第3話
1時間後、つまり午前11時。再び6人は倉庫の一角に集まった。ただ今までと違うのは、海老澤、南雲、畑中の3人と谷場、那須、丹部の3人が向かい合い、それぞれ睨み合っているというところだ。
海老澤が口を開く前に、丹部が威嚇するような低い声を出した。
「てめえら、変なこと口走ったらただじゃ済まねえからな」
「役割上は奴隷だが、別に反乱を起こしてはいけないとは言われてない」
谷場が丹部の言葉にかぶせて言うと、海老澤は少しだけ笑みを浮かべた。
「まあな。ただ、こちらの指令は強制力がある」
「出来るのか?そんな人形2人もつれて」
人形呼ばわりされた畑中が少しだけ怒ったように顔を赤くしたが、無言の海老澤に制止された。一方南雲は、人形呼ばわりされてもなお、不安そうな表情で他の5人の顔を見渡している。
と、那須が腕を組みながら海老澤を睨みつけた。
「で?11時だけど」
「臨戦態勢だな。そんな睨むなって」
海老澤は笑みを消さずにそう言ってから、畑中の肩をポンと叩いた。彼は向けられた視線に少し怯みながら、おずおずと言葉を発する。
「えっと・・・。畑中から谷場、那須、丹部に指令です。腕輪をもう片方装着してください。期限は今日まで」
その指令に、谷場は少々不満げな目線を向けつつも素直に従う。両手に腕輪をつけた那須が、少々疲れたように腕をさすった。
続いて海老澤に促された南雲が言葉を発しようとした瞬間、声量でかき消すように那須が言う。
「へえ、南雲ってずっとそうだよね」
何か言おうとしていた南雲が、ポカンとした表情で那須を見る。那須は意地の悪い笑みを浮かべながら腕を組み、ポカンと突っ立っている南雲の全身を見渡してから、ゆっくり口角を上げた。
「何をやるにも他人任せ。自分の頭使って行動したこと、ある?」
「那須、お前いきなり何を・・・」
海老澤の言葉を、那須は睨みつけて打ち消した。そして無言で視線を下に向けた南雲へ、さらに追い打ちをかける。
「いっつも強い人の影に隠れて、他人の間でおたおたして、結局今も海老澤あたりの指示に従ってるだけでしょ?今回も、そしてこれからも」
南雲がギュッと拳を握った。そんな南雲へ、海老澤が慌てたように声をかける。
「おい南雲。聞くな、指令出せ」
「ばっかみたい。どうせ掃除のルール決めたときも指令とかで、しかも重要な部分は谷場さんとかに丸投げ。団子作るときも海老澤さん。私と畑中がもめていたときも見てるだけ。・・・ここ来てから君、何やった?」
「那須!言い過ぎだぞ!」
「言い過ぎ?どこが?・・・素直な感想言っただけなんだけどなあ」
那須が余裕そうな笑みで受け流す。南雲はぐっとうつむいていたが、やがてぎりぎり聞こえる程度の声量で口を開いた。
「な、南雲から、谷場、丹部、那須へ、指令です。首輪を、装着してください。期限は今日・・・」
南雲は絞り出すように言った後、小走りで柱の向こう側に姿を消した。畑中が不安そうに様子をうかがう。
谷場は首輪をつけながらも、海老澤に向かって苦笑いを浮かべた。
「ずいぶんメンタル弱い王様だな。大丈夫か?監督者さん」
「・・・海老澤から、谷場、那須、丹部への指令。他人とのコミュニケーション禁止。喋ったり、筆談とかスマホを使ってのチャットも禁止だ。今回は以上」
海老澤は感情を一切入れず淡々と言い放ち、どこかへ歩いて行った。畑中も南雲を追いかけていく。
谷場、那須、丹部は一瞬視線を交差させてから、それぞれ別の場所へ消えていった。
倉庫の隅で。南雲はすとんと体育座りをして、壁に寄りかかった。彼が膝の間に頭をうずめていると、頭上から心配そうな声が降ってきた。
「な、南雲くん、大丈夫・・・?」
南雲が顔を上げると、畑中が心配そうな顔で立っていた。それでも南雲は何も答えずに、再び膝の間に頭を戻す。と、畑中が南雲の隣に、同じように体育座りで腰かけた。2人の間を沈黙が通り抜ける。
少し経ってから、ようやく南雲が顔をあげた。顎を膝に乗せながら、ポツポツと畑中へ語りかける。
「・・・畑中くん」
「うん」
「今朝の、おれの話の続きなんだけど」
「・・・うん」
南雲は少し黙り込み、視線を床に固定しながらも、はっきりとした声で語り始めた。
「会社と合わないって言ったけど、実は解雇されたんだ」
「かいこ・・・」
言い慣れなさそうに、畑中は単語をたどたどしく口に出す。南雲は、うん、と答えてから、さらに小さく縮こまるように背中を丸めた。
「この、性格のせいでさ」
「性格?」
「主体性がないというか、流されやすいというか・・・。おれ、営業だったんだよ。相手と交渉して、契約を結ぶ仕事」
「ああ・・・」
畑中も南雲につられて小さく縮こまりながら、相槌を打った。
「最後、言われたんだ。南雲、適性って言葉がある。それは、好きというだけでは動かせない言葉だ、って」
畑中がちらっと南雲へ視線を向けた。南雲は変わらず床に視線を向けながら、どこか淡々と、感情を隠すように続ける。
「・・・その言葉で、割り切れる人もいるかもしれないし、一念発起できる人もいるかもしれない。でも、おれは、どっちも無理だったんだ・・・。変われないままずっと生きてきて」
「・・・うん」
畑中はかける言葉も見つからず、彼も南雲のように床に視線を落としながら話を聞き続ける。南雲はわずかに声を震わせながらも、気丈に言葉を続けた。
「変わりたいなあって思って。こんなおれでも変われるかなあって期待して、ここ来たんだ、けどさ」
南雲の声の震えが大きくなり、言葉に詰まって一旦口を閉ざした。畑中が無言で待っていると、彼は何かをこらえるように膝の間に頭をうずめ、小さくか細い声で吐き出した。
「おれ、結局変われてないんだなあって。ダメなんだなあって。さっきの言葉で、気づいちゃって」
「・・・そっか」
畑中が俯いたまま応じると、南雲は丸まったまま、かすかに体を震わせた。2人とも何か言うわけでもなく、行動を起こすわけでもなく、壁際で丸まったまま時間が流れていく。
と、ふと南雲が顔を上げた。1回顔を両手でこすってから目線を上げて、畑中に話しかける。
「・・・畑中くんの話、聞かせてよ」
「・・・つ、つまらないよ」
「別にいいよ」
畑中は少し戸惑ったように目線を泳がせたが、南雲の少し寂しげな表情を見て、膝を抱え込んだままポツリポツリと話し始めた。
「お、おれ、引きこもり・・・、なんだ。小学校のころいじめられて、そ、それ以来」
「そうなんだ」
「うん、ず、ずっと部屋に引きこもって、パソコンとかでゲームしてる毎日で、昼夜逆転してて・・・。親から何言われても、危機感とかなくて、な、何も動かなかったんだ」
だからー、と畑中は言葉を探してから、少しだけ声を小さくして続けた。
「それに、愛想つかされて、あ、ある日、30万おいて出て行っちゃって。でも、おれ、1人じゃ生きていけなくて・・・。な、南雲くんって、すごいよね。1人で生きてるもん」
「・・・生きてるってだけで褒められるとは思わなかったな」
南雲が苦笑いを浮かべると、畑中は戸惑ったようにああ、いや、と意味のない単語を繰り返してから口を閉じた。
しばらく2人は黙り込んでいたが、やがて南雲が天井を見上げ、ぽつりと呟いた。
「・・・畑中くんは、これから変われると思う?」
「お、おれはそもそも、こうやって直接話すのが、だめで。・・・チャットなら、いっぱいしてたんだけど。だ、だから、ちょっとは、変わっている。・・・と思う」
「そっか。・・・羨ましいな」
「や、で、でも南雲くんは十分、だよ。怖くないし、優しくしてくれるし」
「・・・優しいだけじゃ、生きていけないからさ」
南雲が寂しそうな表情で呟くと、畑中は何も言わずに、かすかに頷いた。と、足音を響かせて歩いてきた海老澤が、2人の隣の壁に寄り掛かった。2人が驚いて海老澤の顔を見上げると、彼は無表情のまま口を開く。
「確かに優しさだけじゃ生きていけないし、なんなら今は感傷に浸る時間もない」
「・・・ごめん」
「それで強くなれるなら歓迎なんだけどな」
その言葉に、南雲は再び丸くなった。そんな南雲を軽く見下ろしながら、感情のない声で海老澤が言う。
「そんな簡単に変われるとは思えないが、変わってもらわないと困る。いくら時間稼ぎしてるとはいえ、もう手加減なんて出来ねえぞ。・・・南雲も畑中も」
「か、かわるって?」
畑中が戸惑いながら尋ねると、海老澤は淡々と、しかし芯の通った声で返す。
「冷酷さを持て。相手のことなんて考えるな。自分が生き残ることだけ考えろ」
「生き残ることを・・・」
畑中が呟く。海老澤はスマホの時計を一瞬見てから、2人へ真剣な視線を向けた。
「これから一気に相手を追い詰めていく。・・・もう後戻りできねえぞ」
海老澤の言葉に、2人は俯きながらも無言で頷いた。
12時。再び先ほどと同じ場所に、無言のまま谷場、那須、丹部が集まった。と、柱に寄り掛かっていた海老澤が顔を上げ、3人に声をかける。
「・・・もう喋ってもいいぞ」
「あら、丁寧に教えてくれてありがとう」
那須が嫌味の混じった声で応じると、海老澤は軽く目を閉じて首を横に振った。その態度を気にすることなく、谷場が軽く周囲を眺めながら言う。
「2人は来ねえのか?怖気づいたか」
「来るよ」
