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私はその扉の前に立ち、胸に手を当てそっと一つ息をつきます。
その隙に我先に──とエドワルドが扉を開けてしまうかもしれない……という考えが一瞬脳裏をよぎらない事もなかったのですが……。
不思議と、エドワルドはそんなことは致しませんでした。
『早くしろよ』とせっつく事もありません。
もしかしたら……。
エドワルドもあのように無作法で無礼なところもあるとは言え、遺産学者の端くれ……。
長い間、その発見を夢見て日々努力と研鑽を積み重ねてここまで来たこの私の感慨がほんの少しは分かるのかもしれません。
私はそっとその扉に手をかけます。
重厚な樫の木で造られた風のその扉を、ゆっくりと両手で押して開くと──そこは──……。
まさしく『白亜の世界』でした。
白に少し黄味の入ったクリーム色の大理石の壁と床。
そして──その中央に立って微笑みを浮かべる優しげな白亜の女神像──!!
たおやかで気品に溢れ、そしてまるで聖女のような美しい全身像です。
身長は、下にある台座を抜かせばおそらく私と同じくらいでしょうか。
私の身長が160センチですから、背丈は特段高くもなく低くもない、といったところでしょう。
周りのクリーム色の大理石の中にあっても一点の混じりもない、純白の女神像……。
素材は石、でしょうか。
白いつるつるとした石を削って造られているのかもしれません。
この柔和で穏やかな微笑みは、まるで『よくここまできましたね』と訪問者を労うかの様です。
私は──恐る恐る、一歩足を踏み出します。
いつもでしたら「おい、早くしろよ」などと後ろからせっついて声をかけてくるエドワルドも、今日はそうは致しませんでした。
私はゆっくり、ゆっくりと足を踏み出し──……。
そうしてとうとうその女神増の目の前に立ち、その姿を見上げたのでした。
つるりとした陶器の様に白い肌。
口元の微笑は柔らかで、目には魂が宿っているかの様。
本物の絹と見紛うほど柔らかに美しく表現された衣は、まさにエ・レステルの作品らしいものですわ。
その姿にほぅ、と見入っている事しばらく……私はエドワルドの放った小さな咳払いにようやくハッと我に返りました。
ああ、いけません。
私とした事が世紀の大発見を前に思わず惚けてしまっていましたわ。
私はこほん、と一つ咳払いして気を取り直すと、早速『遺産学者』の目で白亜の女神像から、その台座の方へ目を移しました。
台座の素材もどうやら女神像と同じ様ですが……その台座の中央に。
〜まさかエ・レステルの直筆でしょうか!!
揺蕩う様な細い線で文が刻まれていました。
──多くの人々の目に晒されることなく、白は白のまま。
金や欲にまみれた人々の“道具”にならぬ事を望む──
私は──そのたった二文の文字に、何故かぎゅぅぅと胸を締め付けられる思いが致しました。
白は白のまま。
金や欲に満ちた人々の“道具“にならぬ事を望む──。
私はエ・レステルの遺産学者として、これまでたくさんの彼女の作品を見てきました。
この女神像のような純粋なる美術品や、美しさの中にも私達の生活を助けてくれる様な便利な品々──。
けれどその素晴らしい“作品“を私利私欲の為の道具として利用しようとする輩がいる事も事実でした。
自己顕示欲の為の道具に、金儲けの道具に、そして人を貶め自身を優位に立たせる為だけの道具に。
エ・レステル達の時代から百年が経った今でもそうなのです。
当時のそれは、エ・レステルにとって苦しみであったのかもしれません。
自らの作り上げた作品を、このたった一つの女神像だけでもいい、ただ一つの芸術品として残したい──。
それがこの白亜の女神像の階を隠した理由、なのではないでしょうか。
──多くの人々の目に晒される事なく──
これはまさしく私へ──“発見者“へむけた嘆願文、なのでした。
エドワルドが物言わぬ私の横に立ち、腕を組んで私と同じ様にエ・レステルのメッセージを見ます。
そうして少しの間を置いて「で、」と口を開きました。
視線はメッセージを見つめたまま、です。
「これからどーすんだ?
この女神像と部屋の事もそーだが、レステルの直筆文なんて、世紀の大発見だぜ?」
しれっとその様な事を、言って参ります。
私は──我知らずグッと両の拳を握り締めました。
本来であれば。
私は遺産学者としてこの世紀の大発見を学会に──いいえ、世界へ向けて発表すべきです。
発見した遺産は発見者のものではなく、人類皆の遺産……。
その素晴らしさ、その美しさは皆で共有されるべきです。
誰か一人の為にではなく、みんなの為に──。
ですが……。
──多くの人々の目に晒されることなく、白は白のまま──
エ・レステルの文字に──……私はそっと静かに息を吐きました。
エドワルドが私を見ます。
私は──もう一度息を吐き、口を開きました。
「──残念ですが。
この偉大なる大発見は、今回なかったことにさせて頂きますわ。
私達はこの度の調査では何も得る事が出来なかった。
それでよろしいですわね?エドワルド」
きっぱりとした態度でエドワルドへ視線を投げますと、エドワルドが意外なものを見たとばかりに片眉を少し上げて私を見返します。
私は肩をすくめてみせました。
「仕方がありませんでしょう。
それが他ならぬエ・レステルの望みなのですから……」
言いながら──私は白亜の女神像を見上げます。
この美しさ、この微笑みは発見者である私に送られた、いわばご褒美。
このように貴重で美しい作品をこんなに間近にこの目で見れただけでよしとしようではありませんか。
「口惜しいですが、この白亜の間は私の胸の中にだけ、しまっておく事にいたしましょう。
このような世紀の大発見、公表出来ませんのは本っっっ当に口惜しい限りですが」
「口惜しい2回も言ってんぞ」
「くぅぅぅ……っ」
ぎゅっと拳を握り締めつつうめく中──エドワルドがやれやれとばかりに肩をすくめました。
それでも、
「──ま、俺もあんたの意見に賛成だけどな」
さらりとそんな事を言って──エドワルドは女神像の足元に近づき、片膝をついて台座のレステルの文字を見つめます。
そうして徐に懐から小さな擦り切れた手帳を取り出し──……珍しくも一端の学者らしい顔つきでそれを丁寧に書き取りました。
私はその様子に──エドワルドの横からちょっと頭を覗かせて、その文字以外何の変哲もなさそうな台座とエドワルドの手帳をチラ見致しました。
エドワルドが書き取っていたのは、レステルの嘆願文ではありませんでした。
何だかよく分からない記号が一つ。
改めて台座を見てみますと、確かに台座の一番下、右の端に小さくそれと同じ記号が彫られていました。
筆跡は、たゆたう様に細やかな、レステルのものです。
シャープ(#)の縦棒二本を右上から左下へもっと傾斜をつけて描いた様な、そんな記号でした。
右下の線の交わり部分には──どうやら×印が書かれている様です。