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エグジスタンス・ゲーム  作者: ソライチ
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AfterStory 第2話

 翌日の15時前。南雲と那須は再び海老澤の家の前に集まった。那須は昨日と同じように自転車を玄関前に止め、ハンドバッグ片手に玄関の前で待つ南雲の元へ駆け寄る。と、2人のスマホにメールが届いた。

『おはよう。第5の指令だ。以下に俺のパソコンのパスワードを記載した。それを使ってログインしろ。ちなみに電気代はまだ払ってるから、もし電気が使えなかったら台所横のブレーカーを確認してくれ。では、健闘を祈る』

 そのメールに目を通した南雲が、ため息交じりに家を見上げる。

「ブレーカー云々っての、最初から教えてよ・・・」

「海老澤らしいわ。回りくどい」

 そう話しながら2階へと向かい、言われた通りブレーカーを上げる。と、いくつかの家電がブーンと動き出した。

 書斎へ戻りパソコンをつけ、メールで送られてきた通りのパスワードを入れるとあっさり認証され、パソコンのデスクトップ画面が表示された。マウスとキーボードをたどたどしく扱いながら、南雲が少し不安気な口調で呟く。

「なんか・・・。落ち着かないね、他人のパソコン操作してるって」

「この前、丹部は平然と谷場さんのパソコンいじってたけどね」

「丹部くんは丹部くんだもん・・・」

 そう言いながらファイルをチェックしていくと、畑中、と書かれたフォルダを見つけた。南雲は躊躇いなく、それをクリックする。

 それはどうやら、畑中と接触したときのキャラ名のメモやチャットのスクリーンショットのようで、情報が細かくまとめられていた。1つ1つ確認しながら、南雲は感心するような声を上げる。

「へー・・・。やっぱチャットだと、畑中くん饒舌だなあ」

「どんな感じ?」

「これとか。えっとね、マッカリューってのが畑中くんで、リンプルってのが海老澤さんらしいよ」

 そう言いながら南雲は、那須へチャットのやり取りを見せた。

『[マッカリュー]:じゃあリンプルって、仕事してないの?

 [リンプル]:してないです

 [マッカリュー]:まじ?w自宅警備員?www

 [リンプル]:マッカさんは?

 [マッカリュー]:俺はこれが仕事みたいなもんだからw

 [リンプル]:人のこと言えないじゃないですか

 [マッカリュー]:自宅警備員最高だよねwwだってもう夜明けの時間だよ?wwまーた昼夜逆転だわーwww

 [リンプル]:寝てくださいよ

 [マッカリュー]:デイリーこなさないと寝る気になんねえもんwあ、ちょっとID誘われたから行ってくるー、じゃ』

 そんなチャットでのやり取りを眺めた那須は、軽く首を傾げる。

「IDって?」

「インスタントダンジョン。えーっと・・・。まあ、うん、強いボスと戦うところ。いわゆるダンジョンとか迷宮とかだと思ってもらえれば」

「なるほどね。でもこれ言われなきゃ、絶対海老澤さんと畑中逆だと思うわ。というか、リアルだと逆でしょ?」

 那須の言葉に、南雲は複雑そうな顔で頷いた。

「だからネット弁慶って言葉が生まれたりしたんだけどね。顔も素性も分からないとなると、強気で出れる部分はあると思うし。多分畑中くんの本当の素、というか性格だと思うよ」

「ふーん・・・」

 那須は飽きたようで、早々に画面から視線を外した。南雲は他にもファイルがないか漁っていたが、やがて諦めたようにマウスから手を離した。

「すごいね。このデータ以外、全部初期化されてる」

「初期化?」

「うん。ソフトもデフォルトだし、データも何も残ってない。webの履歴すら出てこなかった」

「隠したいのかオープンにしたいのか、よくわからないわね・・・」

 と、またメールが飛んできた。2人とも黙って画面に目を通す。

『そろそろ開けたかな?では第6の指令。畑中が集中的にプレイしていたゲームのデータをファイルにしてある。それを持って畑中の家に向かい、彼が何か将来の夢的なものを書いてないか調べてほしい。

 ローカルファイルに限らず、ゲーム内での日記、ログ、チャットのやり取りなど何でもいい。叶えられるなら、それを叶えてほしい。見つからなければそれでいい。では、健闘を祈る』

 読み終えた那須が青いファイルを持ってきて、畑中の住所をスマホに打ち込む。と、南雲が少し不安そうな顔で呟いた。

「畑中くん、あそこに来たきっかけが両親が30万残して消えたから、だったんだけど、今も家あるのかな・・・」

「どうでしょうね。・・・今住所調べたら家が出てきたんだけど、見る限り一軒家だから親御さんが戻ってきている可能性はあると思う」

「・・・とりあえず行ってみる?」

 パソコンのテキストデータをスマホへ移しながら南雲が聞くと、那須は頷いて立ち上がった。

「行くしかないでしょうね。・・・そうだ。また前回と同じように、私たちは畑中の知り合いで、ここに来るついでに頼まれごとをしに来たって体で行くよ。死んだことを言うわけにいかない」

「うん、分かった」

 そしてまた昨日と同じように2人で自転車に乗り込み、畑中の家を目指す。

 南雲がナビゲーションしつつ10分ほど走り、やがてたどり着いたのは立派な一軒家だった。ヘルメットを取りながら、南雲が感嘆の声をあげる。

「大きいなあ。・・・うん、表札も畑中だね。彼の実家の可能性高そう」

「立派な家住んでんじゃない。ってまあ、パソコンやりながら引きこもってたんだから、余裕ある家じゃないと無理か」

 そう言いながら那須がインターホンを押す。数十秒後、中年の女性が怪訝そうな顔で出てきた。

「どちら様ですか?」

「突然すみません、私たち琉人くんの知り合いで。本人に頼まれて、パソコンのデータ整理に来たんです」

「あら、琉人の?あらあらあら・・・」

 那須が流暢に受け答えすると、女性は戸惑ったように目を大きく見開いた。が、すぐに門扉を開け、2人を出迎える。

 那須と南雲を家の中に招き入れながら、女性は2人にどこかすがるように口を開いた。

「琉人は元気なの?」

「恐らく・・・。私たちも最後に会ったのは2か月前で、東京に戻ると伝えたらお願いされたので」

「あら、じゃあ琉人は今遠くにいるの?」

「ええ。本人から、もう少ししたらまた移動するからって言われてて・・・。だから今の場所は私たちも知らないんです。すみません」

「そうなの・・・」

 それきり女性は黙り込み、無言で2人を2階の部屋に案内する。

 案内された部屋は、とてもシンプルな内装だった。飾り気のない黒と白で構成されたベッド、傷とシールの跡がついた机とパソコンと小型プリンター、そして木の棚に詰め込まれた文庫本、小さめのタンス。フィギュアやポスターなどの装飾品は、一切ない。

 南雲と那須が落ち着かなさそうにそわそわと周囲を見渡す中、女性はそそくさとお茶を運んできて机の上に置き、改めて2人に向き直って口を開いた。

「あなたたちは、琉人の友人なのよね」

「はい、そうです」

「琉人は・・・。あの子はどうだった?」

「・・・すごくしっかりしていて、私たちが喧嘩してたときも仲裁してくれたりして、とても良い友人でした」

 那須が静かに告げると、女性はそう、と柔らかい笑みを浮かべた。

「あの子は昔いじめられてからこの部屋から出てこなくて。主人が、こうなったら荒療治だって、お金だけ置いて2週間黙って家を空けたの。あの子には引っ越すって嘘をついて」

「ああ・・・。言ってました」

「自力で生活して、ついでに就職もしていたら、なんて思ってたら、あの子は家を出てて。心配してたんだけど、ここで親心を出すとまた甘えてくるからって、我慢してたのよ」

 良かった、と女性は深い安堵の息を吐き出してから、慌ててドアに手をかけた。

「あ、パソコンいじるのよね。私はあんま見ない方がいいだろうから、1階にいるわ。何かあったらいつでも呼んで頂戴」

「はい、ありがとうございます」

 那須が微笑んで言うと、女性は部屋を出ていった。その足音が階段下に消えてから、南雲が那須の横顔を見てため息をつく。

「よくあんなすらすらと嘘つけるね・・・」

「知ってる?私、元大手企業勤めなの。あのくらいのハッタリなんて余裕よ余裕」

「大手企業の社員ならハッタリかませる、ってわけでもないだろうけどね・・・」

「何言ってんの。あの人たち、面接でハッタリかましてる人がほとんどなんだから。出来るに決まってるでしょ」

「・・・おれは良く分からないけど、あんま外で言わない方がいいよ、そういうの」

 南雲はそう那須を窘めると、パソコンの電源ボタンを押した。

「入れるかな。パスワード分からないけど・・・」

「勘でどうにかならない?」

「それで破れたらハックし放題・・・。あ、パスワード設定されてなかったみたい。良かった」

 無事にパソコンが立ち上がり、とあるゲームの壁紙が設定されたデスクトップ画面が表示された。と、同時にいくつかアプリが立ち上がり、南雲が軽く顔を輝かせる。

「あ、チャットアプリも自動ログイン生きてる。これならパスワード分からなくてもログ漁れるよ」

「ふーん。さっきから思ってたけど、南雲って結構パソコン詳しいよね。私あんま分からなくて」

「まあ、ほら、ネカフェで生きてたから、ちょっとは知識ついてきて・・・」

「・・・ああ」

 那須が気の毒そうに口を閉ざした。だが、南雲は気にした素振りもなく、いくつかアプリをクリックした後、とあるチャット窓を開いた。

「あ、この人と仲良かったみたい。結構やり取りしてる」

 南雲はそう独り言を呟くと、ログを遡り始めた。

 那須は少しの間そんな南雲を眺めていたが、すぐに興味をなくして本棚の前に立つ。そしていくつか文庫本を手に取り、へえ、と感心する声をあげた。

「有名どこからマニアックなとこまで、数こそ少ないけどいい感じで揃ってるなあ」

「那須さん本好きなの?」

「ある程度ね。んー、昔の文豪から最近のノンフィクションまで結構ある」

「漫画とかもあったり?」

 南雲が尋ねると、那須は本棚をじっくり眺めてから首を横に振った。

「漫画は全然ない。本当に文庫本と、後何冊かのゲームの攻略本しかないね」

「へえ・・・。すごい偏見だけど、こういう引きこもりの人ってゲームアニメ漫画、みたいなイメージあったんだよね。フィギュアとか飾ったりして、おれの世界!みたいな」

「私も。だから結構意外だなあって。男の子の部屋にありがちなブツもないし」

「・・・まあ、キレイだよね。潔癖症だったのかな」

「潔癖症の人間が、あんな倉庫で暮らせるわけないじゃない。それより、見つかったの?」

 那須がパソコン横に戻りながら尋ねると、南雲は腕を組み軽く首を傾げた。

「うーん・・・。さっきからいくつかチャット窓見てるんだけど、ゲームの話ばっかで私生活のこと全然話してないんだよね。通話ログは残ってるから、通話で話してるのかもしれないけど・・・」