海老澤がぶっきらぼうに言い返す。と、確かに海老澤の言葉通り、2人が姿を見せた。南雲は不安そうに、畑中は緊張しつつも真剣な面持ちで3人と対峙する。
揃ったのを見た那須が、ブラウスのボタンを軽く開け、上半身を前に倒し、軽く上目遣いをしながら畑中の顔を見つめる。
「にしても疲れたなー。腕輪重いんだよね、これ」
声をかけられた畑中が、急に目線をさまよわせた。それを見た那須が軽快に笑う。
第2ボタンまで開いたブラウス、そしてぶかぶかすぎてシャツの役目をはたしていない長袖シャツ。その状態で下から覗き込まれたら、少し背の高い畑中から見える景色は、普段とは違っていて。
「何で答えてくれないの?」
挑発的にいう那須へ、海老澤が淡々と声をかける。
「あんま畑中で遊ぶな」
「じゃあ南雲くん?」
「え、え、おれは、いいよ」
急に声をかけられた南雲も、慌てて海老澤の影に隠れる。那須は唇を尖らせながら普段通りの立ち姿に戻った。
「なんだよー、隠れることないじゃん?」
「遊ぶなって」
「海老澤さんは動じないねー、ほんと」
那須が同意を求めるように谷場へ視線を向けると、谷場は薄ら笑いを浮かべながら、そうだな、と頷いた。海老澤はそんな2人のやり取りを眺め軽くため息をついた後、背後に隠れていた南雲を前に押しやった。
「とりあえず南雲、指令出せ」
押しやられた南雲が、戸惑いながらもはっきりとした口調で告げる。
「えっと、じゃあ、南雲から指令です。誰か1人、用意したドッグフード、食べてください」
「・・・ドッグフード?」
谷場が南雲を鋭く睨みつける。と、南雲は視線に怯えながらも、ドライタイプのドッグフードの袋を棚から取り出した。
「・・・これ」
「昼飯にしろと?」
「うん」
南雲が委縮しながら受け答えをすると、丹部が南雲へ詰め寄り、胸倉をつかんだ。
「・・・人間扱いすらしねえとはどういうことだ?」
「べ、別にルールは守ってるよ。ドッグフードは人間も、食べられる・・・」
「ルールの話じゃねえ。お前の非道さの話をしてんだよ」
「おい、丹部」
海老澤が言うと、丹部はニヤリと笑いながらさらに胸倉を締め上げ、南雲が苦しそうにうめいた。
「残念なことに、指令以外の行動はするなとは言われてないんでね。こっち側は自由なんだよ」
「お前、だからって暴力は」
「さっき言ったよなあ?反乱する自由もあるって!」
そう言うと、丹部は南雲を地面に突き飛ばした。南雲は勢いよく地面に倒れ込み、それを丹部が上から見下ろす。すかさず海老澤が間に割り込むように立つと、丹部は楽しそうに口角を上げた。
「止められんの?俺を?1人で?」
海老澤は一瞬谷場へ視線を向けた。が、谷場は笑みを浮かべながら丹部の姿を見つめているだけで、一切動こうとしない。唇を噛みしめる海老澤へ、那須がわざと明るい声で呼びかける。
「指令は絶対だから、暴力を振るわないでってお願いすれば、助かるかもよ」
「まあ今はお願いされてないから、止まんねえけどな!」
丹部はそう力を込めて、海老澤の腹に拳を叩き込んだ。海老澤は手でガードするものの受け止めきれず、よろけてうめきながら丹部を睨みつけた。
畑中が南雲を起こしながら叫ぶ。
「え、海老澤さん!おれ・・・」
「いい、俺が何とか・・・」
丹部の蹴りを受け流しながら海老澤が答える。が、その直後、丹部のフックがみぞおち辺りを直撃した。海老澤はうめき声を漏らしながら地面に膝をつき、片手で腹を押さえて痛みで顔を歪める。丹部は、そんなうめき声を気持ちよさそうに聞きながら、畑中と南雲へ視線を向けた。
「どうしよっかなー。このまま物理的に指令出せない状態にしちゃおうか」
と、海老澤が左手で身体を支えながらも、丹部の顔を睨みつけ、声を絞り出した。
「丹部、てめえ・・・」
「おっと、まだ元気ある?」
軽い口調で言いながら放った丹部の蹴りが、海老澤の頭を直撃した。鈍い音を響かせながら、海老澤が地面に倒れ込む。と、畑中が勢い良く叫んだ。
「は、畑中から丹部、谷場、那須へ指令!暴力を振るうな!俺らに指1本触れるな!」
「最初っからそうしときゃいいのに」
丹部が笑いながら谷場の隣に戻る。南雲と畑中で海老澤に駆け寄ると、彼は痛みでうめきながらも谷場たちを睨みつけた。
「お前ら・・・」
「指令で防げるのに、しなかったのはそっちでしょ」
「・・・海老澤から丹部、谷場、那須への指令。ドッグフードを食べなかったうちの1人、食事禁止。口に入れられるのは、水道水のみとする」
海老澤が頭を押さえ、立ち上がりながら淡々と言うと、谷場が海老澤を睨みつけながら言った。
「つまり俺らのうち1人はドッグフード、1人は食事禁止、で後の1人は自由と」
「・・・そういうことだ。誰が、どれをやるか、そっちで決めろ」
言葉の途中で大きくふらついた海老澤を、南雲がとっさに支える。肩で大きく息をしながらも闘志をむき出しにする海老澤へ、南雲は心配そうに声をかけた。
「休んだほうが・・・」
「いい、見届けてから」
海老澤が3人を鋭く睨みながら、大きく息を吐いた。一方、谷場たちは3人で顔を見合わせた。12時、いくら間食したとはいえ、そろそろお腹が減る時間だ。
と、丹部が谷場を睨みながら言う。
「俺、暴れたから腹減ってんだけど」
「誰だって一緒だ、そんなん」
「私だってお腹減ってるし、第一ドッグフードなんて食べたくない」
那須が言うと、谷場は軽く頭を抑えながら言う。
「・・・俺に食え、ってか?」
「私は絶対やだ。・・・絶食1時間ならまだ我慢できる」
「丹部は」
「だから俺は飯食うって言ってんだろ!お前ら達成できなかったら殺すからな」
丹部はそう言い捨てて、台所へと行ってしまった。そんな協調性のない3人を見て、海老澤がふっと笑みをこぼす。
「・・・いい気味だ」
「や、やっぱもろいな、絆」
畑中が同意するように頷いた。と、話がまとまったのか、谷場が海老澤の前に立った。
「俺がドッグフード、那須は食事禁止になった」
「そうか。・・・南雲」
海老澤の呼びかけに南雲は頷いて、コンクリートの床の上に置かれたプラスチック製の皿に、ドッグフードをざーっと入れた。それを見た谷場が、憎悪のこもった目で海老澤と南雲を睨みつける。
「・・・どういう冗談だ?」
「冗談じゃない、ドッグフードは机の上に置いて食べないだろ。犬は箸もスプーンも使わない」
「頭突っ込んで食え、と?」
「もちろん」
海老澤が飄々と応じる。那須がどこか不安そうな目つきで遠くから見つめている。
谷場は、皿を見ながら両手のこぶしを握りしめ震えていたが、やがて海老澤たちを睨みつけた後、ゆっくり膝を地面につけた。南雲がその様子を見て、軽く唇を噛みながら視線を逸らす。反面、畑中と海老澤は笑みを浮かべながら谷場を見ている。
膝をついた谷場は悔しそうに顔を歪めたが、やがて両手も地面につき、皿に頭を突っ込んでポリポリと音を響かせながら、ドッグフードを食べ始めた。海老澤が、喉の奥から引きつったような、しかしかなり楽しげな笑い声をあげた。
「腹減ってただろ?美味いか?」
「・・・指令さえなければ、殴ってた」
谷場は海老澤を睨みつけながら答えると、再び食べる作業に戻る。
「お似合いだよ。首輪もしちゃって、本当にペットみたいだ。可愛げはねえが」
「お、大きな犬だな。セントバーナードみたい」
畑中も嬉しそうに頷きながら答えるが、谷場は反応を返さず、皿の中に顔を突っ込みながら黙々と食べ進める。
やがて4人が見守る中、谷場が顔を上げると、皿の中は空っぽになっていた。谷場が袖口で口を拭いながら立ち上がり、海老澤を睨みつける。
「・・・これでいいか」
「さすがだな。後はそこのお嬢さんが、ご飯を我慢できれば終わりだな」
海老澤が軽い口調で言うと、谷場は横目で那須を見ながら舌打ちし、どこかへ歩いて行った。
谷場の姿が見えなくなった瞬間、気が抜けた海老澤がふらりと地面に座り込んだ。南雲が心配そうに背中をさすると、弱々しい笑みを浮かべて呟く。
「ありがとう。・・・ああ、効いたな、さすがに」
「ごめん、海老澤さん。おれ弱くて・・・」
「南雲のせいじゃない。暴力的なあいつが悪い」
海老澤は少し休んでから立ち上がると、南雲と畑中へ緩く笑いかけた。
「さて、飯にするか」
そんな3人を那須は遠くから無言で見つめていたが、やがて谷場の後を追いかけるように歩き出した。
「くそが、あいつら徹底的にバカにしやがってよ!」
倉庫の隅で、谷場が叫んだ。その隣で那須はなだめることもせず、黙って柱に寄りかかるようにして座り込んでいる。谷場は怒りのままに壁を数発蹴り飛ばすが、それでも落ち着かないのか、怒りを声に出しながらうろうろと歩き回る。
やがて怒りが限界点を越えたのか、谷場はふっと立ち止まると、那須に向けて静かな怒りのこもった声で呟いた。
「丹部も何だよ、あいつ」
「諸刃の剣だね」
「まじで協調性ねえ。話し合いすらしなかったぜ、くそが」
谷場が吐き捨てると、ご飯を食べ終えたらしい丹部が、ニヤリと嫌な笑みを浮かべながら姿を現した。
「ドッグフード美味かったか?」
「美味いわけねえだろ。・・・丹部、お前、何で話し合いの最中にどっか行ったんだよ」
「勝つために協力してくれって言ったのはそっちだろ?俺は協力してやってる側、つまり俺の立場のほうが上」
