまえば不幸になるしかないし、彼がそんな人でなかったから好きになったのだと思う。

 一瞬、万年筆を持って帰ろうかとも思ったけれど、それもなんだか気持ちの悪い話だから、万年筆に触れる事もなく引き出しを閉めた。それはころころと転がって、一番端にぶつかったのか、かつん、と味気ない音だけがした。もう、何もかも気が済んだ。どうせ死ぬ。会えない残念な気持ちも、いや、そもそもこの好きと言う感情だって私が死ねば、何もかもが終わる。両親も心配しているし、電車が止まってしまったら大変だ。道端で死ぬのは嫌だから、もう帰ろう、そう思った時だった。


人の気配がした。私は直ぐにそれが、彼のものだと分かった。


「鈴木さん?」

「……朝倉さん」


 すれ違う人の中にも、部屋にもいなかった。会えなかった。それでよかった。会いたいと思って、会える奇跡が起こるなら、世界は滅びない。

 なのに、会いたかった人が今、驚いた顔をして立っている。ーーー私の万年筆を元に戻すという選択は正しかったようだ。何してるんですか、と聞きたかったけれど、それはお互い様だろうから、私は何も言わなかった。自分の奇妙な幸運を誰に感謝すればいいのか、戸惑っていた。私達を滅ぼそうとしている神様にでも、祈れば良いのだろうか。


「どうしたの、忘れ物?」

「いえ、何となく。少し遠出がしたくて」

「遠出?ああ、確かに家遠かったね。俺は忘れ物」

「忘れ物?」

「万年筆だよ、ほら、よく使ってたやつ。どうしても気になって。取りに行くって言ったら妻に怒られたよ」


 彼はそんな人だっただろうか。明後日世界が滅びるのに、わざわざ家族を放って万年筆を取りに来るなんて奥さんからすればとんでもないだろう。

 そこまでして大切なもの、どうせ死んでしまうのに家族との時間を引き換えにしてまで、ここに来させるものが、味気ない音を立てて転がった万年筆だなんて。


 朝倉さんが、引き出しを開けた。やはり味気ない音を立てて、再び万年筆が転がり出てきた。さっき私が勝手に引き出しを開け、万年筆を見つけていたなど、彼は知りやしない。あった、と小さく呟いて、取り立てて嬉しい顔もせず、いつもそうしているように、胸ポケットにその万年筆を差し込んだ。その姿は私が良く知るいつもの朝倉さんだった。


「大切なものなんですね」

「就職祝いに貰って…確かに大事なものだよ、でも本当は少し一人になりたかったっていうのもある」

「え?」

「明後日、死ななきゃいけない事から逃げ出したかったのかもしれない。鈴木さんは?」

「私は…あんまり考えてなかったですね。両親ぐらいしか大切な人もいないし。一緒に死ねるならいいのかなって」

「そうか」


 私はその時、初めて彼の弱さを見た気がした。朝倉さんは酷く真面目な人だ。明後日死ぬ事を諦めきってしまえる程には適当に生きてこなかったのだろう。その真面目さが私には眩しかった。その真面目さに、私は惹かれていた。

 私の人生はそこそこに楽しかった。けれど、突然人生を奪われても諦められるぐらいの人生だった。だからいくら理不尽な、受け入れ難い理由であっても、死を受け入れてしまっているのだろう。

 会話の隙間が生まれ、その中で私達は立ち尽くしたまま、見つめ合っていた。無駄にする時間など無いのに、帰る気がすっかり失せてしまっていた。


 人生で最後に恋した人が目の前にいるというその事実は、思うよりも強い力を持っていて、朝倉さんをーー何故か家に帰りたくなさそうに見えたーー放っておけなかった。何か話そうと思ったけれど、それは杞憂に終わった。朝倉さんが口を開いたのだ。


「鈴木さんは、薬を飲む?」

「…はい。家族みんなで飲む事にしました」

「そっか。…俺は子供に飲ませるなんて出来ないよ」

「……そうですね」


 政府から送られてきた「薬」。多分薬が送られてきた瞬間にみんなが、もう、どこにも逃げ場がないと分かったと思う。

 同時多発に起きる隕石の落下ではなく、その後に起きる沢山の気候の変動に多くの人が死ぬという。磁気がどうのこうのと専門家の人がテレビでしきりに言っていたけれど、みんな死ぬという事実は変わらない。