「あー・・・。まあ、ゲームが生活の全て、みたいな感じだもんなー」

「そうだね。ちょっとブラウザのお気に入りも見てみるよ」

 南雲はそう言ってまたマウスを操作し始めた。那須は暇そうにその手元を眺めてから、部屋を見渡しぽつりと言う。

「にしても、畑中ってここで引きこもってたんだよね。こんな部屋で毎日、何考えて過ごしてたのかな」

「・・・案外、ゲームのことしか考えてなかったりして。ゲームのこと考えながら寝て、ゲームのこと考えながら起きて」

「うーん、そんな人間が、あの場所に来るとは思えないのよね。絶対漠然とした不安は抱えていたはずだけど・・・。それより、何もない?」

 那須が画面を覗き込むと、とあるゲームの日記帳が映っていた。南雲はマウスを器用に操りながら言う。

「畑中くんのキャラ名で調べてみたら、いくつか日記・・・。まあブログだね。それが出てきたんだ。今ざっと目を通してるけど・・・。やっぱりゲームのことしか書いてない」

「あっちもゲームこっちもゲーム。・・・本当に南雲の言う通り、ゲームのことしか考えてなかったのかなあ」

 那須が呆れたように言った瞬間、パソコンからポコンという音が聞こえてきた。南雲がアプリを確認すると、畑中と結構やり取りしていたという人から、チャットが届いていた。

『おー、リュー久々じゃん。数か月何してたん?』

 そんなラフな呼びかけに、那須と南雲は顔を見合わせた。数秒間見つめ合ってから、那須が静かな口調で言う。

「・・・なりすます?」

「なりすまし!?いや、素直に状況知らせて聞き出そうよ。そっちの方が早いって」

「リアルの知り合いだったらどうするのよ。家ピンポンしてきて、畑中くん亡くなったって聞いたんですけど・・・。なんて言われたら全部終わるよ」

 那須の鋭い言葉に、南雲は一瞬声を詰まらせた後、ため息をついた。

「う・・・。でもなりすましたとして、どうやって聞き出すの?相手のことならともかく、当人だよ」

「まあいいから。無理そうなら終わらせればいいんだから。どうせ私たちがいなくなったら、またオフラインに戻るだけだし。それに南雲、さっきまで畑中のログ見てたでしょ?書き方真似できない?内容は私が指示出すから」

「おれ、そこまで器用じゃないけど・・・。わかった、信じるよ。やるだけやってみる」

 南雲はそう言うと、渋々キーボードに向かい合う。

 そうしてネンデルと名乗る相手と、マッカリューと名乗っていた畑中のアカウントになりすました南雲との、奇妙なチャットのやり取りが始まった。

『マッカリュー:久しぶりwいやリアルが忙しくてw

 ネンデル:ならいいけど、急に連絡取れないしログインもしてこないから、心配してたんだぞ

 マッカリュー:ごめんごめんwいや就職決まってさ

 ネンデル:就職!?リューが!?何があった!?あのゲームが仕事wとかほざいていたやつが!!!

 マッカリュー:色々あったんだよ、俺も。案外頑張れそうだわw

 ネンデル:いやー.....。ちょっと驚きすぎて手が動かないwええ、まじで?まじで言ってる?

 マッカリュー:まじまじ。大マジw

 ネンデル:就職するくらいなら死んだ方がマシとか、引きこもりは人生勝ち組とか言ってたのに......人間って変わるんだな

 マッカリュー:だろ?w昔の俺とはもうお別れしてきたからwこんにちは新しい俺ww

 ネンデル:こんにちはじゃねえよwwまあでもリューって結構物知りだったもんな。攻略法もすぐ見つけるくらい頭良いし。やっぱ人間、本気出せば変われるんだなあ......』

 ここまでのやり取りを見て、那須がため息をつく。

「なんか聞けば聞くほど、畑中のグズっぷりが見えてきてため息しか出ないんだけど」

「働いてた人間から見るとね・・・。彼、本当に引きこもってゲームすることしか考えてなかったかも。どうする?」

 南雲が問いかけると、那須はしばらく画面を見つめた後、お茶を一口飲んでから視線を鋭くした。

「・・・待って、良いこと思いついた。もうちょっとチャットしてみて」

「ええ、まだやるの?まあ良いけど・・・」

 南雲は不安そうにしながらも、再びキーボードに手を置いた。

『マッカリュー:昔の俺なんてまじでクズだったかんねwでも人間、変わりたいって言ってたら変わるんだよw

 ネンデル:あー......。言ってたな、いつかいじめっ子に復讐したいけど、腕力ないから社会的に復讐するしかないって

 マッカリュー:そそ、だから今回はその一歩w

 ネンデル:結構色々言ってたよなw弁護士になるとか、警察官になってあいつらの違法行為をひたすらマークするとかw結局何にしたの?w

 マッカリュー:まずエクセルの使い方から学ぶことにしたw

 ネンデル:事務員かよwまあ現実はそんなもんかww』

 キーボードを叩きながら、南雲がぽつりと呟いた。

「さすがにいじめっ子に復讐はなあ・・・。無理だよね」

「そこまで突っ込む権利はないわ。申し訳ないけど、畑中には来世に期待してもらって・・・」

 そう言いかけた那須が、画面を見て言葉をぶった切った。チャット画面に、相手から続きが送られてきていたからだ。

『ネンデル:後、親御さんにも感謝してんだろ?たびたび言ってたもんな。学校行けなくても最低限の勉強だけは見てくれて、食事も毎食手作りで、完全放置じゃなくて時折話しかけてくれて、感謝してるって』

 それを読んだ南雲が、少し悲しそうな顔で言う。

「そっか、確かに優しそうなお母さんだったもんね・・・」

「そうね・・・。親御さんか・・・。当たり前として捉えずに、ちゃんと感謝してたのね」

「根っこはいい子なんだよ、畑中くん。いい子で純粋で頭が良くて・・・」

 南雲はそこまで言うと、目を伏せて黙り込んでしまった。那須がその言葉を引き取って続ける。

「頭が良いゆえに巻き込まれてしまった。本当にゲームのことしか考えてなくて、目先だけの幸福だけを追い求めていたら、きっと巻き込まれずに済んだのに」

「・・・そう。畑中くん、ずーっと生きたいって、言って」

 南雲がそこでプツリと言葉を切って、辛そうに俯いた。ぎゅっと握りしめた拳が震え、キーボードに当たりカタカタと音を立てる。那須もしばらく口を閉ざした後、深く息を吐きだしてから宙へ視線を向けた。

「ったく、海老澤め。一番の願いを摘み取った人間が、何いけしゃあしゃあと叶えられるなら叶えてほしい、よ。ばっかみたい」

「そうだね・・・。何かおれらに出来ること、あるかな」

 南雲が顔を上げて呟くと、那須はふと画面に視線を向けて言う。

「そういえば畑中って、SNSとかやってた?画面見てない気がするけど」

「あ、そういえばお気に入り登録にあった気がする。・・・これかな」

 南雲がサイドバーをクリックすると、有名なSNSのトップページが開いた。名前は相変わらずマッカリューだ。しばらく投稿を見たり他の人とのやり取りを眺めたりするが、相変わらずゲームの話ばかりで、南雲が少しうんざりした声をあげる。

「本当にゲームの話しかしてないなあ・・・。好きなのは良いことだけど」

 と、黙って画面を眺めていた那須が急に手を伸ばし、南雲からマウスを奪い取った。困惑する南雲をよそに、那須はアカウント切り替えというボタンを押し、笑顔を浮かべる。

「やっぱりサブアカあったー」

 表示されたのは、マッカリューと書かれたメインアカウントと、非公開設定になっているハタというアカウントだった。那須は躊躇いなく、ハタと書かれたアカウントに切り替える。

 フォロー0、フォロワーも0。つまり畑中本人にしかアクセスすることが出来ないアカウントで、彼が投稿してきた言葉を確認していく。ゲーム内の愚痴などがほとんどだったが、やがて、とある投稿で那須の手が止まった。

「南雲、見てこれ」

 彼女が指差したのは、今から半年ほど前に投稿された文章だった。

『このままで良いのかな、なんて思う時がある。お母さんは何も言わないけど、父親はたまに部屋に入って怒ってくる。もちろん俺の為なのは分かってるけど、これ以上俺に何かを求めないでほしい』

『外に出るのが怖い。せっかく俺の生きる世界が見つかったのに、それを捨てて外に出たくない。でもこのままだと両親を悲しませるのは分かってる。心配かけてるのも分かってる。分かってるだけじゃどうしようもないことも分かってる。・・・本当に俺って無価値だな』