丹部が言い放つと、谷場は丹部の顔を睨み付けた。
「立場は同等に決まってんだろ。助け合いって言葉は知らねえのか」
「死にかけたら助けてやるよ。死にかけたら。大体さっきだって、俺がいたから1つ指令減ったんだろ。じゃあ後の2つはお前ら向けだろ」
「丹部・・・!」
谷場が丹部に詰め寄ろうとすると、那須が鬱陶しそうな冷たい声で諌める。
「うるさい。そこで喧嘩しないで。ただでさえお腹減ってきてイライラしてんのに」
「那須は、こいつに対して何も思わねえのか?」
「思うよ。思うけど、それ以上に疲れた」
「疲れた?」
「余計な体力使いたくないの。騒がないで」
那須が素っ気なく言うと、丹部が少々めんどくさそうに舌打ちをした。
「てめー女だからって、不機嫌になれば無条件でお願いが通ると思うなよ」
「はあ?私がいつわがまま言ったよ?どっかの誰かさんよりはるかに良い子ですけどねー」
「丹部、お前がわがまますぎんだよ。自覚しろ!」
2人からそうなじられた丹部が、みるみるうちに表情を歪め、2人の顔を交互に睨みつける。
「あ?喧嘩か?手加減しねえからな、俺は」
「だから喧嘩する気力ないって言ってるでしょ。どっか行っててよ」
那須が丹部を軽くあしらうと、丹部は那須の顔をしばらく睨みつけた後、プイとどこかに行ってしまった。
それを見送った谷場が、拳で壁を殴りつける。
「ああ・・・。イラつく・・・」
「谷場さんもお腹減ってんでしょ。なんか食べてきたら?」
「食う気になんねえんだよ。海老澤も丹部もムカつく、あいつら・・・!」
谷場は言いようのない怒りを虚空にぶつけたが、その声は虚しく反射して吸い込まれていく。那須はそんな谷場の姿を無表情に見つめた後、ぐったりと柱にもたれかかった。
「少し寝るから、時間になったら起こして」
「・・・自分で起きろ、俺は知らん」
谷場はそう言い捨て、那須に背を向けて歩き出した。那須はそれをぼんやりとした顔で見送った後、大きく息を吐きだしながら目を閉じた。
13時。1時間前と同じ場所に集まったのは、海老澤と南雲、そして谷場と丹部だった。海老澤が少し怪訝そうな顔をして問いかける。
「那須は?飯か?」
「・・・寝てんじゃねえの」
「起こして来いよ。3人に用事あるんだ、こっちは」
海老澤が少々うんざりとした表情を浮かべると、谷場はイラついたような表情を浮かべてからその場を離れ、すぐに眠そうに目をこする那須を連れてきた。
お返しと言わんばかりに、谷場が海老澤に問いかける。
「畑中はどうした」
「今回は俺らだけで大丈夫だから来てねえだけ。・・・海老澤から谷場、那須、丹部へ指令。それぞれのメルアドを教えろ。指令受信するときに使ってるやつ」
「はあ?それを聞いてどうすんだ?」
スマホを取り出しながら谷場が聞くと、海老澤は淡々と告げる。
「これからの指令は、メシアと同じようにメールで送る。指令の出し方は指示がなかった。ならば対面せずに済ませる」
真意に気づいた谷場が舌打ちをした。だが文句は言わずにアドレスを海老澤の携帯へ送り、全員にメールが届いたことを確認した海老澤がスマホをしまった。
と、ずっと無言だった南雲が口を開いた。
「南雲から、谷場さん、那須さん、丹部くんへ指令です。俺、海老澤さん、丹部くんへの暴力行為禁止」
「・・・なんだ、ずいぶん緩いな」
「どうせ腹減ってるだろうし、疲れてるだろ。休めよ」
「はっ、よく言うわ。さっきさんざん俺のことバカにしといて。丹部に殴られて怖気づいたか?」
谷場が煽るように言うが、海老澤は淡々とした視線を向けた。
「何とでも言えば。・・・次はメールで送るけど、必要になったらまたここに呼び出すから。それじゃ」
冷静にそれだけ言うと、海老澤は南雲を連れて倉庫の奥へ消えていった。谷場が一瞬だけポカンとした表情になったあと、軽く舌打ちをした。
「なんだあいつ。殴られて思考回路吹っ飛んだか?」
「・・・どうでもいいけど、お腹減った。ご飯食べるわ」
那須は疲れた顔でそう吐き捨てると、キッチンへ歩いて行った。丹部もいつの間にか姿がない。谷場はため息をついてから、那須の後ろを追いかけた。
「俺も飯、食うわ」
「・・・何食べるの?」
「適当」
そう素っ気なく返事した谷場はふと立ち止まり、じっと那須の顔を眺めた。那須も不思議そうな顔で立ち止まる。
「・・・何?」
「いや・・・。飯は俺が作るわ。何食いたい?」
「何、急に。どうしたの」
「・・・ちょっと、疲れてそうだったから。座ってろって」
「・・・じゃあお言葉に甘えて。なんかさっぱりしたの食べたいな」
那須がそういって眠たげに椅子に座り、背もたれにもたれかかった。
谷場はそんな那須の姿をもう一度ゆっくりと眺めた。那須はその視線に怯えることなく、眠たげに目をこすりながらも淡々と返す。
「どうしたの、急にそんな人の身体をジロジロと」
「・・・嫁を思い出した」
「嫁?あ、既婚なんだ」
「正確には既婚者だった」
谷場はそうあっさり返してから、冷蔵庫の中身を漁り始めた。那須はそんな谷場の背中を眺めた後、彼にぎりぎり届く程度の声量で尋ねる。
「・・・死別?」
「いや、ただの離婚」
「離婚?」
那須が聞くと、谷場は無言で鶏肉をフライパンに並べ始めた。お互い口を開かないまま、ジューと肉が焼ける音だけがその場を賑やかす。と、その音に紛れるようにして、谷場がぽつりと呟いた。
「嫁が、子供連れて出ていったんだ」
「ああ・・・」
「なんかその那須の疲れた顔が、嫁とちょっとかぶって」
谷場の言葉に、那須は少しだけ黙り込んだ後、背もたれから体を起こして真剣な視線を向けた。
「・・・離婚した理由って?」
「理由は俺も知らん。・・・気づいたら、全部失ってた」
「・・・何それ」
谷場が唇を噛みしめながら言った言葉を聞いて、那須は眉をひそめ谷場の顔を見た。と、彼の目にはうっすらと光るものが浮かんでいて。
それに気が付いた那須は、少しだけどう声をかけるか迷った後、その、と小声で切り出した。
「変なこと聞いて、ごめん・・・」
「いや、いい。なんか俺も自棄になってて、その上でこんな状態だろ。もういろいろ追い込まれていたのかもしれねえな」
谷場はそう気丈に呟きながら涙を拭い、肉をひっくり返す。那須はそんな谷場の手元をじっと見つめた後、いつも通りのてきぱきとした動きで食事の用意をする彼の横顔に視線を向けた。
「・・・谷場さんは、良いお父さんだったんだね」
「良いお父さんは、他人を使って相手を追い込まねえし、相手に暴言なんて吐かねえよ」
「そうじゃなくて。丹部と話してるときとかさ。・・・私は、正直言って他人にそこまで情がないから、自分に危害加えられなければ、どうでもいいと思ってる。でも谷場さんは違う」
「じゃあ海老澤も良いお父さんか?」
「あれは良いお父さんっていうより、出来る上司かな。今は最悪の敵だけど。・・・谷場さんは感情でぶつかって、自分が間違ってたら謝って。すごいよ、簡単にはできないって」
那須がそう言い切ると、谷場は無言で大根をおろしながら照れ臭そうに顔を背けた。
肉が焼ける音と、おろし金で大根を下ろす音。この2つが少々リズミカルなBGMを生み出す中、那須がちょっとだけ笑顔を浮かべた。
「それに谷場さんは、こうやって今も私を気遣ってくれるし」
「・・・褒めても何もでねえぞ」
「いや、ご飯が出る」
那須が軽く笑うと、谷場もつられて笑みを浮かべながら、大根おろしの水気を切った。
焼きあがった鶏肉に刻んだ大葉、大根おろし、梅干しの果肉をのせ、ポン酢を一回し。そうして出来上がった鶏肉のステーキと、レンチンした白米、冷蔵庫から取り出した漬物とともにテーブルの上に並べ、那須の対面に腰かけた。
「ほれ。さっぱりかどうかは微妙だが」
「すごい、おいしそう」
「すごいも何も、焼いて乗せただけだからな」
「十分ごちそうだよー」
那須は笑いながらいただきますと手を合わせると、嬉しそうに鶏肉にかぶりついた。弾けるような笑顔でおいしーと言いながらガツガツと、しかし上品にごはんを口に運ぶ。
そんな姿を、谷場は箸を手に持ったまま、食べることすらせずにじっと見つめる。と、那須の不思議そうな視線に気が付いたのか、苦笑いを浮かべながら誤魔化すように言った。
「いや、嫁もおいしそうにご飯を食べる人だったんだ」
「そっか。・・・愛してたんだね」
「まあな、それは今でも」
「・・・そうなんだ」
互いに無言になって、ただひたすらご飯をお腹へ納めていく。
食べ終わる頃には、那須は元気を取り戻したようで、笑顔でごちそうさまと箸をおいた。
「本当においしかった。・・・いろいろ、ありがとう」
「喜んでもらえて何よりだ。・・・頑張ろうな」
「うん」
その頃、南雲は1人倉庫の隅で座り込んでいた。すると、その隣に海老澤が腰かける。
「・・・大丈夫か」
「まだ何とか」
そう言葉少なに会話を交わす。と、畑中が戻って来て、海老澤へ嬉しそうに話しかけた。
「あ、え、海老澤さん。も、もうあいつらと、対面しなくていいんだよね」
「ああ。それに今回はいちいち監視する必要もない」
「た、助かるよ。1時間見張るの、疲れる」
畑中が言いながら南雲の隣に座り込んだ。海老澤が真剣な顔で2人を見る。