 もしかして、助かる術はあるのかもしれないけれど、私達には遠い話だ。だから、「薬」は助からない大勢の人達にかけられた慈悲だと私は思う。苦しまなくてもいいように、眠ったまま死ねる素晴らしい薬。政府が一人ずつ配った3粒の錠剤は、隕石を壊せられない政府が打てる手の中で現実的な手段だと私は受け入れていた。

 けれど、朝倉さんにとっては違う。彼には子供がいる。まだ小学生の子供だ。可愛い血を分けた子に死ぬ薬など飲ませられる訳がない。私の両親でさえ、私が薬を飲む事に反対だったのだから、幼ければ尚更だろう。


「きっと薬を飲む事が正解なんだろうね。でも、もしかしたらって思う気持ちもある。生き延びるチャンスがあるかもしれないって。俺は、生きたい。家族と一緒に、子供が大きくなって、もういいかって思える時まで」


 生き延びた先に何があるのか。朝倉さんには希望が見えているのだろうし、そうあれかしという願望もあるのだろう。本当に朝倉さんは眩しい。ーーー私がもし、この人の奥さんだったなら、薬を飲まなかったかもしれない。どんなに変えられない運命の前でも、朝倉さんの希望を、願いを叶える為に一緒に生きようとしたかもしれない。でも、実際は違う。彼の奥さんは私じゃない。

 私にだって、やりたかった事、行きたかった事は沢山あった。けれど生き延びてまでやろうとは思えなかった。薬を貰った時に、楽に死ねると安堵を覚えたぐらいだった。

 

 けれども、こうやって、好きな人が今目の前にいる。二度と会えないと思っていたのに、どうでもいい私の人生の終わりに、光が差した気がした。もうすぐ終わる、二人きりの時間を諦めたくなかった。


「朝倉さん、私、一度でいいから、本当に好きな人と遊園地に行ってみたかったんです」

「……突然だね」

「そうですね。でも、私、もう直ぐ死ぬじゃないですか。そしたらもう叶わないから、朝倉さんに言っておこうと思って」

「何で?」

「朝倉さんに覚えていて欲しいんです。どうか生きて下さい。薬なんて飲まないで」


死ぬなんていつでも出来る。私にとって死ぬのは明後日であって、朝倉さんにとってはもっとずっと後であるべきなのだ。


「それで、また会ったら、もし朝倉さんが私の願いを覚えていたら私の願いを叶えて下さいね」

「俺が?」

「はい。私は朝倉さんの守護霊にでもなって、来世で待ってますから」

「来世か」

「ずっと待ってますよ。朝倉さんはきっと遅くくるでしょう?」

「そうだね、そうだ」



朝倉さんが、瞼を震わせ天井を仰いだ。いつかまた歴史が繰り返して、その奇跡の詰まった大きな流れの中でなら会えそうな気がしてならなかった。奇跡なんて起きない。来世なんてきっとない。けれど、ニュースで専門家の人が言っていたあり得なかったはずの出来事で隕石が降ってくるのなら、あり得ないなんてこの世にないのだろう。


最後に朝倉さんの顔を見るなら、いつもの穏やかな顔が良い。彼が涙を溢れさせてしまわないように、私は言葉を続けた。


「朝倉さんを好きになって良かった」


朝倉さんは驚いた顔をして、目を見開いた。そして、何かを言いそうになって、私はそれを言わせない為に、何でもない、と首を振った。


「……もう、帰りましょうか」


私達にはそれぞれ帰る場所がある。朝倉さんは守るべき家族がいて、私には共に時間を過ごしたい家族がいる。私達の関係が進む事はなかったけれど、なんて幸せなんだろう。

私の言葉に安心したのか、大きくなった朝倉さんの目が緩んで、私の一番好きな顔になった。


「そうだね。ねえ、鈴木さん。また、会おう。会ったら観覧車でも乗ろう」

「え…乗ってくれるんですか」

「もちろん」


今度は私が目を大きく開く番だった。急いで、背を向ける。朝倉さんから奪った涙が、私のものと混じって筋を作っていく。

 私はこの人を好きになれて良かったと、心の底からそう思った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