『ごめんお母さんお父さん。こんな俺産まれてごめん生きててごめん。でも死ぬ勇気も変わる勇気もないんだごめん。何で生きてるんだろう、俺』

『また寝れなくて朝。子供の声を聞くとイライラしてどうしようもない。俺だってあんな学校生活送りたかった。お腹の中からやり直したい。生まれ直したい。友達すらいなかった人生を全部リセットしたい』

 そこに綴られていたのは、ストレートな畑中の心情だった。茶化すことも誤魔化すこともなく、彼自身の言葉で淡々と書かれた文字列を見て、那須が小声で呟く。

「悩んでたのね、彼なりに」

「うん。多分誰にも話せなかったんだろうね。・・・親御さんにも、言ってないと思う、これ」

 南雲が言うと、那須は考えるように窓の外を見つめた。差し込んできた夕日が那須の顔を優しく照らす。

 と、那須はパソコンを操作し、プリンターを通して畑中のその投稿を印刷した。畑中の素直な感情が紙の上の文字となって現れる。それを掴むと、那須は南雲の腕を引っ張って部屋の外に出た。引っ張られながら、南雲が戸惑いの声をあげる。

「な、なに?どうするの?」

「素直に畑中の言葉を伝えるしかないでしょ。あんた仲良かったんだから、話してあげてよ」

「ええ・・・」

「もう私たちに出来るのはそれしかないから」

 そう言いながら階段を下り、2人は畑中の母親のところへ顔を出した。ダイニングテーブルに座ったまま出迎える女性へ、那須は紙を手渡しながら言う。

「これ、整理してたら出てきました。琉人くん本人の言葉です」

「・・・あの子が?」

 女性は紙を受け取ると、数行しかないそれを、時間をかけて何回も何回も読み返す。と、那須はそんな女性の正面に腰掛けながら、真剣な顔で口を開いた。

「私たち、そこまで長い間一緒にいたわけじゃないんですけど、それでも彼は優しくて、友だち思いで、やるところは覚悟を決めてやる、そんな人でした」

「・・・ええ、ええ。あの子は優しい子でした」

「彼は頑張ってました。自分を変えたくて必死でした。弱音も吐かず、真っ直ぐ物事と向き合ってました。こんな思いを抱えていたとは思えないほど」

 那須が凛とした表情で言うと、女性の目に涙が浮かんできた。女性は涙を指で拭いながらも、何回も何回も頷く。

「こんな思いで、今までずっと生きてたのねあの子は・・・」

 と、南雲が戸惑いながらも静かに口を開いた。

「僕も・・・。畑中くんに助けられました。落ち込んでいた僕を慰めてくれて、待ってるからって言ってくれて・・・。僕が助ける場面なんて全然なかったです。それくらい、立派で、真面目で、寄り添ってくれる人で」

「そう・・・。良かった」

「きっと彼なら・・・。どこに行っても、大丈夫だと思います」

「ありがとう・・・。あの、あの子は、幸せになれそうですか?」

 女性は必死で涙を拭いながらも、南雲の顔を真っ直ぐ見つめて尋ねた。その真っ直ぐな視線に、南雲は一瞬だけ唇を噛んで下を向く。

 が、すぐに顔を上げ、視線を正面から受け止めた。そして感情を殺し、静かに口を開く。

「・・・遠い場所で、幸せになってると思います。彼ならきっと、大丈夫です」

「・・・ありがとう」

 紙を握りしめながら静かに泣く女性に、那須は深々と頭を下げてから部屋を出ていった。南雲も真似して頭を下げてから、それに続く。

 畑中の部屋に戻ってから、南雲は目に浮かんだ涙を拭って呟いた。

「・・・畑中くん、もう帰ってこないのに。決して褒められた死に方じゃなかったのに」

「・・・辛いね」

「言えないよ。天国に行ってますなんて・・・」

「・・・辛いこと思い出させてごめん。今の私たちには、これしか、出来なくて」

 那須が小声で言うと、南雲はもう一度真っ赤になった目を拭い、首を横に振った。

「那須さんも辛かったでしょ。謝る必要ないよ。・・・これがおれたちに出来る精一杯だよね」

「うん・・・。ごめん」

 那須は反射的にもう一度謝ると、疲れたようにベッドに座り込んだ。南雲も座ろうとして、ふとパソコンの画面に目を向ける。そこには、チャットの続きが届いていた。

『ネンデル:どうしたー?また親フラかー?』

 その文を見て、南雲は無言でキーボードを叩き始めた。

『マッカリュー:うん、ちょっと色々あって。で、しばらく忙しくなるから、全然来れないかもしれない

 ネンデル:そうだよなー、頑張ってな

 マッカリュー:ありがとう。いつかまた、どこかで話そうよ

 ネンデル:ああ、いつでも顔出してくれよ。皆待ってるから。色々聞かせてくれよ

 マッカリュー:うん、バイバイ

 ネンデル:お疲れー、また』

 チャットを打ち切り、パソコンをシャットダウンしてから南雲は手で顔を覆った。

「畑中くん・・・。彼は悩んでたけど、でも帰る場所はあったんだね。お母さんも待ってたし、こうして話す友達もいたし」

「そうね・・・。何なの、海老澤ってやつ。勝手にゲームとか言い放って、人殺して、自分は余命わずかだからって・・・」

 那須がわずかに怒りを滲ませる。が、すぐに無表情に戻ると、疲れたように立ち上がった。

「・・・とりあえず長居するわけには行かないし、外出ようか」

「そうだね。公園で丹部くん待つなり、海老澤さんちに戻るなり・・・」

「海老澤んちに戻る。んであいつの過去を徹底的に洗い出してやる」

 那須は即答して、部屋をスタスタと出ていった。南雲も慌ててそれを追いかける。

 1階に下りてまだ泣いていた女性に挨拶すると、彼女は泣きながら、ありがとうと深々と頭を下げてきた。南雲たちは曖昧に誤魔化して、逃げるように家を出る。

 ほとんど無言のまま自転車に乗り込むと、那須は勢い良く自転車をこぎ出した。かなりの速度で景色が流れていき、南雲が思わず那須の服を握る。

 やがて海老澤宅にたどり着くと、那須は軽く息を切らせながらも、南雲を置いてずんずんと2階へ上がっていった。そして真っ直ぐ書斎に入り、パソコンデスクにハンドバッグを勢い良くドンと置くと、ついてきた南雲へ鋭い目線を向ける。

「さて、探すよ」

「ええ・・・。ど、どうやって?」

「んなの、手当たり次第に見ていく以外ないじゃない。何かあいつの恥部を見つけて、後世まで恥を晒してやる」

「こ、怖いって・・・」

 顔が引きつっている南雲を放置して、那須は引き出しを漁り始めた。

 南雲は呆然とそんな那須の動きを見ていたが、やがてノロノロと移動し、棚の中から適当にCDを取り出す。それを見て、那須は怪訝そうな顔を浮かべた。

「CD?そんなところにあるわけないじゃない」

「いや、でもこっそり中身入れ替えてないかなって。ほら、あるじゃん。外は普通のDVDで中身がちょっとアレなやつとか」

「・・・間違って別のCD入れちゃうことはあったけど、それはない。何、男ってそんなことしてんの?南雲も含めて?」

 那須はパソコンの電源を入れる手を止めて、冷たい視線を南雲に向けた。彼はその視線に慌てながらも、次のCDを手に取る。

「お、おれはやってないけど。うん、まあ、CDとか好きな人はいっぱいあるから、ほら。木を隠すなら森の中、みたいな」

 そう誤魔化しながら勢いよく開いたCDケースから、カードキーが飛び出してきた。カードキーは2人の間に放物線を描き、カタンと乾いた音を立て床に落ちる。すかさず那須がそれを拾い上げ、じっくり見つめてから首を傾げた。

「・・・何の鍵?」

「何だろう。1階のドアの鍵とかだったりするのかな」

「・・・そういや全部鍵かかってたか。あそここそ、何か隠しているかも」

 那須はそう言うと立ち上がった。そして1階に下り、カードキーを片手にざっと見て回る。と、すぐに家の奥、リビングに当たる場所に読み込み用機器を見つけた。那須がカードキーをかざすと、カチャッという小気味いい音とともに、ロックが解除される。

 那須が恐る恐る室内を覗き込み、そしてすぐに南雲を前に押しやった。

「・・・先行って」

「あ、うん。・・・なに、これ」

 一歩足を踏み入れた南雲が、引きつった声をあげた。

 壁をぶち抜いたかのような、横長の16畳ほどの広い室内。そんな中にずらりと並んでいたのは、資料集でしか見たことないような拷問用の器具だった。1つも窓はなく、薄暗い蛍光灯が頼りなく器具を照らしている。