「だからこの間に、どれだけあいつらを狂わせる指令を出せるか、だ」
「う、うん。あの1人だけ作戦は効いてた、ね」
「そうだな。特に丹部は逆上させたくないし、あの作戦は有効かもな。後はこの倉庫内で、どれだけ出来るかだけど・・・。なんかあるか?」
「む、難しいなあ・・・」
無言の南雲を挟んで、海老澤と畑中が言葉を交わす。2人は南雲を気にせずに、悩みながらもアイデアを出していく。
「食べ物は、良かったかも。ドッグフードだけじゃなくて、げ、激辛とか、激苦、とか」
「そんなに材料ないからな。辛いのはいけるかもしれねえが・・・。好物の可能性もあるんだよな」
「そ、そっか・・・。じゃあ、パイ投げとか」
「畑中、バラエティー番組の罰ゲーム考えてるわけじゃねえんだからさ」
「難しい・・・。でも、さっきのあの谷場の様子、面白かった。こう、スーッと胸が晴れていって、さ」
ヒヒッと引き笑いをしながら、畑中が楽しそうに話す。海老澤はちょっとだけ黙り込んだ後、ニヤっと口角を上げながら畑中の顔を見つめた。
「案外、S?」
「と、というか、ほら、おれもともと煽り煽られのネトゲ界にいてさ。だ、だから、煽ってきた相手を打ち負かすのが、好き、だったんだよね」
「そういうことか・・・」
海老澤が遠い目をして言うと、畑中は楽しそうに笑った。
「リ、リアルじゃできないけど、いろいろやったよ。相手に勝って身ぐるみはがしたりとか、お金アイテム巻き上げたりとか、ひたすら粘着して、復活した瞬間倒したりとか」
「・・・まあ、うん、さすがネトゲ」
「リアルのおれじゃ、絶対できなかったから・・・」
俺でもできねえよ、と海老澤が呟く。と、畑中がふと嬉しそうに意気揚々としゃべる。
「そ、そうだ。怖がらせるのは?タンスに閉じ込めたりとか、あの小部屋とか、1時間って結構効くと、思う」
「怖がらせか・・・。確かにありだな。南雲はなんかあるか?」
海老澤がずっと黙ったままの南雲に話を振ると、彼は少しだけ顔を伏せて首を振った。
「・・・わかんない」
「何が?」
「この状況が正しいのかも、なんでおれがこんなに苦しんでいるのかも、わかんない・・・」
「南雲、お前・・・」
海老澤が言い聞かせるように呟いた言葉を遮り、南雲は手で顔を覆いながら言う。
「谷場さんのあの姿を見ても、おれは苦しくてもやもやするだけだったから・・・。他人が苦しんでる姿、もう見たくない」
「・・・でもその苦しんでる姿を見ない分、俺らが、自分自身が苦しむんだぞ」
海老澤が少し強い口調で言うと、南雲はだから、と声を震わせた。
「だからわかんないんだよ。何が正解なのかも・・・」
「・・・なおこの状況になっても泣き言か」
海老澤が冷めた口調で言う。畑中がおろおろする中、顔を伏せた南雲の斜め上から、海老澤が容赦なく言葉を投げつける。
「冷酷さを持てって言ったよな。その苦しんでる姿見たくないっていうお前のわがままで、お前自身も、そして俺も畑中も傷ついて苦しむんだぞ」
「・・・わかってる」
「それなのに、まだやりたくないってうだうだしてるのは、俺にはただの逃げにしか見えないけどな」
「・・・そんなのわかってるよ!」
南雲が少し顔を上げて叫んでから、再び顔をうずめて丸くなった。
「わかってるけど・・・」
「・・・はあ、もういいわ。俺と畑中で細かく詰めるから。どうせやりたくないって言ってても、いつかは向き合わなきゃいけねえんだからな」
海老澤はそう吐き捨てると、畑中に目で合図しながら立ち上がった。畑中はおろおろと2人の顔を見ていたが、やがて少し申し訳なさそうに立ち上がる。
「な、南雲くん、落ち着いたら、一緒に・・・」
「畑中、ほっとけ。どうせ折り合いはつけてもらわないといけない。なるべく早いうちに」
その言葉を残し、背中を向けて海老澤は歩き出した。畑中はごめん、と小声で呟いてから、その背中を追いかけた。
一方。倉庫の隅でゆったりと食後の時間を過ごす谷場と那須へ、14時の時報を知らせるようにメールが届いた。
2人はほぼ同じ動きでメールを開き、海老澤から送られた無機質なメール文に目を通す。
『14時。谷場、那須、丹部への指令。海老澤からの指令。誰か1人、代表者を選んで待ち合わせ場所まで。そこから1時間拘束させてもらう。
続いて、畑中からの指令。上記以外の1人を選び、畑中の料理を食べ切ってもらう。同じく待ち合わせ場所まで。
最後、南雲からの指令。海老澤、畑中、南雲への暴力行為は禁止。以上』
その文章を読んでから、那須は不安げに谷場に視線を向けた。
「どうする。また私たちに・・・」
「・・・とりあえず丹部を探すか」
そう言って谷場が立ち上がると、一角からふらりと丹部が姿を見せた。彼は谷場と那須へ、ニヤリと笑いながら話しかける。
「・・・どうする?」
「俺が行けって言ったら行くのか」
谷場が冷たい目線を向けると、丹部はわざとらしく考え込んでから、再びあざ笑うような表情を浮かべた。
「暴力禁止だしなあ。俺、暴力振るいたくなっちゃうかも」
「・・・それでも、さっきは俺と那須が我慢したんだ。せめて1つは」
「あーあ、誰か殴りたいなー。サンドバッグいないかなー。・・・なあ、谷場」
丹部が軽い口調とは裏腹に谷場を睨みつけながら言うと、谷場も身長差で丹部を見下ろしながら睨みつけた。
「・・・年上の言うことは聞くもんだ」
「え?何それ知らねー。あー、トイレトイレ。めっちゃ腹痛い、あー」
わざとらしい口調で言うと、丹部は余裕そうに手を振りながらトイレの方へ歩いて行った。那須が不安げに谷場を見る。
「・・・谷場さん」
「すまない、那須。今回も、我慢してもらえないか」
谷場が少し震えながら言うと、那須は少しだけ目線を下げたが、すぐに気にしてない様子を装って立ち上がった。
「・・・うん。どっちがいいかな」
「とりあえず向こうの説明を聞いてから決めるか。・・・本当にすまない」
「谷場さんも一緒だから、謝らないで」
那須はそう言うと、自ら集合場所へと向かう。谷場は丹部が消えたトイレのほうを睨みつけた後、那須を追いかけた。
那須と共に集合場所に着くと、1人で待っていた海老澤が、納得した表情で頷いた。
「やっぱりか」
「・・・分かってて指令出したんだろ」
「で、どっちがどっち?」
海老澤が余裕そうな表情で聞くと、谷場は少し舌打ちしてから、海老澤の目を見て言い放った。
「内容で決める。中身を説明しろ」
「中身ねえ・・・。まず俺のほうは、あの丹部がいた小部屋に行く。畑中のほうは、すでに料理はあるからキッチンだ」
「料理ってのは、量はあるのか?」
「いや、別に大食いさせたいわけじゃない。食後のデザート程度だ」
谷場はその言葉に少し悩んだ後、那須の顔を見た。彼女は不安げな表情で谷場の顔を見返す。その表情を見た谷場は、覚悟を決めた様子で再び海老澤へと向き直った。
「大変なのはどっちだ。俺がそっちに行く」
「おー、男気あるねー。とは言え、大変の性質が違うからなあ・・・」
「・・・じゃあ、体力が必要なほうが俺だ」
「ああ、なら俺の指令は谷場だな。那須はキッチンで、畑中がもう待ってる」
不安げなままの那須に対し、谷場はポンと肩をたたいた。大丈夫、とでもいうように。
那須がそれにかすかな笑顔で応えると、谷場は鋭い目つきのまま海老澤の元へと歩いて行った。そのまま2人は奥に消えて行く。
それを見送ってから那須は1人、台所の方へ歩いて行った。
台所にたどり着くと、そこには海老澤の言葉通り畑中が待っていた。彼は那須の姿を見ると、少し嬉しそうな顔でテーブルを指差した。
「ああ、き、来たね。そこ座って」
「・・・畑中の料理って何」
那須が感情のない声で聞くと、畑中はカップとスプーンを運びながら嬉しそうに言う。
「た、食べたらわかるよ。海老澤さんに、教えてもらったんだ」
その言葉とともに那須の目の前に置かれたカップには、ドロドロの真っ赤なスープの上に何やら濁った色のゼリー状の物体が乗っかった、見るからに不気味な物体が入っていた。ゼリー状の物体の上には赤い粉がかかっていて、それが怪しさを引き立てている。
匂いを嗅いだ那須が、ウッと顔をしかめながら言う。
「辛いでしょ、これ」
「と、とりあえず食べてみて、って」
那須は嫌な顔をしながらも、スプーンを手に取り、まずはスープを口に入れる。
口に入れた瞬間、彼女はウグッという言葉とともに激しくむせ返り、思いっきり顔を歪めながら畑中を睨みつけた。
「かっら・・・!辛いし、まっずいし、うぇ、何これ。・・・気持ちわる」
「お、おれせっかく作ったんだから、全部食べてよ。食べ切る指令だから」
「・・・くそが」
那須は辛さを逃すように喘ぎながら、続いてゼリー状の物体へ手を出した。
少量口に入れた瞬間、口を抑えながら激しく嗚咽する。とはいえ吐き出すわけにもいかず、彼女は足で踏ん張りながら必死で口を押さえ続け、口の中のものを飲み込んだ。
那須はスプーンを叩きつけるように机に置くと、多少涙目になりながら畑中へ罵声を浴びせる。
「まっず・・・。何これ!泥水のほうがまだましな味するわ!何入れたの!・・・辛くて苦いうえに、なんか生ごみのような生臭さがあるんだけど」
「か、体に害はないよ。冷蔵庫の中のものだけで、作った、から。鮮度も、あるし」
「あそこから、どうやってこの生ごみ・・・。おえっ」
言葉の途中で何かが戻ってきたのか、那須はえづきながら畑中を睨みつけた。
そんな那須をどこか嬉しそうに見ながら、畑中はスマホの画面を見せる。画面に表示された時計は、14:11と表示されていた。
「は、はやく食べないと、時間ないよ。15時まで」
「・・・わかってるわ」
那須は強気に言い返しながらも、むせつつ口を押さえつつ少しずつスープを減らし始めた。そんな様子を、畑中は嬉しそうに眺めている。
と、ゆっくりと手を動かしていた那須が動きを止めた。空気を求めるように大きく喘ぎながらも、吐き気を押さえるように手を口元に持っていき、その姿勢のままぽつりと声を漏らす。
「・・・水」
「じ、自分で取ればいいと思う・・・」
おどおどとしながらも畑中が返すと、那須は怒った目を向けながら立ち上がり、次の瞬間地面にしゃがみこんだ。
背中を震わせながら何回かえづく那須に、畑中は距離を取りながら言う。
「あ、あまり家具とか汚さないでよ」
「・・・だ、誰のせい、オエッ」
言葉の途中で那須は吐き気を抑え込むように両手を口元に持っていき、背中を震わせながら目を閉じる。
そのまましばらく動きを止めていたが、やがてゆっくり立ち上がりながら目を開けた。
「・・・畑中てめえ、覚えとけよ」
「怒るのはいいけど、じ、時間ないよ。あと25分」
「わかってるわ」
那須はそう言い捨てると、口で大きく息をしながら台所のシンクにたどり着き、シンクの上に顔を出した。辛そうに肩で息をしながらどこか虚ろな目を見せたが、やがてコップに水を注ぐと一気に飲み干した。そして再び水を入れたコップを持って席に戻る。
席についた那須は何かと葛藤するように、テーブルの上のスプーンとスープの残りをじっと見つめる。しばらく見つめてから、気合を入れるように大きく息を吐きだし、そのままの勢いでスプーンを手に取り、スープに突っ込んだ。
クソ、と大声で罵倒しながら次々にスープを口の中に入れていく。那須の身体は汗で湿り、時折逆流してきそうな胃の内容物を水で抑えつける。
「・・・あと10分、だよ」
その声を聞いた那須はスープを一気に飲み干し、今にも吐き出しそうな声を出しながら、畑中にカップを突き付けた。
「・・・これで」
「た、達成したんだ。根性あるね」
「今すぐお前にゲロぶちまけた・・・。ウッ」
「ちょ、ちょっと、吐くならせめてシンクで吐いてよ」
畑中が那須から再び距離を取りながら言うと、那須は口を押えながら涙目で畑中を睨みつけた後、何も言わずに去っていった。
一方、海老澤についていった谷場は、今朝見たあの小部屋にたどり着いた。2人で中に入ると、南雲が不安げな表情のまま出迎える。
「あ、谷場さん・・・」
谷場はその声には答えずに、真っ直ぐに海老澤の顔を睨んだ。
「で、何すんだ?」
「・・・南雲」
「うん・・・」
海老澤の言葉で、南雲が自信なさそうに谷場に近づいた。身長差で少し顔を見上げるようにしながらも、恐る恐る話しかける。
「話を、聞きたいんだよね」
「・・・お前に話すことなんてねえよ」
「そのスタンスならそのスタンスでいいんだけど・・・」
南雲はそう呟くと、谷場を押すようにして部屋の中心部へ移動させた。
今朝、丹部が縛り付けられていたあの柱に谷場を押し付けると、もう一度南雲は懇願するように谷場を見上げた。
「おれ、出来れば普通に話したいんだけど・・・」
「どういうつもりだよ。何を話すんだよ」
「えっと、いろいろ。谷場さんの過去とか、ほかの人の過去とか、あとはこれからの考えとか、いろいろ」
南雲のおどおどとした言葉に、谷場は少しだけ呆れた表情を浮かべた後、南雲の目を見つめて言い放った。
「・・・絶対話さねえよ」
「やだ?」
「何で話さなきゃいけねえんだ。前も言ったよな、お前の過去を話す覚悟もないのに尋ねるなって」
その言葉を聞いて、南雲は不安そうな表情を部屋の隅にいる海老澤に向けた。海老澤はその視線を鬱陶しそうな表情で返す。
「・・・何で俺見るの?」
「いや、ほ、ほんとにやらなきゃダメ・・・?」
「話しただろ。手はず通りにやれ。どうせ谷場はお前に手出せないんだし」
海老澤が素っ気なく返すと、南雲は唇を噛んで下を向いた。その会話を聞いていた谷場が、呆れたように歩き出す。
「俺、子供の知育玩具じゃないんだけど」
「ちょ、ちょっと待って、動かないで!」
「ああ?」
谷場は南雲に押し返され、不機嫌そうな声をあげた。南雲はそれに怯みながらも、谷場の腕を掴んで言う。
「両腕、柱の後ろに回して」
「は、絶対やだ」
「お願い、回して」
「お願いするような内容じゃないだろ・・・。そんなにやってほしいなら、力ずくで動かせば」
谷場が飄々と言い放った言葉を聞いて、南雲はどこか涙目になりながら腕を後ろへもっていこうとする。が、谷場は軽く笑みを浮かべ、掴まれた腕を力技で振り払って、時には捕まらないよう動かし、南雲をからかうようにかわし続ける。
見かねた海老澤が、谷場の片腕を柱の後ろ側へ捻り上げた。谷場は少しだけ顔をしかめ、海老澤の方へ視線を向けた。
「・・・痛えよ」
「南雲が手間取ってるもんだから、つい」
「子供にお使いさせんなよ」
そう話している間に、南雲は谷場の手首に巻かれた腕輪の金具に南京錠を引っ掛け、柱の後ろ側へ回した。そして、海老澤が捻り上げていたもう片方の腕の金具と繋ぐ。カチャッという音とともに、2つの腕輪は完全に柱の後ろで固定された。
後ろ手に拘束されてもなお、谷場は表情を一切変えずに鋭い目で南雲を睨みつける。
南雲はどこか戸惑いを見せながらも、革製の長いベルトを谷場の胸とお腹辺りに巻き付け、柱と谷場の身体を固定する。力が入っているのかかなりきつく締められ、さすがの谷場も、ようやく少しだけ顔を歪めて身体をよじった。
「・・・きついんだけど」
「しゃ、しゃべれるでしょ?」
「喋れない、って言ったら緩めるのかよ」
南雲はその言葉に、不安そうな表情を浮かべた。どっちのほうがいいのか、判断がつかないような顔。その顔を見た谷場はあきれたようにため息をついて、威嚇するような低い声で続けた。
「まあいいけど、これで俺が喋るとでも?」
「しゃべろうよ。えっと・・・。まず、谷場さんの過去から。結婚してたんだよね」
「・・・やだね、喋らねえ」
頑なな谷場に対し、南雲はなぜか泣きそうな顔になりながら、再び海老澤の方を見た。部屋の隅で眺めていた海老澤は、無表情を南雲へ返す。
「だから、何で俺見るの?」
「だって、おれ・・・」
「何でそこまでやったのに、まだ不安なんだよ。いい加減吹っ切れろよ」
「不安っていうか、だって・・・」
2人のやり取りに、谷場もうんざりとした口調で口を挟んだ。
「何、俺はガキの遊びに巻き込まれてんの?教育は他人を巻き込まずにお家でやってくれない?」
「うう・・・。た、谷場さんが素直に話せば、こうならなかったのに」
南雲が恨めしそうな顔で谷場を見ると、谷場は視線を受け止めながら淡々と言う。
「何で俺に責任転嫁すんの」
「・・・責任転嫁じゃない、こ、こうなったのは谷場さんが話さないって選択肢を、選んだから、なんですよ!」
なぜか敬語になりながら、南雲は谷場の腕に機械を押し当てた。
谷場が何か言葉を発する前に、その機械からバチッという音が響く。瞬間、少し身をよじった谷場の全身から力が抜け、辛そうに顔を歪めてうめくように言う。
「くそが。・・・ス、スタンガンかよ」
「う、うん。出力は落としてるから、ケガはしないと思うよ。・・・だから話してほしいな」
「ガキに持たせていい玩具じゃねえぜ、それ・・・」
まだ話そうとしない谷場へ、もう一度南雲がスタンガンを押し当てようとすると、谷場はようやく大きく息を吐きながら口を開いた。
「分かった分かった。・・・ある日帰ったら、嫁と子供がいなくなってて、そのまま離婚した。これでいいだろ」
「・・・なんで?」
「なんでって言われてもなあ・・・。俺に聞かないでくれよ」
「結婚したことないからよくわからないけど・・・。そういうのって、理由あるんじゃないの?」
南雲の純粋な疑問に、谷場は思わず苦笑いを浮かべながら返す。
「正当な理由がないからここに来てんだよ。言っただろ、捨てられたって」
「そっか・・・。捨てられて、離婚して、それで?」
「それでって・・・。全財産持っていかれた上に、職場にも変な噂流されて。おかげでこうやって無断欠勤しても、連絡1つこねえ。いてもいなくても変わらねえからな」
谷場が自嘲するように笑いながら言うと、黙って聞いていた海老澤が口を開いた。
「そういう理由なら、全財産は持っていかれないだろ。普通は折半だと思うが」
「・・・DVでっちあげられたんだよ。家にいる時間、俺は嫁にも子供にも陰湿に暴力を振るう最低野郎だと。DVするために睡眠時間3時間だったらしいぜ、俺。普通に働いていたのに」
谷場が淡々と言うと、南雲は驚いたように彼の顔を見た。
「でっちあげ?」
「診断書なんてなんもねえぜ。ただ嫁が手書きでつけてた日記と、そのDVを証言したときの泣き落とし。これだけで俺は悪者だ」
吐き捨てるように言うと、南雲は少し視線を泳がせた後、俯いた。
「・・・ごめん」