 南雲たちは深呼吸してから、禍々しさを放っている室内に踏み込んだ。2人の背後でガチャリと扉が閉まる。

「すごいね、これ・・・」

「海老澤、こんな趣味してたの?やっぱりあの場所でも、私たちが苦しんでるのを見て楽しんで・・・」

 那須は声を震わせながらも呟いた。と、南雲は器具の間を歩きながら、困惑するように言う。

「・・・楽しんでは、なかったと思うけど」

「いや、すっごい楽しそうだった。谷場さんにドッグフード食べさせているときとか」

 那須が言い切り、南雲は複雑そうな顔をしながら話題を変える。

「にしても、すごいねこれ。これは電気椅子かな・・・」

「うん、あと十字架とかまであるわね・・・。趣味悪いなあ」

 那須はそう言いながら部屋をぐるっと回り、そして近くの棚らしき家具を眺め始めた。

「これでさらに、海老澤が使ってたデータがあれば完璧なんだけどな。海老澤本人がやられてる映像ならもっといい。電気椅子座っていたりとか」

「ええ・・・。さすがに他人に使うためじゃないの・・・?自分で使うの?」

「どっちかは分からないでしょ」

 その那須の言葉に、南雲は一瞬視線を宙に向けてから頭を振った。

「へ、変な想像させないでよ。おれ、海老澤さんにスタンガン当てたりしたんだよ・・・?」

「それも内心喜んでたんじゃないの?すんなり受け入れてたじゃない、あいつ。そういや拷問まがいのこともあっさり受け入れてたよね。私のシチュー食わせたときとか」

「ええ・・・。ちょ、那須さ・・・。いや、ちょっとは反抗して、た、けど、ええ・・・」

 言葉を失って立ちすくむ南雲を放置し、那須は棚の中を漁り始めた。続々と出てくる拷問用の道具に顔を引きつらせながらも、何も言わずに棚を漁り続ける。

 一方、南雲はうろうろと室内をうろつき、器具を触ってはビビって手を引く、というのを繰り返していた。それを見かねた那須が、引き出しを開けながらため息交じりに言う。

「あんまうろうろしないでよ。手伝うなら手伝って、嫌なら黙って立ってて。でないとそこの椅子に座らせるよ」

「いや、あ、ごめんなさい。なんか隠しの収納とかないかなって思って」

「棚探し終わってからでいいでしょ。あとこの棚だけだし。待ってて」

「あ、うん、はい、ごめん・・・」

 南雲は謝ると部屋の隅に行き、深いため息をついて壁に寄りかかる。次の瞬間、寄りかかった壁が割れ、南雲の身体を飲み込んだ。同時に、ガシャン、と言う金属製の重たい何かが落ちてきた音が室内に響き、その音に驚いた那須が勢いよく振り返る。

「南雲!?」

「ったい・・・。うー、何これ」

 壁の向こうから、元気そうな南雲の声が聞こえてきた。

 那須が近寄ると、壁の向こうには檻が設置されていて、南雲が閉じ込められていた。2人の間を、鍵がかかった鉄格子が隔てている。南雲は座り込み、呆然と周囲を見渡しながら、どこか平坦な声で呟く。

「何これ・・・。何でこんなとこに・・・」

「ちょっと、南雲?何でそんな悠長なの!これ何!?」

 那須が怒って鉄格子に手をかける。が、扉はガタガタと揺れるだけで開く気配はない。南雲はようやく立ち上がってから、そんな那須の手を止める。

「うわあ・・・。何だこれ。那須さん、と、とりあえず鍵探してほしい。物理で突破できそうにないし」

「もう!あんたが余計なことするからこうなってるのに、そんな落ち着いてないでよ!」

「や、ご、ごめん。でも、タイムリミットがあるわけじゃな・・・」

 そう言いかけた南雲の頭上から、ずんと天井が下がってきた。それはちょうど檻のサイズぴったしで。

 2人は呆然と天井を見上げてから、那須がひきつった声で呟いた。

「タイムリミット、出来たね」

「う、嘘でしょ・・・」

 南雲が天井を見上げながら、泣きそうな声で呟く。そんな南雲を嘲笑うように、また天井が一段下がり、南雲が身体を小さく縮こませた。

 那須は咄嗟に棚へ走り、あるものを次々確認しながら叫ぶ。

「鍵が!鍵があればいいんだよね!」

「うん、ごめん・・・」

「いつまで謝ってんの!生き抜きたいならあんたも何か考えてよ!」

 那須はそう叫びながら棚を漁り続ける。が、何も見つからなかったのか、棚から顔を上げて南雲に向かって叫んだ。

「ちょっと書斎とか見てくる!すぐ戻るから!」

「・・・うん」

 鉄格子を握りながら項垂れる南雲を置いて、那須は入り口のドアに手をかける。が、押しても引いてもドアは開かなかった。那須の顔から血の気が引いていく。

「嘘でしょ・・・。何で・・・!何で!」

 那須が叫びながらドアを叩くが、ピクリとも動かなかった。カードキーも意味をなさず、しばらくドアノブをガチャガチャ動してから、息を切らした那須は室内に目を向ける。

 何も動くものがない室内を眺め、那須は泣きそうな顔で叫んだ。

「海老澤の野郎・・・。まだ私たちを苦しめやがって・・・!」

 そう叫びながらも那須はまた棚の元に走って戻り、箱をひっくり返して鍵を探す。

「全然ない・・・!どこに置いたのあいつ!」

 手錠、スタンガン、折り畳みナイフなんかが散乱する中、那須は力尽きたように座り込んだ。しばらく荒い呼吸を繰り返していたが、よろよろと立ち上がり、次の棚に取りかかる。

 と、ガコンという音と共に天井が下がり、南雲が立ち上がると頭がつく高さまで落ちてきた。まだ項垂れている南雲へ、那須は鋭く声をかける。

「何黙ってんの。どうにかしようとする気あるの!?」

「ごめん・・・」

「謝ってる暇あるなら目動かせ!そこから動けなくても出来ることはあるだろ!ああもう海老澤!いるなら出てこい!」

 那須は叫びながら棚の最後のドアを勢い良く開け放つ。だが鍵はどこにもなくて。彼女は口を真一文字に結びながら振り返り、鋭い視線で立ち並ぶ器具を見渡した。


 一方。丹部は、職場から自転車で海老澤の家に向かっていた。時刻は17時過ぎ。時間通りに仕事が終わるやいなや、彼は自転車に飛び乗ってペダルを漕いでいた。

「くっそ、何か落ち着かねえんだよなあ・・・。何か南雲と那須だけだと不安だわ」

 そう呟きながら大分暗くなってきた空の下、さらにペダルを踏み込んでスピードをあげる。

 飛ばした結果、想定よりも10分近く短縮し、彼は海老澤宅にたどり着いた。海老澤宅は最初と同じように暗く静まり返っていて、彼はそんな家を眺めながら呟く。

「あれ、電気点くはずだよな・・・。まだ畑中んちから帰ってねえのか?でも指示メール出たの15時だし、あいつらの連絡先知らねえしな」

 そう言いながら自転車を止めようとすると、那須の自転車があるのが見えた。彼はそれを横目で眺めながら自転車を止め、玄関のドアを引いた。ドアはすんなりと開き、薄暗く静かな室内が彼を出迎える。丹部は怪訝そうな顔をしながらも家の中に入り、2階に上がる。

 薄暗い家の中で、唯一、書斎から人工的な明かりが漏れ出ていた。ひょいと部屋を覗き込むと、ログイン画面のパソコンと、机の上に置かれたままのハンドバッグが見えた。

 丹部は、可愛らしいリボンのついたハンドバッグを持ち上げながら言う。

「・・・いくらなんでも海老澤のじゃねえよな。那須のやつ、だよな。昨日なかったし」

 彼はそう言いながら周囲を見渡す。開けっぱなしの引き出し、床に散乱したCDケース。誰かがいた痕跡はある。2階の別の部屋も覗くが、そこは無人だった。丹部は首を傾げてもう一度書斎に戻る。

「夕飯食いに行ったとか・・・?」

 その疑問に答える声はなく、彼はまた首を傾げた。と、PCが気になった彼は、メールを見ながらログインして画面を開く。

 畑中、と書かれたフォルダ以外全てがデフォルトの画面を見つめてから、適当にファイルを漁る。空っぽのドキュメント、ビデオ、デフォルトの画像以外何もないピクチャー。

 続いてミュージックと言うフォルダを開くと、そこに1つだけテキストファイルがあった。

「あ?んだよこれ・・・」

 そこには、いくつかの単語入っていた。丹部が戸惑いながらも読み上げる。

「RAY、トゥルー、BEST AGE・・・。んだこれ」

 と、ふと彼は床に散らばったCDに目を向ける。片方のCDにはYANKEEという名前が書かれていて、もう片方はRAYと刻まれている。そのCDを眺めてから、丹部は再びPC画面に目を戻した。

「CDのアルバムの名前か?でもたくさんCD持ってるはずなのに、なんでわざわざ3つだけ・・・」

 彼がPC画面を眺めながら考え込んでいると、急にドガンという、家が揺れるような物音が響いてきた。丹部は驚いて動きを止めてから、発生源である1階の方へ視線を向ける。

「・・・何?何かいるのか?」

 しばらく彼は硬直したままだったが、また響いてきたズドンという音で我に返り、恐る恐る階段を下りていく。階段を下りて周囲を見渡すと、左にあるドアの向こうから、またしても大きな物音と女性の声が聞こえてきた。

 丹部は少し躊躇したあと、ドアノブに手をかけゆっくりドアを引く。少しだけドアを開け中を伺うと、那須が叫びながら何やらでかい物体をなぎ倒しているところだった。

 丹部は思わずドアを開け放ち、ポカンとした声で言う。

「・・・何してんの?」

「・・・丹部!」

 那須が息を切らしながら叫んだ。丹部が中に入ろうとすると、那須の鋭い声が押し止めた。

「入るな!その場から動くな!」

「・・・は?というか何してんの」

 丹部が立ち止まりながら声をかけると、那須は無言で一角を指差した。その先には檻に閉じ込められた南雲がいて、その彼を押し潰そうとせんばかりに天井が下がってきていた。座り込んだ南雲が手を伸ばせば触れる程の位置にあるそれは、ポカンと眺める丹部を嘲笑うかのように、ガクンと一段落ちる。その音に驚いた南雲が、目を瞑り身体を震わせた。