「なんでお前が聞いたのに謝るんだよ」
「いや、思ったよりひどかったから・・・」
「そう思うなら、この現状も相当ひどいからどうにかしてくれよ」
谷場の軽口を受け流し、南雲は戸惑うように視線を揺らしながらも、顔を上げた。
「じゃあえっと・・・。那須さんとか丹部くんのって、なんか知ってる?」
「知らん」
「・・・ほんとに何も?」
南雲の問いかけに、谷場は無言で頷いた。南雲と谷場の間に、互いを探るような緊張感が走る。南雲は威嚇するようにスタンガンを見せたが、それでも谷場は表情を一切変えず、じっと南雲の顔を睨みつけた。
数秒の睨み合いの後、先に白旗をあげたのは南雲だった。スタンガンを下げ、少し弱々しい口調で話を変える。
「・・・わかった。じゃあ、これからの作戦は何か考えてる?」
「言うわけねえだろ。そもそも、今話したこともほんとだと思ってるのか?」
「嘘なら嘘でもいいけど・・・」
谷場が口を閉ざして目線を逸らすと、南雲は戸惑ったように海老澤のほうを見た。だが海老澤は何も言わず、ただただ冷たい目線を南雲と谷場に向けている。その海老澤の顔を見た南雲は、少しため息をつきながら視線を戻し、手に持ったスタンガンをしまった。
「・・・まあ言わないよね」
「そりゃそうだろ。なんでいちいち手のひら見せなきゃいけないんだよ。・・・今後は丹部に全部やらせる、とか言ったら信じるのか?」
「・・・別に」
南雲は返事しながら、不安げに再び海老澤へ視線を向けた。視線を向けられた海老澤は、少しため息をついてから扉に手をかけた。
「畑中の方見てくる」
そう言い残すと、さっさと部屋の外に出ていった。
南雲は海老澤の姿が見えなくなった瞬間、疲れたように手で顔を覆ってしゃがみこんだ。谷場はそれを無表情で眺めた後、少しだけ語気を和らげて尋ねる。
「・・・何、脅されてんの?」
「脅しではないけど・・・」
「こっちから見たら、完全に主犯と雇われバイトだったぜ」
谷場が言うと、南雲は立ち上がって谷場の身体を見つめた。少しだけ戸惑うように目を閉じた後、谷場のベルトに手をかけて外す。
ベルトが地面に落ちる音を聞きながら、谷場は不思議そうな視線を南雲に向けた。
「・・・どうしたんだ?」
「いや・・・。ごめん、手首のは外せないけど」
「海老澤との間に何があったんだよ」
「何もない、けど・・・」
「けど?」
南雲は少しだけ俯いてから、フルフルと首を横に振った。
「何でもない」
「言えよ。・・・海老澤にも畑中にも言わないから」
その言葉を聞いた南雲は、どこか諦めに似た表情を浮かべて谷場の顔を見上げた。
「でも、敵同士だよ」
「お前は、俺と海老澤、どっちの方が信じられるんだ。役割の話じゃない、人間性の話だ」
「それは、どっちも・・・」
「どっちも、何?」
谷場が言うと、南雲は顔を手でこすってから、壁に寄り掛かった。そのままか細く頼りない声で吐き出す。
「・・・おれが、おれがダメなんだよ」
「ダメってなんだよ」
「おれだって変わりたいのに、でも、皆苦しいだけで、何をやっていいかもわかんなくて・・・」
谷場はそんな南雲の姿を眺めた後、手首を動かして金具がぶつかる金属質な音を響かせながら、どこか馬鹿にするような笑みを浮かべて言う。
「で、変わる方法が、これ?」
谷場の質問には答えず、南雲は不安な表情のまま谷場の顔を見た。
「・・・谷場さんは、わかるの?」
「何が」
「・・・こんなことやって何になるのか、って。おれ、わかんないんだ。谷場さんが苦しむ意味も、海老澤さんが苦しむ意味も。これ、テストなんだって。おれがどこまで冷酷になれるかのテスト。・・・こんな全員苦しんで、意味あるのかな」
南雲の戸惑いの言葉を聞いた谷場が、呆れた表情で南雲を見た。
「哲学者かよ」
「そんな変、かな」
「変って言ったら考え改めんのか?」
谷場の問いかけに対し、南雲は視線を泳がせながら黙り込んでしまった。その顔を見た谷場が笑いながら呟く。
「テストだか何だか知らねえけど、そんな後悔してるなら、まずこれ外してほしいんだけど」
「・・・鍵、海老澤さんが持って行っちゃった」
「戻ってくんの?」
「たぶん」
視線をさまよわせ続けながら南雲が言うと、谷場は特に反応も返さず口を閉ざした。
南雲も何も言葉を発さずに、スマホを取り出して画面を点ける。スマホには14:50と表示されていて、残り時間がわずかなことに少しだけ安堵の息を吐いた。そのままスマホをいじろうとするが、この部屋は電波が入らないらしく、諦めた様子でスマホをしまった。
と、ドアが勢いよく開き、海老澤が畑中を連れて戻ってきた。外れたベルトを見て、南雲に怪訝そうな視線を向ける。
「・・・何してんの?」
「い、いや・・・」
「何で外れてんの、ベルト」
容赦ない海老澤の詰めに、南雲は下唇を噛んだ後、俯きながら呟いた。
「・・・ごめん」
「・・・まあいいけど。それよりスタンガン、渡せ」
海老澤が言いながら手を出すと、南雲は戸惑ったように聞き返した。
「スタンガン?」
「最後は畑中にやらせる」
「え、もう充分じゃ・・・。おれ、聞き出したよ」
南雲が戸惑うように言うと、海老澤は強引に南雲のズボンに手を入れ、スタンガンを奪い取った。悲しげな表情を浮かべた南雲を置いて、海老澤は畑中へスタンガンを渡す。
谷場を見ながらニヤついていた畑中は、受け取ったスタンガンを無造作にポケットに入れた後、足元に落ちていたベルトを拾い上げながら谷場に向かって言う。
「ど、どう?苦しい?」
「んだよ、別にどうってことねえよ。お前ら入れ代わり立ち代わり、暇だな」
谷場が淡々と返すと、畑中は手に持ったベルトを勢いよく谷場のお腹に巻き付け、締め上げた。腹部を圧迫された谷場が、ウッと唸り声をあげる。
それでも畑中は遠慮なくベルトを止めてから、ニヤニヤと嫌な笑みで谷場を見上げた。
「い、良いこと教えてあげる。次の指令も、2人しかターゲットいないんだ」
「・・・で?」
谷場が苦しそうに息を吐きだしながらも、強気の姿勢を崩すことなく畑中を睨みつけた。
「も、もちろんおれら、名前を言わずにおけば、那須と谷場さんが来るって、知ってる。し、知っててあんな風に書いてたんだ」
畑中はそう言ってから、苦しげにうめく谷場の顔を見上げた。谷場の顔には脂汗が浮かんでいるものの、眼光は鋭く畑中を睨みつけている。
それでもその眼光に動揺することなく、畑中は口角を上げながら言葉を続けた。
「だから、さ。もし谷場さんが丹部くんの暴行を止めて、手を出さないってこと約束してくれるなら、か、片方の指令を丹部くんにしてあげる。もう片方は那須か谷場さんにすればいい」
その提案を聞いて、谷場は荒い呼吸をしながら畑中の顔をさらに鋭く睨みつけた。谷場の呼吸音を笑顔で聞きながら、畑中はその視線を真正面から受け止める。
と、谷場は勢いよく足を振り上げ、畑中に向けて蹴りを放った。だが、畑中に当たるスレスレで足を止める。一拍置いて、畑中はよろけながら距離を取り、谷場を睨みつつもう1つのベルトを手に取った。
「い、良い提案だろ。なんで蹴るんだよ。第一、暴力禁止だって言っただろ」
「だから、当ててねえって。大体、指令をフルで使いたいからって、こんな姑息な、交渉手段、通じるとでも・・・」
途切れ途切れの単語を吐き出すように、谷場が言う。
畑中は舌打ちしながら、谷場の足首と柱を固定するようにベルトを巻き付け、足首をベルトで締め上げた。そして苦しそうにうめく谷場の全身をゆったりと眺め、スタンガンを取り出しながら余裕そうな声で言う。
「ど、どっちもどっちだよ。で、どうする?」
谷場は苦痛で顔を歪めながらも、何も言わずに畑中を睨みつける。と、南雲が畑中と谷場の間に割って入った。彼は悲しげな表情のまま、畑中へ懇願するように言う。
「ちょ、せめて苦しくないように、しようよ。つらそうじゃん」
「南雲、黙って見てろ」
海老澤が静かに言うと、でも、と南雲は逡巡するように視線をさまよわせた。畑中も多少イラついたようで、南雲の顔を睨みつけながら静かに鋭く声を発する。
「な、南雲くん、そこ邪魔」
「だって、ここまできつくする必要・・・」
「お、おれがやってんだから、黙って見ててよ!なんで邪魔すんだよ!」
畑中が激高しながら、南雲の腕にスタンガンを突き付けスイッチを押した。
まともに電撃を食らった南雲は、声にならない悲鳴をあげながら床に倒れ伏し、腕を押さえうめき声を上げた。
「は、畑中くん、何で・・・」
「邪魔しなきゃよかったのに。・・・た、谷場さんもこうなりたくなかったら、早く決めてよ」
畑中は床に転がる南雲に目もくれず、威嚇するように谷場を睨みつけた。
谷場はどこか戸惑った様子でそんな2人を見ていたが、やがて目を閉じ、大きく息を吐きだしながら口を開く。
「分かった。全部飲む。もう丹部には、好き勝手させない。だから・・・」
「う、うん、決まり。・・・し、指令は全部こっちから出てるってこと、忘れないでね」
畑中は笑顔を浮かべると、ようやく谷場に巻き付けていたベルトを外した。楽になったらしい谷場が、大きく呼吸を繰り返す。
部屋の隅でそれを眺めていた海老澤はゆっくり歩きだすと、地面に転がった南雲を見下ろすように立った。
「お前さあ、俺の言葉の意味、理解してなかったわけ?」
「り、理解してないわけ、じゃ・・・」
痛みに顔を歪めながら南雲が答えると、海老澤はため息をついて首を振ってから、谷場に近づいた。
「次の指令はすぐ送る。向こうで待っとけ」
「おいおい、俺の目の前でそんな堂々と喧嘩していいの?」
「喧嘩じゃない。教育、躾」
海老澤はそう淡々と返しながら、南京錠の鍵を開ける。
ようやく自由になった谷場は、腕を軽く回しながら、まだ地面に寝っ転がっている南雲を憐れむような瞳で一瞬見下ろした。だが声をかけることはせず、無表情で部屋を出ていく。
と、畑中が申し訳なさそうな顔で南雲に手を伸ばした。
「ご、ごめん、頭に血が上っちゃって・・・」
南雲はその手を反射的に避けた。2人の間に微妙な空気が漂う。
少ししてから自分の行動の意味に気づいた南雲が、ごめん、と言いながら立ち上がり、畑中に問いかけた。
「・・・ここまでする意味、あるのかな」
「あ、あると思ってるから、おれは、あそこまで」
「あんなに苦しそうだったのに・・・」
「南雲、お前は黙れ。もういい。どんな手段を使ってでも谷場の話を聞きだして交渉しろって指示、理解してなかったわけじゃないよな」
南雲の言葉を遮るようにして、海老澤が冷たく言い放つ。発言を遮られ小さく俯いた南雲をよそに、海老澤はスマホで何やら作業してから、呆れたような表情を浮かべた。
「もうお前には期待しない。これ以上俺らを引っ掻き回すな」
それだけ言い放つと、畑中の腕を掴んで部屋を出ていく。畑中は不安そうな視線を南雲へ送りながらも、立ち止まることはなくそのまま外に出ていった。
残された南雲は1人、泣きそうな顔でうずくまった。
「谷場さん!大丈夫だった?」
先に倉庫の隅に戻っていた那須が、ふらっと戻ってきた谷場を迎える。谷場は少しだけしんどそうな表情を浮かべたが、すぐにわずかな笑みを浮かべた。
「・・・ああ、なんとかな。那須こそ大丈夫か」
「・・・うん」
そうか、と谷場は素っ気なく返して地面に座り込んでから、那須の顔を見上げた。
「それより朗報だ。もしかしたら、向こうも分断できるかもしれない」
「ぶ、分断?どういうこと?」
那須が尋ねると、谷場はわずかに笑みを浮かべた。
「南雲。南雲さえ崩せれば、俺らの勝ちだ」
「なんで南雲・・・?」
那須がそう尋ねた瞬間、2人のスマホが震えた。2人同時に画面を点けると、次の指令メールが届いていた。
『15時、海老澤から丹部への指令。1時間で写経をしろ。詳しくは集合場所にて。
続いて、畑中からの指令。那須、谷場のどちらかは丹部の監督をしろ。
最後、南雲からの指令。海老澤、畑中、南雲への暴力行為は禁止。以上』
メール文を見た谷場がどこか複雑な表情を浮かべる。
「写経とか、また地味なもんを・・・」
「まあでも暴れん坊にはちょうどいいかも?私たちも休めるし」
那須がちょっと笑いながら言うと、倉庫の奥から丹部が姿を見せた。メールを読んだらしく、舌打ちをしながら谷場と那須を睨みつける。
「何で俺狙い撃ちなんだよ」
「ずっと指令こなしてないからだろ。たまには行ってこい」
「・・・くそが。まとめてぶっ飛ばしてやる」
丹部が不穏な言葉を呟きながら集合場所へ向かう。谷場が慌てたように丹部を追いかけながら叫んだ。
「おいバカ、暴力禁止だぞ」
「知るか」
「知るかじゃねえよ!今までの俺らの努力を無駄にするなよ!」
谷場の制止も聞かず、丹部は速足で集合場所にたどり着いた。
と、待っていた海老澤と畑中が、追いかけてきた谷場の姿を見てどこか安心したような表情を浮かべた。
「ってことは、監督は谷場か」
谷場が答えるよりも早く、丹部はすぐに海老澤と畑中に詰め寄った。
「ってかてめえ、写経ってなんだよ!」
「もうセット用意してるから、1時間で全部書き写してもらおうかと。・・・そもそも写経って知ってるよね?」
「んだよそれ」
丹部のつっけどんな返事に、海老澤は少しだけ脱力したような笑みを浮かべた。
「そこからか・・・」
「あ、馬鹿にすんじゃねえよ!」
「暴力禁止だぞー。とりあえずそこ」
海老澤は丹部を軽く流し、倉庫の一角を指差す。そこには細いペン、白い紙、そしてスマホが折りたたみ机の上に置いてあった。
谷場が丹部をその机の前に引っ張っていくと、丹部はそれらの道具を睨みつけた後、海老澤の方を振り返り怒鳴るように言う。
「・・・は?何すんだよ、これ」
「スマホに例文のお経を表示させてるから、それをそのまま書き写せばいい」
「・・・漢字ばっかじゃねえか」
「そりゃ仏教だし」
海老澤が丹部の言葉に淡々と答えると、丹部は苛立ったように舌打ちしながら机の前をうろつく。
会話を聞いていた畑中が、丹部には聞こえないよう小声で呟いた。
「お、おれより何も知らねえ・・・」
「あの性格で、写経したことあるわーとか言われる方が嫌だけどな。まだ予想の範囲内というか」
海老澤はそう応じながら、丹部の動きを見守る。
と、谷場は未だに始めようとしない丹部へ、少し強い口調で言う。
「おい、時間なくなるぞ。さっさと始めろ」
「・・・ああ、やりゃいいんだろ!やりゃ!」
丹部は、不機嫌そうに机を叩きながらあぐらをかいて座り、ペンを手にとって作業を始めた。その丹部を見守るように谷場が斜め後ろに立ち、時折小声で何かを教えている。
そんな2人を見ていた海老澤は、畑中にジェスチャーで移動することを伝えると、先程の小部屋へと向かった。
小部屋の中に入ると、南雲が壁に寄りかかりながら俯いていた。と、入ってきた海老澤の顔を見て、少しだけ嫌悪感を表に出す。
「・・・何」
「お前の意思を確認しに来た」
南雲はそれに答えず、海老澤から顔を背けた。2人の間に大きな壁があるかのように、決してお互い近づこうとはせず、静かな負の感情が場を満たす。
ようやく海老澤が沈黙を破り、静かに、だが威圧的に南雲に問いかけた。
「で、結論は出たのか」
「・・・出ない」
は、と海老澤が威嚇するような声を上げた瞬間、南雲は静かな憎悪を込めながら海老澤の目を睨みつけた。
「やっぱりおかしいよ、こんなの。何で、罪もない人を苦しめなきゃいけないんだよ」
「南雲、お前にはゲームを放棄するという選択肢がある」
海老澤が淡々と、静かに睨み返しながら言う。
「おかしいと思うなら、出ていくこともできるのに、なぜやらない?」
「それは・・・。おれが出ていったからって、誰かが助かるわけじゃないし」
「なら俺が全員救ってやろう、と。へー、こんな場所で正義のヒーロー気取り?」
海老澤が言い放つと、南雲は黙って手元に視線を落とした。そんな南雲へ追い討ちをかけるように、よく通る落ち着いた声で続ける。
「正義ってのは悪がいるから成り立つ。もちろんさっきの谷場への行為は、日本なら犯罪だ。でも、こんな法もルールも届かない倉庫で、どれが悪だと言いきれる?どれが正義だとわかる?」
「・・・人が苦しんでるってことは、それは悪だろ」
「じゃあその煮え切らない態度のせいで俺を苦しめてるから、南雲も悪か?そして今お前を苦しめてる俺も悪か?」
南雲は唇を噛んで表情を消した。それでも海老澤の言葉は止まらず、はっきりと落ち着いた声で続ける。
「もしさっき谷場を助けていれば、それは谷場にとっては正義だろう。でも後で苦しむことになるのは俺と畑中だ。つまり俺らにとっては悪。・・・さっきも言ったよな」
「・・・じゃあ、皆が苦しまなきゃ、それは絶対的な正義ってこと?」
静かに言い返した南雲に対し、海老澤はどこか嘲笑うように口角をあげた。
「それができないから苦しんでるんだろ。現にお前も出来てないし」
「・・・だって、海老澤さんたちは、それをやろうとすらしてないのに」
「思い付いたらとっくにやってる。・・・まあもし、6人全員が南雲なら実現できただろうけどな」
海老澤の皮肉にも言い返せないのか、南雲はイラついたように唇を強く噛みながら、海老澤から目を背けた。そんな南雲の姿を見ながら、海老澤が冷徹な声で問いかける。
「で、どうすんだ。ずっとここにいるつもりか?・・・俺らについてくるなら、指示に従ってもらうが」
「・・・もう少し、考えたい」
「準備もあるし、さっさと決めろ。曖昧に誤魔化して逃げられると思うなよ」
海老澤は腕を組んで、冷たい目線を南雲に向けた。結論を出すまで出ていかないという意思を込めながら。
南雲は床に視線を逃がししばらく黙り込んでいたが、やがて少し悲しげな目で海老澤を見つめた。
「逆に・・・。海老澤さんは、あれ見ても何も思わなかったの?」
その問いかけに、海老澤は少し考え込んだ後、小声で答えた。
「いや?むしろ、ちょっと楽しかった」
「え?」
南雲が信じられないものを見る目つきで、海老澤のほうを見る。それでも海老澤は態度を乱すことなく、少し言葉を選びながら答えた。淡々とした言葉の奥に、わずかな狂気と狂喜を含ませながら。
「だって、俺の命令1つで相手を苦しませることも、助けることもできるんだぜ。俺の命令に相手が従うんだぜ。・・・俺より強い奴が、床にはいつくばってペットのようにご飯を食べたり、スタンガンに怯えたりしちゃってさ」
「海老澤さん・・・?」