 那須はその光景を無表情で眺めたあと、息を切らせながらも短い言葉で言い放った。

「そのドア開かなくて、ここで鍵探してた。カードキーも使えなくて」

「・・・カードキー?」

 と、那須は丹部の足元を指差した。そこには投げ捨てられていたカードキーが落ちていた。

「こんなんあったんだ」

「南雲がCDケースから見つけて、ここの鍵が開いて、あとは見ての通り。ここは一通り探した。外からならそこ開くんだ」

「ああ、みたいだな・・・。そうか。じゃあ俺、上探してくる」

「急いで!南雲が潰れる前に!」

 那須の声に押され、丹部は2階に向かって駆け出した。

 とりあえず書斎の引き出しをひっくり返すが、鍵は出てこない。先程の南雲の姿が脳裏に焼き付いて、なぜかわずかな焦りが生まれる。

「くっそ、ねえな」

 どんどん肥大化していく焦りのせいで手元が狂い、手が滑って箱が床に落ちる。拾い上げようとして、ふと落ちたままのCDケースが目に入った。

「これからカードキー出てきたのか・・・」

 丹部はそう呟いてから、開きっぱなしのPC画面に視線を向けた。開きっぱなしのテキストファイルには、RAY、トゥルー、BEST AGEという文字が並んでいる。彼はそれを見つめて舌打ちをしてから、棚に手を伸ばした。

「これに賭けるしかねえか。海老澤も南雲も、くそめんどくせえな!」


 一方。部屋に残った那須は、手当たり次第器具を引き倒しては隠し収納がないか探していた。息を切らせながらも、全身で器具にぶつかって裏面と床をチェックしていく。

「・・・ない!どこにあんのよこれ!」

「・・・那須さん、ごめん。おれが迂闊だった」

「だーかーらー!謝るくらいなら何か考えろって言ってるでしょ!」

 そう叫ぶ那須の前で天井が1段下がり、座り込んでいる南雲の頭に触れる程にまで落ちてきていた。南雲は体育座りしながら、諦めの表情で悲しそうに言う。

「無理だよ・・・。主のいない家で仕掛けが生きてるなんて・・・。止められないよ」

「あんたこんなことで死ぬつもり!?」

「生きたいよ!生きたいけど!・・・でも、おれの責任だから」

 南雲は目から涙をこぼしながら、迫りくる天井を見上げた。そんな南雲を嗤うように、また天井が1段下がり、南雲は逃げるように背中を丸める。

 そんな南雲の態度を、那須は唇を噛みながら見つめていたが、深く息を吸い込むと部屋中に響き渡る声で叫んだ。

「バカ!反省するなら家に帰ってしろ!生きたいなら、最後までもがけよ!何諦めてんだよくそが!」

「もがくって・・・」

「そこから何も見えねえのか?見えるだろ!目をこらして探せよ!・・・お前就職決まったんだろ!?こんなことで人生終わらせていいのかよ!今スタートラインだろ?」

 那須はそう叫びながら、椅子をひっくり返した。何もない椅子の裏面を見て再び叫ぶ。

「気になったものがあったら言え!私が動くから!生きたいんだろ!?」

「う、うん」

 戸惑いながらも頷いた南雲の頭上で、また天井が落ちた。もう座る姿勢すらとれず、南雲は地面に伏せながら、那須が引っ掻き回し荒れ果てた室内を眺め、恐る恐る言う。

「そ、そこのベッドみたいなやつの下側とか・・・」

「これか!」

 那須は言われた通りそれを持ち上げ、乱暴に転がした。大きく息を吐き出しながらも裏面を見て、鋭く叫ぶ。

「何もない!」

「じゃあその隣の・・・」

 言いかけた南雲の頭上で、また天井が落ちた。もうあと2回下がれば、完全に押し潰されてしまうだろう。南雲は伏せながら小さく丸まり、目を瞑って耳を手で塞いだ。迫りくる現実から逃げるように。

 那須は言われた通り、隣のよく分からない器具を蹴り倒して裏面を覗き込んでから、息を切らせて膝をついた。南雲は耳を塞ぎ小さく震えながらも、そんな那須を見て呟く。

「だ、大丈夫・・・?」

「あんたから心配される筋合いはないわ!だってこんくらいで死なねえし!」

 那須はそう力強く言い放つと、何とか立ち上がった。鋭い眼光を宿した目で周囲を見渡し、近くにあったモニュメントを蹴り倒す。

「どこにあんだよ!海老澤、見てんだろ?出てこいよ!こんな卑怯な真似してないで!」

 だが反応は何もない。一瞬静まり返った室内で、天井が動く音が大きく響く。

 完全にうつ伏せになり寝そべった状態の南雲のすぐ上まで、天井は降りてきていた。あと1回動けば、それは地面についてしまう。つまり、逃げ場のない南雲はそれに押し潰されるしかなくて。南雲は鉄格子を掴み、泣きながら呟く。

「・・・ごめん」

「だー!もう、どうすりゃいいのよこれ・・・」

 那須が檻に駆け寄り、再び鉄格子を揺する。だが鍵はびくともせず、体力が尽きたのか、那須は座り込んで静かに南雲の手に手を重ねた。鉄格子を握る南雲の手は震えていて、その震えを止めるように、那須はギュッと手を握りしめる。

 と、静かになった室内のドアが勢い良く開き、丹部が駆け込んできて、何かを那須の元へ投げた。完璧なコントロールで投げられたのは、2つの鍵だった。それはカランと言う小気味の良い音をたて、那須の足元に転がる。

 丹部はドアを押さえながら鋭く声を発した。

「早く試せ!死ぬぞ!もうそれしか鍵はない!」

 その声に急かされ、那須は1つ目を手に取り鍵穴に突っ込む。だが鍵は回らない。続いて2つ目を手に取り鍵穴に突っ込む。勢い良く回すと、カチャリという音とともに鍵が開いた。すぐにドアを開け放ち、南雲の腕を掴んで引きずり出す。

 南雲が這い出た直後、ズンという音と同時に天井が完全に落ちてきた。それを呆然と眺めながら、那須と南雲は荒い呼吸を繰り返す。

 やがて南雲は自身の身体を見渡し、どこか平坦な声で呟いた。

「・・・おれ、助かった?」

「助かったんだよバカ。でなきゃ今ごろ、絨毯になって喋れなかっただろうな」

 丹部が呆れたように言うと、南雲は実感が湧いてきたのか、目に一杯の涙を溜めながら口を開いた。

「生きてる・・・んだ、おれ」

「死んだ方がよかったか?」

「ありがとう、丹部くんも、那須さんも」

 南雲が手で涙を拭いながら言うと、口で呼吸を繰り返していた那須が、急に南雲の身体に抱きついた。驚きながらもその身体を南雲が受け止めると、那須は拳を握って南雲の背中を叩きながら叫ぶ。

「バカ、生きてたじゃんバカ。何で諦めたのあの時」

「や、えっと・・・。ごめん」

「だから謝るなって言ったでしょ!悪いのはこんなもん作った海老澤なんだから・・・。ざけんな、もう。生きるの諦めたこと一生後悔しろ。死ぬまで後悔しろ。50年くらい後悔しろ、バカ」

 そう罵倒する那須の声は震えていた。南雲は困惑しながらも那須の背中をたどたどしくさすり、荒れた室内に目を向ける。

「おれのためにこんなに・・・。ありがとう」

「まあ助けたのは俺なんだけどな」

 ドアを足で押さえたまま丹部が空気を読まずに言い放ち、南雲は泣きながらも笑みを浮かべた。

「丹部くんも本当にありがとう。来てくれなかったら、おれ今ごろ・・・」

「まあ俺はてめえが潰されようが何しようが、痛くも何ともねえけどな。目の前じゃなければ」

 冷たく言い放つ丹部に、南雲は苦笑いを浮かべた後、でも、と不思議そうに尋ねる。

「どこにあったの?鍵」

「ああ、さっき那須が、CDケースからカードキー見つけたっつってたの、それ、RAYってタイトルのCDだっただろ」

「あ、うん。そうだった」

「海老澤のパソコンにメモ書きが残ってて、それが鍵をいれたCDの名前だった。片方は近くにあったけど、もう片方は似たような名前が多すぎて探すのしんどかったわ。最初CD眺めてた俺じゃなきゃ、見つけられなかったね」

「そうなんだ・・・。あ、ありがとうほんとに。助かった」

 南雲が返すと、丹部はイラついたように那須の背中に目を向けた。

「お礼言う時間あるなら、そいつ起こせよ。目の前でいちゃつかれるのもムカつくし。ドア閉めんぞ」

「あ、えっと・・・」

 その言葉に南雲は戸惑いながらも那須の身体を見下ろした。彼女の背中はまだ微かに震えていて。だが、那須は顔を拭いながらも、南雲から離れて立ち上がった。まだ頬は涙に濡れているものの、目は気丈な普段の彼女で。

「・・・丹部、ありがとう」

「早く出るぞ。んだよこの部屋、趣味悪いな」

 那須に引っ掻き回されたものの、倒れた十字架や電気椅子を見て察したのか、丹部は顔をしかめながら2人を促す。

 那須は、その声に応じてスタスタと歩き始めた。南雲も追いかけようと立ち上がった瞬間、バランスを崩し再びストンと座り込んでしまった。不思議そうな顔をする那須と丹部に向け、誤魔化すような笑みを浮かべる。

「あれ、た、立てない・・・。な、なんか、助かったんだって安心したら、力入らなくて、ごめん」

「・・・んだよそれ」

 呆れ返った丹部の前で、南雲の目からまた涙が溢れてきた。南雲は笑みを残したままそれを拭おうとするが、次から次へと涙がこぼれ落ち、床に水玉模様を描く。

「なんか、止まんない。あれ、今さら、どうしよう、ごめん、ちょっと待って・・・」

 無理やり笑みを浮かべながらも泣く南雲の元に、那須が近寄り手を差し出した。

「とりあえず出よう」

「え、あ、でも・・・」

「早くしてよ。あんた1人でここ取り残されたいの?」

「・・・ありがとう」

 那須の言葉に、南雲は素直に手を伸ばす。しっかり手を繋ぎ、那須の力を借りて立ち上がると、那須はさっさと手を離し、地面に落ちた鍵を拾い上げてからドアの方へ歩いていった。慌ててその背中を南雲が追いかける。

 3人で部屋を出てから、那須は疲れたように壁に寄りかかってため息をついた。

「何なのよあいつ。信じられない、性格悪すぎ。いくら敵対してたとはいえ、あんな仕掛け作る意味ある?」

「いや・・・。倉庫行く前だと思う。あんな大がかりな仕掛け、ボロボロの身体じゃ出来ないよ。第一この鍵も、おれらが勝手に見つけたやつだし」

 南雲が言うと、那須は疲れたように目を閉じた。南雲も顔をこすりながら階段に腰かけて俯き、丹部は気だるげに壁に寄りかかってスマホをいじる。

 数分ほど、誰も喋らない時間が流れた。と、那須はおもむろに身体を起こし、手の中の鍵を握りしめながら、廊下の向こう側にあるもうひとつの部屋に視線を向けた。

「こうなったら、徹底的に暴いてやろうじゃないの」

「ま、まだ行く気?危ないんじゃ・・・」

 顔をあげた南雲の制止を無視して、那須は個室のドアの鍵を開ける。

「もう何があっても驚かないわ!」

 そう叫びながら那須は勢い良くドアを開け放った。

 その威勢の良さとは正反対に、中はごくごく普通のベッドルームだった。シックなカバーのベッドが1つとサイドテーブル、そして押し入れ。そんな家具を眺めながら、那須がどこかがっかりした様子で室内に入る。

「なんだ、普通の寝室じゃない。身構えて損した」

「・・・そういえば海老澤さんの寝る場所、まだ見つけてなかったね。ここだったんだ」

 南雲が覗き込むと、気だるそうに壁に寄りかかっていた丹部が、部屋の中に入った。

「どうせあいつ、この部屋に女連れ込んで色々楽しんでたんだろ」

「ちょ、ちょっと、丹部くん、女性いるのにそういうこと言うのは・・・」

「本当のことだろうがよ。ったく、ちょっと面良くてちょっと金持ってるからって、遊びまくってたバチが当たって病気になったんだよ」

「違うって。伝染病ならともかく、それとがんは因果関係ないよ、もう。それ外で言っちゃだめだからね?」

 そんな丹部と南雲の会話を無視して淡々と部屋探ししていた那須が、とある手帳を数冊見つけて戻ってきた。中身をパラパラとめくりながら、応酬を繰り返す南雲たちに声をかける。

「・・・これ、海老澤の日記みたい」

「日記?」

 興味を示した丹部と南雲へ、那須はページを開いて見せる。その手帳にはほとんど毎日、それぞれ短い文章で海老澤の日常が淡々と綴られていた。

『2015/5/8 本日も残業しまくりでタクシー帰宅。テレビ取材が来て、OAされたのを会社で見た。ちょっと良いように書きすぎ、なんて社員。でも新進気鋭のIT系なら、泥臭さなんて見せたら負けだと思う』

『2015/6/19 久々に夕食時の帰宅。妻は寝転んでテレビを見ていた。折り込み済みなので、持ち帰ってきた寿司をつまみにビール。これじゃ一人暮らしのときと変わらない』

『2015/7/6 タクシー帰宅。妻は寝てる。さっさとシャワー浴びて寝る。ホテルのカードは捨ててきた。こんな顔を合わせない毎日ならバレる心配はないが一応』

 所々を拾い読みしながら那須が補足する。

「離婚が2016年の頭だから、当時はまだ仕事も結婚もしてた時代ね。ホテルってことは浮気もしてたんだろうね、最低・・・」

 那須は吐き捨てるように呟いてから、後半部分を開いた。

『2015/9/25 離婚したと言う親子を保護した。役所で見かけて思わず声をかけてしまった。娘さんが可愛い。干渉せずに場所だけを貸す約束。別宅には月1しか帰ってないし、良いだろう』

「谷場さんの元奥さんだね」

 南雲の呟きに2人とも頷いてから、さらに読み進める。

『2015/10/22 収支の帳尻が合わない。社員も明らかにモチベが下がってきた。打開策を探したいが、家事とかで自分の時間すら取れない。それなのに、なんであいつはずっと寝てるんだ!お前のために金稼いでるわけじゃねえぞ!』

『2015/11/17 とうとう営業のリーダーが辞意を伝えてきた。もう俺も腹をくくる時期だろう。妻に話したが、舌打ちをされた。なんだあいつ。明日はホテル。唯一の息抜き』

『2015/12/11 親子が家を出ていくそうだ。実家と話がついたようで。鈴木と言う名前だけしか知らない関係だった。さすがに娘さんの前で手は出せなかった。それより、俺の問題を片付けなければ』

 それを読んだ南雲が、顔をしかめる。

「ここでもう崩れ始めてるんだね。時期も元奥さんの言ってた通りだ」

「字も乱れてるし、走り書きしてるよね」

 那須もそうため息をついて、2016と書かれた手帳を開く。その手帳は、1月からもうすでに文字が乱れていた。

『2016/1/13 年明けからなんだ!週刊誌に情報を売られていた、何がスクープだ!あいつは姿を消し、預金は数千円。最悪の厄年だ!』

『2016/1/18 最悪。連日カメラを構えた連中が家の前にいる。ほっとけよ!つかれてんだよ!そんなにおれのふこうがたのしいか!』

『2016/1/27 残っていた社員に、会社の買収と俺の辞職を伝えた。うまく喋れていただろうか。最近、某芸能人の不倫で俺の元は平和。世間はその芸能人に怒っているようだが、俺は感謝してる。ありがとう』

 それを読んだ丹部が、ふーんと興味無さそうに呟いた。

「大変なんだな、有名人ってのは」

「海老澤さんはテレビとかの取材もバンバン受けてたからね。イケメンで若くて、頭良くて、的確にコメント出来る人間って貴重なのよ」

 那須が答えると、丹部は苦いピーマンをかじったときのような顔になった。

「イケメンか?絶対美化してるだろお前」

 吐き捨てるような丹部の言葉を聞いて、南雲がため息をついた。那須も面倒くさそうに、南雲と丹部へ視線を向ける。

「言い直すわ。丹部と南雲よりかはイケメン」

「はあ?南雲とか海老澤より俺の方がましだろ」

「金髪で誤魔化してるだけでしょ。第一丹部、背低いし。170ある?」

「あるに決まってんだろ。金髪が誤魔化しなら、南雲はどうなんだよ。ただの不細工か?」

 丹部の言葉に、那須は一瞬南雲の姿を見渡してから、また丹部へ視線を戻した。

「・・・好きな人は好きよ、田舎の素朴な青年」

「知ってっか、それ不細工の言い換えって言うんだぞ」

「別に不細工とは言ってないし」

「認めたも同然だからな、その言葉」

 そんな2人のやり取りに、とばっちりを受けた当の南雲は複雑そうな顔をした。

「顔はもう仕方ないから、それでおれを責めないでよ。自分で決めたわけじゃないし。・・・おれ、そんなひどい顔してる?」

 その気弱な言葉に、那須はため息で返してから手帳の真ん中辺りを開いた。手帳の続きにはこう書いてあった。

『2016/7/23 体調が悪い。熱があるわけじゃないが、寝ても寝てもだるさが取れない。仕事もろくに出られない。息切れがすごい。内蔵が悲鳴をあげている。歳か?』

『2016/7/27 精密検査?嘘だろ?もう何も考えたくない。寝る』

『2016/8/16 結果。ステージ4。転移していて治療も厳しい。1年から2年生きられれば良い方だと。なんだよこれ・・・。こんな状態で死ぬのか?』

『2016/8/17 家にいると色んなことを考える。いじめられた小学生時代、天才と言われた高校生大学生時代。バリバリ働いた20代前半、会社の皆と食べた寿司、飲み会。刺激的な夜の街。一夜をともにした女、出来ちゃったと言われて結婚を決めた日。父になる覚悟はしたが、実は嘘だったと笑いながら言われた悔しさ。あの女が家に来てから転落していった気がする。テレビの取材を受けカメラの前で笑顔で喋る俺と、家でテレビを見る妻の隣で皿を洗う俺は同一人物なのか?

 週刊誌へのリーク、離婚、買収、辞職。すべてが目まぐるしくて、この辺りは全然覚えてない。気がついたら1人で、こっそり買った一軒家に引っ越してて、マスクをしてひっそり暮らしてる。俺という人間は、一体何だったんだろう。

 俺、悪いことしましたか。全うな事業で稼いでたのに、こんな罰を受けるほど多くの人を苦しめたんでしょうか。手元には何も残ってない。こんなに一気に全部無くなるほど、俺の一生は軽くて、一息で吹き飛ぶようなものだったんですか。・・・人生で全てを経験したと思う。金も地位も名声も女も、全てを手に入れた天井と、それらに加えてさらに俺の命まで持っていかれそうな地底。スカイダイビングのような急降下』

 思いを吐露するように書かれた長文に、那須は言葉を失って立ちすくんだ。南雲も文章を読んでポツリと呟く。

「やっぱり、離婚してから見つかったんだ」

「・・・うん。この日からしばらく日記途切れているわね」

 那須の言う通り、書き殴られた長文を最後に、日記はしばらく白紙が続いている。ペラペラとページをめくっていくと、12月の5日に短い文章が書かれていた。

『2016/12/5 何も考えられない日々が続いた。でも再開したい。良くなる兆しはないが、リハビリだ』

 この日から、日記はまたポツポツと書かれ始めていた。大概が一言で、その日食べたもの、見たものが雑な字で殴り書きされて終わっている。

 続いて那須は、2017年と書かれた日記を開いた。最初は2016の終わりと同じ一言コメントだったが、とある日にびっしりと言葉が並んでいた。

『2017/4/9 今日、散っていく桜を見ながら色々考えた。治療を続けて管だらけの中一人で人生を終えるのか、それとも自然なままの身体で道端で倒れて死ぬのか。本に書かれていた方法も、祈祷も、もちろん病院の治療を受けても楽にならない。とても苦しい。逃げ出したい。1人でずっとこれと向き合わなきゃいけないのか』

 この日を境に、彼の書き方が変わっていった。字が丁寧になり、彼特有の無骨な文字がずらっと並ぶ。

『2017/4/11 病院内を覗いてみたら、俺と同じくらいの若い入院患者がいた。お見舞いだろうか、そばには綺麗な女性と可愛らしい女の子がいた。男も嬉しそうだった。対して、俺は1人。寂しさを感じた。鈴木さんの娘さん、元気かな』

『2017/4/14 暇にかまけて鈴木さんの現在を調べてみたら、面白い情報が入った。彼女と離婚した元夫も、財産吸われて会社も退職寸前。理由は知らないが俺とそっくり。面白い。話してみたい』

『2017/4/24 病院に通うこともなくなったので、リハビリがてら公園に散歩。なんか小汚ない若い男がうろうろしてる。こうしてみると、俺と似たような境遇のやつが近所に結構いる。いつか集めて本音を聞いてみたい』

 那須はそこで手を止めて、南雲の顔を見た。

「これ、もしかして南雲?」

「公園がどこか分からないけど・・・。この近くの公園ならおれ、かも」

「・・・公園で何してたの?」

「うーん・・・。散歩してたんじゃないかな?天気良かったっぽいし。もしくはバイト行く途中に公園寄ったか、かなあ。でも、バイトは割ときれいな服で行ってたんだけどな」

「・・・あんた本当に能天気ね」

 那須は呆れたようにため息をついてから、適当にページを飛ばした。

『2017/6/21 出演者が決まった。舞台も揃った。あとは台本。俺、びっくりするくらい生き生きしてる』

『2017/6/30 出来た。なけなしのお金をはたいて物資も揃えた』

『2017/7/15 用意が全て終わった。ここ数ヶ月、本当に楽しかった。ワクワクした。今まで目的もなく生ける屍だった俺に、生きる意味をくれた。それだけで十分だ』

 そこで日記が途切れていた。那須が不思議そうな顔でページをめくると、次のページ一杯に海老澤の言葉が書き残されていた。

『2017/7月 これが最後の日記になると思う。最初に谷場に興味を持ってから数ヶ月、調べ続けた挙げ句、数人の情報を手に入れることが出来た。俺と同じく、若くして人生に挫折した人々。普通の人生を送れなかった人々。

 最初は純粋な好奇心だった。こいつら、どんな生活をしているんだろうか。俺と同じく、屍となって陽の当たらない世界でひっそり暮らしているんだろうか、人生に希望も見つからず、暗い顔で過ごしているのだろうか。と。でも違った。もちろん俺と同じく、ただ生きるために生きているようなやつもいれば、希望を見失ず前向きに生きる人も、このままでいいのか悩んでいる人もいた。全員バラバラ、面白い。

 プラスもマイナスもごった返した人間を放り込んだら、いったいどんな式が出来上がるんだろうか。プラス×マイナスはマイナス?それとも引き算してプラス?マイナス?この疑問が完全に解消されるかは分からない。でも、これが終われば俺は死ねると思う。短い人生だった。満足はしてないけど。

 ・・・少しだけ弱音を吐いたら、寝ようと思う。まだやりたいこといっぱいあった。やり残したことも山ほどある。叶えたいと追いかけていた夢も、道半ばだった。

 心の底から付き合える友人が欲しかった。カタカナ英語が飛び交うオフィスで愛想笑いを浮かべながらの社交じゃなく、暑い夏の道端で、もし芸能人と結婚できるなら、なんて馬鹿馬鹿しい話で盛り上がれる友達が欲しかった。

 行ってみたい場所もたくさんあった。水の都、天空都市、城めぐり。もちろん食べたいものだって。上質な和牛、のどぐろ、イセエビ、海外なら満漢全席も、本場のマッサマンカレーも、窯焼きピザも食べてみたかった。あの去年ハマった映画の続編は来年公開、漫画の最終巻は来月発売。見たかった。まだいっぱいある。やりたいことがいっぱいある。

 平和な人生が送りたかった。平凡な大学を出て、平凡な会社に入って、まあまあな中間管理職に昇進して、奥さんがいて、子どもがいて、ペットがいて。年1回の国内旅行。時期が近づくと皆でわくわくして、今年は北海道に行きたい。いや、大阪がいい。福岡もいいな。沖縄でしょ。なんて日曜の夕食の食卓で、ワイワイ話し合って。普段の休日は、公園で泥んこになって遊んで、中学生になったら部活の大会の応援に行って、頑張ったなって焼肉屋に連れて行って。たまには一緒に映画を見たり、テレビを見たり。感動して泣いたり、面白くて笑ったり。子どもは、小さい頃は言うこと聞かなくて、大きくなったら隠し事が増えて、それで感情的にぶつかったりすることもあるんだろうな。でも次の日にはごめんなさいって謝って、また夕食の時には同じ席を囲んで笑い合う。

 俺、何で出来なかったんだろう。何でこんな生活になっちゃったんだろう。悪いことしたのかもしれない。ごめんなさい。生きたかっただけなんです。がんが見つかってから今まで、何回も死のうとして、でも最後の一歩の勇気が出なくて。何だ、未練たらたらじゃん、って、気づいて。それから一生懸命生きてきた。一生懸命、悔いのないように生きてきたはずなのに、全然時間もお金も足りなくて、早すぎた。30歳、あっと言う間の30年だった。たった30年。つかみ取ったものは何もかも零れ落ちて、命すら残らなかった30年。

 輪廻転生とか信じてないけど、それでも、もし次生まれ変わるとしたら、猫になって、にぎやかな家族に引き取られて、穏やかに子供の成長を見守って、その子が独り立ちするころに日向でポカポカ陽気の中、静かに死にたい。ボロボロの身体じゃなくて、きれいな毛並みで、苦しまずに、眠るように死にたい。家族にも伝えたい。自分は幸せな生活だったよって、伝えてから死にたい。

 ・・・なれるといいな。しぬのはこわいけど、そんなせいかつがまってるんだとしたら』

 最後の方は、紙が濡れて字が滲んで、言葉が途切れていた。那須は静かに日記帳を閉じながら、呟いた。

「そんな生活が待ってるんだとしたら、死ぬのも悪くない、かな」

 その言葉に、南雲は目を伏せながら静かに応じた。

「・・・やっぱり、怖かったんだね、海老澤さんも」

「なーにが怖いだよ。だからって言って他人を巻き込んでいいわけねえだろ。怖い怖い言って、結局死なずに今もここ見てニヤついてんじゃねえの」

 丹部は吐き捨てるように言うと、勢いよく壁を蹴り飛ばした。そんな彼の声は震えていて、顔はじっと地面に向けられたままだった。南雲もつま先を見つめたまま、僅かに震える声で呟く。

「難しいね、人間って。いっそ悪人のままで終わってくれればおれらも、海老澤さんが悪かったね、で終わりだったのに」

「・・・そうね。もし最後が、全ての希望を奪ってやる、なんて悪人台詞で終わっていたら、きっと強く憎めたと思う。こんな人間臭いところ見たくなかった。完全悪の魔王のままで終わってほしかった」

 那須が呟きながら日記を机に置くと、それぞれのスマホがメールを受信した。全員無言のままメールを開く。

『もう終わったかな。ありがとう。俺は今、1人残った倉庫内でこれを打ち込んで、日時を設定し自動で届くようにしている。南雲、お前の細腕じゃ俺を殺せなかった。安心しろ。丹部、谷場は自殺だ。お前は悪くない。

 最後の指令だ。匿名でこの倉庫のことを伝えてほしい。このまま遺体が放置されるのは耐えられない。とはいえ、これがお前らの元に届くころには相当むごいことになっているとは思うが。分かっているとは思うが、戻って来るなよ。通報のタイミングは任せる。引っ越しか何かのタイミングで、公衆電話から異臭がすると告げてくれればいい。もしすでに発見されていたらこの指令は無視してくれ。

 じゃあ最後に。2階にある俺の書斎の、BEST AGEというアルバムから鍵を取り出し、それを持って階段を下り、そこから右に曲がった小部屋に鍵を使って入ってくれ。そこの押し入れの下段、左から二番目の棚。そこに現金が入っている。それを持って、後は全て忘れて生きていけ。このメールが届くころには、もう俺はこの世にいない。・・・鍵のかかったもう一つの部屋は、俺の趣味部屋だ。危ないから入るなよ。そしてお前らがさんざん荒らしたであろうその家だが、別の知り合いに頼んで、3日後には解体することになっている。忘れ物するなよ。

 それじゃあ陳腐な挨拶だが、また、来世で。生まれ変わってこっそりお前らの姿見に行くから。・・・貴方の人生に幸運が訪れますように。 海老澤樹』

 全員がメールを読み終えてから、那須が書かれた通りの棚を開ける。積まれた紙の束をどけると、そこには現金300万が入っていた。那須はそれを持って立ち上がり、それぞれに100万ずつ押し付ける。

 その現金の束を手で持ったまま、南雲が落ち込んだ顔で呟いた。

「・・・おれらを、危険な目にあわすつもりはなかったんだね。海老澤さん遅かった、入っちゃったよ」

「・・・鍵見つけちゃった南雲の責任よ。しかしまああれが趣味とか、本当に最後まで嫌なやつ」

 那須が刺々しい言葉ながらも、どこか優しい口調で呟いた。と、南雲がどこか怯えるような視線を那須へ向ける。

「あ、そういえば那須さん、あの部屋とか日記とか、復讐として表に出さない、よね・・・?」

「・・・出さないわよ。もう死んでるらしいし、こんな世間から見捨てられて没落した元社長の性癖なんて、どんだけ下衆な三流ゴシップ誌でも飛びつかないわ。・・・それに」

 そこで那須が言葉を途切れさせた。南雲が、それに?と言葉を促すと、那須は顔を背けながらも語気を強めて叫ぶ。

「ああ、もう!何でこんな中途半端なの!思いっきり憎ませてよ!入ってたのは玩具の100万円で、最後までクソ野郎だったなって思わせてよ!何でこんな中途半端な優しさと人間臭さ見せるの!」

 気持ちの整理のつかない那須は、その勢いのまま握りこぶしで壁を強く叩く。だが、言葉こそ乱暴なものの、彼女の身体と声は大きく震えていて。そんな那須へ、南雲が静かに声をかける。

「仕方ないよ。海老澤さんも結局は、おれらと同じ人間だったんだよ。同じように傷つくし、同じように迷うし、きっと同じように笑って、同じように泣くと思う」

「・・・血も涙もない、壊れたメシアのままで終わってくれれば良かったのに」

 那須はそう毒づいて、ようやく壁を殴るのを止めた。と、手の中の100万をぼーっと眺めていた丹部が、ぽつりと呟く。

「つかあいつ、本当に金用意してたのかよ・・・。また小石とメモ書きだと思ってた」

「隠し資産だったのかな。・・・でももうこの家も壊されちゃうし、海老澤さん、おれらのこと徹底的に庇ってくれようとしてるね。巻き込まれないようにって」

 南雲が答えると、その隣で那須が小さく頷いた。

「ったく、本当に中途半端なのよ・・・。その好意に甘えて、早く家出よう。警察から、殺人に関わったなんてマークされるのはごめんだし」

 那須はそう吐き捨てると、荷物を取って戻ってきた。待っていた南雲と丹部とともに、3人で家の外に出る。外はすでにすっかり暗くなっていて、濃紺の空と少し欠けた月が那須たちを出迎えた。南雲はしっかり玄関のドアに鍵をかけてから、傘立ての下に鍵をそっと置く。

 と、家の塀の上でくつろいでいた毛並みの良い黒猫が、青い首輪についた鈴を鳴らしながら降りてきて、那須たちの前に立ち止まってにゃあ、と鳴いた。那須が何か言う前に、猫は鈴の音を軽快に鳴らしながら走り去っていく。

 その猫の背中を目で追いかけてから、那須は南雲たちの方へ振り返った。

「・・・帰ろうか。私もう引っ越すから、通報は私がする。・・・お元気で」

「うん。那須さんも新天地で頑張ってね。丹部くんも・・・。元気でね」

「ああ。・・・じゃあな」

 丹部はそう不器用な言葉で別れを告げると、自転車に乗って行ってしまった。那須もカゴに入っているヘルメットをドア横に置き、軽く南雲に手を振って去っていく。

 南雲は適当に見つけた巾着袋に現金を入れ、すっかり暗くなった道を歩き始めた。

「・・・分からないなあ、人間って」

 南雲の独り言に、遠くで猫が一匹、答えるようににゃあ、と鳴いた。


 数日後、引っ越しを終えた那須は段ボールを潰しながら、室内を見渡した。

「おし、ベッドはあるし最低限の家電は揃えたし・・・。へへ、予算足りなかった調理器具も買い替えちゃった。このくらいいいよね」

 そう独り言を呟いてから、つないだばかりのテレビを点ける。と、ちょうど夕方のニュースがやっていて、男性アナウンサーが原稿を読み上げる声とともに、見覚えのある倉庫と動き回る警察の姿が映し出された。

『先日、倉庫から男性3人の遺体が見つかった件で続報です。男性はそれぞれ都内在住の谷場周也さん、畑中琉人さん、海老澤樹さんだと判明しました。

 谷場さんと畑中さんは倉庫内で血を流しながらうつ伏せで倒れていて、付近には凶器と思われるナイフが落ちていました。海老澤さんは少し離れた小部屋で、手錠で拘束された状態で倒れていました。3人ともほぼ同じ時期に死亡したとみられ、死後1~3か月は経過しているものと思われます。

 海老澤さんのそばには遺書が置かれていて、それぞれ現場の状況などから警察は、海老澤さんがナイフで谷場さんと畑中さんを刺して殺害した後、手錠を使い自分自身を動けない状態にして自殺したと断定しました。

 容疑者死亡のまま書類送検する見通しです』

 そのニュースを見た那須は顔を伏せ、震える声で呟いた。

「死ぬ勇気がないなんて、嘘じゃん」

 一方のテレビでは、一転して明るいニュースを流し始めた。那須は黙ってテレビを消す。静まり返った室内で那須はしばらく宙を見上げてから、悲しそうに笑った。

「忘れられないって、簡単には。人間だもん。・・・さて、片付けなきゃ」

 無理やりな笑顔を浮かべた那須は、まだ空っぽの棚に小物をセットしていく。と、入れ物の中から小さい置物が出てきた。あのお祭りに行った日、外れくじを引いた南雲からもらった小さなプラスチック製の招き猫だ。

 那須はその置物をぼーっと眺めた後、棚の隅にそっと置いた。

「・・・幸せが訪れますように」


 ほぼ同じ時間、別の場所で。スーツ姿の南雲は、疲れたように椅子に座り込んでいた。

「初日は緊張したなあ。でも皆優しそうだったし、頑張ろっと」

 と、南雲のスマホが震え、メッセージの着信を知らせてきた。

『聡くん、新しい職場はどうだった?』

『いい人たちばかりでした!これから頑張れそうです!』

『良かった、じゃあ来週の土曜日、待ってるからね。いっぱいお話聞かせてね』

 親戚から送られてきたメッセージを笑顔で眺めながら、彼はおもむろにテレビをつける。と、ちょうど倉庫のあの事件をやっていた。海老澤が犯人、で片付けられたニュースを見て、南雲は一気に真顔になり、口を真一文字に結んでテレビを消す。

「・・・本当に悪い人だったら区切りつけられたのに、なあ」

 そう言いながら壁に目を向ける。そこには、お祭りで買った仮面が壁にかかっていた。その仮面を眺め、南雲は寂しそうに言う。

「・・・こんな出会いじゃなければ、友達になれたかもしれないのに。那須さんとも、海老澤さんとも、もしかしたら丹部くんとも」

 そう呟いてから、南雲はぎゅっと拳を握りしめた。でも彼の手に蘇ってきたのは、あの那須が手を握ってくれた時の暖かさで。南雲は少しだけ思い出に浸るように目を閉じる。

 しばらくそのままの姿勢で固まってから、彼は息を吐きだして立ち上がり、スーツを脱ぎ始めた。

「・・・明日も頑張ろう。生きてるだけで幸せなんだから。やりたいことをやれるんだから。なければ見つければいいし」

 そう言いながらスーツを脱いだ風で、棚の上に置かれた四葉のクローバーとメモ用紙がふわりと揺れた。南雲の言葉に優しい頷きを返すかのように。


 その頃。丹部はそわそわと落ち着きなさそうに周囲を見渡していた。ぼろいアパート、年季の入った壁と床、お世辞にも綺麗とは言えないカーペット。と、誰かがおもむろにテレビをつけ、画面からあの倉庫の事件のニュースが流れてきた。

 丹部の隣に座った男性が、顔をしかめながら丹部に話しかける。

「怖いよなあ。殺して自分は自殺とか。なあ昌大、こいつ何したかったんだろうな」

「・・・1人で死ぬのが怖かったんじゃ、ね・・・ないんですか」

 ぎこちない言葉で返事する丹部に、男性は苦笑いを浮かべる。

「普段通りで良いって。もう。でも1人で死ぬのが怖かったかー。確かにその通りかもな」

 と、女性が料理を運んできた。それは美味しそうなチャーハンで。丹部は一瞬動きを止めた後、運んできた女性の顔を見上げた。その女性は不思議そうな顔で丹部の顔を見返す。

「どうした?チャーハン嫌いだった?」

「・・・いや、大好き。大好物」

 丹部が小さい声で答えると、女性は笑顔になった。

「そう。じゃあ冷めないうちに食べようか」

「そうだな。昌大、母さんのチャーハンは絶品だぞー。2日に1回は食べたくなるからな」

「褒めすぎよー、もう」

 男性と女性はそう朗らかに話すと、テレビの画面を切ってから手を合わせた。

「じゃあいただきます!」

「・・・いただきます」

 丹部も小さく挨拶してから、チャーハンを口に入れる。その瞬間、丹部の目が驚きでわずかに見開かれた。その顔を見た男性が、嬉しそうに言う。

「な、うまいだろ?」

「・・・うん」

 丹部は答えるのもそこそこに、勢いよくチャーハンをがっつく。そんな丹部を、男性と女性は笑顔で見守り、明るく朗らかな夕食の時間が流れていく。

 やがてご飯も食べ終わり、3人でポツポツと話をしてから、丹部は立ち上がった。

「・・・じゃあもう、俺帰、ります」

「うん。美味しいって言ってくれてよかった。またいつでも来てね」

 女性の優しい声に、丹部は少しだけ黙り込んでから、たどたどしく頷いた。

「・・・また、来ます」

 そして彼は玄関で靴を履き、部屋を出る直前、見送りに来た男性と女性に向かって小声で呟く。

「あの作ってくれたチャーハン、思い出のチャーハンの味にそっくりで。・・・俺に初めて寄り添ってくれた人が俺のために作ってくれたのが、チャーハンで。・・・美味しかった、ごちそうさま」

 2人が何か言う前に、丹部は走るようにして暗くなった街中に消えていった。その背中を見送った後、丹部の父親と母親は顔を見合わせて笑みを浮かべた。

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