海老澤の言葉を聞いた南雲が、戸惑いと恐怖の入り混じった表情に変わっていく。それでも海老澤は止まらず、わずかに笑みを浮かべながら喋り続ける。
「逃げることすらできないのに精一杯強がって、でも畑中が脅したら最終的には屈して、ああ、本気で殺そうとしたら泣き出すのかな、とか思ったらなんか面白くて」
「ちょ、ちょっと・・・」
「小さいころ、地面を歩いているアリを追いかけて踏みつぶしたりしただろ?そんな子供のころを思い出すというか。こっちは遊んでるだけなのに」
「海老澤さん!」
南雲が強い口調で叫ぶと、まるでゲームを取り上げられた子供のような不貞腐れた表情になりながらも、海老澤は言葉を止めた。そんな海老澤を、南雲は憐れみと悲しみが入り混じった目で見つめる。
「・・・おかしいよ、絶対」
「南雲には少し早かったか。まあそのうち分かるさ。・・・で、そろそろ決まったか」
海老澤が当初の淡々とした口調に戻って問いかける。南雲は俯いた後首を横に振り、海老澤がそれを見て、わずかに目を細めた。
「・・・嫌だ、と。そういうことだな」
「おれ、もうついていけないよ・・・」
南雲がそう言った瞬間、海老澤は見えない壁を破壊するように、1歩ずつ踏みしめながら南雲に向かって近づく。
圧から逃げるように南雲は数歩後ろに下がったが、すぐに海老澤が追いついて勢いよく肩を掴み、怯える南雲の目を覗き込みながら静かに言う。
「お前は自分が正義だと思っているかもしれないが、それは違う。甘えとか逃げっていうんだ」
そういうと、海老澤は勢いよく南雲を押した。南雲はバランスを崩し、段ボールの山に背中から勢いよく倒れこむ。
海老澤は出口へ足を向けると、段ボールに埋もれながら呆然とする南雲へ、言葉を投げる。
「一つ教えてやるよ。この建物は倉庫、んでここは物置部屋。当然人が住む前提で作られていない。だから」
海老澤は扉に手をかけた。立ち上がろうともせず呆然と海老澤の顔を眺める南雲を、何の感情もない目で見つめながらはっきりとした声で言う。
「だから、鍵は外からしか開けられない。また後でな」
死刑宣告のようにそう言い残すと、海老澤は外に出てドアを閉めた。
一拍置いてから、言葉の意味を理解した南雲は勢いよく立ち上がり、ドアノブに駆け寄って手をかける。そのドアノブをいくらひねっても、扉をどんなに押しても引いても、叩いても蹴っても怒鳴っても、金属製のそのドアはびくとも動かず。
南雲は呆然としながら室内を見渡した。無機質なコンクリートの壁と床、散らばったダンボール、木製の柱と周囲に散らばったベルト、天井近くに設置された、鉄格子付きの小さい明かり取りの窓、そして電波の入らない携帯。
「・・・嘘だろ」
呆然としながら呟かれた南雲のその言葉は、誰の耳にも届くことなく、わずかに反響しながら虚空へ溶けていった。
その頃、倉庫の一角では、丹部の怒声に近い声が響き渡っていた。
「あー!出来るわけねえよこんな知らねえ漢字ばっかりで!くそが!」
「うるせえよ。口動かす暇あったら手動かせ」
「俺、中学ですらまともに勉強してないのに、こんなん出来るわけねえだろ!」
「怒鳴るな、俺でストレス発散すんな、やれ」
谷場が冷静な口調で諫める。丹部はエンドレスに暴言を吐き続けながらも、ようやく写経を再開した。
書き写した文字は2/3に達しようというところで、このペースでいけば16時には間に合うかもしれない、という微妙なライン。
怒鳴る丹部とそれを冷静に諫める谷場という、無駄に息のあった2人のやり取りを、畑中は柱に寄り掛かりながら無表情で眺めている。と、戻ってきた海老澤が柔らかい笑みを浮かべながら、畑中の肩を叩いた。
「おっけ、もう戻った。交代で休んでてもいいし、見守っててもいい」
「お、おれはまだ全然大丈夫、だけど・・・。な、南雲くんは?」
畑中の問いかけに、海老澤は少しだけ目を鋭く細めたあと、再び人当たりのいい好青年風の微笑に戻って言う。
「1人になりたいらしいから、そっとしてある。畑中もしばらく話すのはやめとけ」
「そ、そっか・・・」
そんな2人のやり取りすら耳に届いていない様子で、丹部が再び大声を上げる。
「んだよこの漢字!見たことすらねえよ!」
「だろうな。ほら、早く手動かせ」
「おっさんのほうが得意だろ!?代われよ!」
「俺は監督だから。この指令は丹部にしか出されてねえんだよ」
「知らねえよ、んなの!出来るわけねえだろ!」
「暗記しろって言われてるわけじゃねえし・・・。大体お前、クリアのためならなんでもする人間なんだろ?」
「向き不向きがあるだろうが!くそが!」
その様子を見ていた海老澤が、腕を組みながら少し苦笑いを浮かべ呟く。
「なんか、丹部に文庫本1冊渡して、3時間で読んでっていうだけで勝てそうな気がしてきた。本見つかればの話だけど」
「き、奇遇だね。おれもそう思う。司馬遼太郎とか渡せば、一瞬で勝てる、気がする」
「そうだな。・・・村上春樹とか?」
「村上春樹は、よ、読みやすいよ。世界中で売れてるだけ、ある。・・・森鷗外とか、夏目漱石とか、そういう古い文体だと、慣れてないとしんどいかも」
「あー・・・。というか本好きなんだ」
「う、うん。しゃべったりするのはだめなんだけど、も、文字読むのは得意、だから」
「へー。なんか意外だな。ちなみにおススメは?」
「よ、吉川英治の、三国志」
「三国志か・・・。ゲームでしか見たことねえな」
「お、面白いよ。1回読んでおくと、ゲームが数倍面白くなるし」
「なるほどなあ・・・」
そんな2人の和やかな会話とは裏腹に、机の前では丹部の怒声と谷場の冷静な返しが続いていた。
「ほら、次の漢字は何回か書いてるぞ」
「うっせーよ!覚えてねえよ!」
「とりあえず書け。覚えてなくても見りゃいいだろ」
「知るかよ!そもそもこんな古くせえ文字を、最新の電子機器で表示させんなよ!」
「いやもう、その文句は意味わかんねえわ・・・。ほら、次の文字いけ」
「こんな細かい字、人間が書く字じゃねえよ!」
「だからそれも何回か書いてるって、ほら」
もはやよく分からない方向まで広がっている丹部の文句を、谷場は華麗に受け流しながら学校の先生のごとく続けさせる。
そのかいあってか、丹部の手は着実に動いていき、後2、3行、というところまで来た。
「あと5ふーん」
海老澤が気だるげに声をかけると、丹部は舌打ちしながらも手を動かすスピードをあげた。残り3分、2分と時間が減っていく中、丹部はようやく無言になり文字を書き続ける。
後1分の言葉を聞く前に丹部が叫んだ。
「終わった!」
「ほう。・・・字汚ねえな」
海老澤が若干眉をひそめながらも、丹部が書いた紙を見てため息交じりに言った。
「・・・まあいいか。クリアー」
「あー、くそが。もうやんねえぞ」
「じゃあ次の指令なんだけど・・・」
「やんねえって言ってんだろ!那須に言え!」
丹部は机を叩いて立ち上がりながら叫ぶと、倉庫の奥へ消えていった。谷場はその後ろ姿を苦笑いで眺めたあと、少し辛そうにその場に座り込んだ。
「辛いか」
「お前らのせいでな」
谷場が少し睨み付けながら言うと、海老澤はその視線を受け流してスマホを開いた。と、谷場は何かに気がついたように辺りを見渡したあと、海老澤の後ろで突っ立っている畑中へ声をかける。
「南雲は?」
「・・・ひ、独りになりたい、らしいよ」
畑中が戸惑いながら答えると、海老澤も画面から顔を上げずに頷いた。
「ああ。話し合ったけど、そう言ってたから放置してきた」
「ふーん・・・」
谷場はどこか腑に落ちない表情を見せた。と、同時に彼のスマホが震える。その音を聞きながら、海老澤がスマホを閉じた。
「次の指令メール。体力なかろうがもう手加減はしねえよ」
そんな海老澤の冷たい声を聞き流しながら、谷場はメールを開く。
『16時、海老澤から丹部、那須、谷場への指令。1時間で腹筋を合計500回以上やること。詳しくは集合場所にて。
続いて、南雲からの指令。上記指令で回数が2番目だった人間は、罰としてさらに腕立て50回。以上』
メールを読んだ谷場が、舌打ちをしながら海老澤を睨み付けた。
「500って・・・」
「20分で60回、それを3セットで180回。さらにそれを3人で540回。余裕だろ」
「女子もいるんだぞ」
「その分丹部が体力余ってんだろ。ずっと座ってたし」
「お前・・・。しかも腕立てって」
睨み付ける谷場の視線を、海老澤は余裕そうな笑みで受け流した。
「勝負できるほうが、張り合いあるだろ?回数調整しすぎると、今度は500回が終わらねえけどな」
谷場は無言のまま疲れたように立ち上がると、ちょうどやってきた那須が谷場に駆け寄った。
「谷場さん、大丈夫・・・?」
「ああ、俺は平気だ。大丈夫」
気丈にそう答える谷場だが、すでに足元は疲労で若干ふらついており、那須が体を支えながら海老澤を睨みつけた。
と、戻ってきた丹部が、勢いよく海老澤に詰め寄ってスーツの襟もとに手をかけた。
「てめえいい度胸だな、偉そうに指令出しやがってよ」
「1時間座っていたし、いい運動だろ?」
丹部が手に力を込めた瞬間、谷場が鋭い声を出した。
「丹部、やめろ」
「はあ?こいつが元凶なんだぜ。こいつさえボコせば終わりだし」
「それでもやめろ。まだクリアできるお題なだけましだ」
「俺をボコすのはいいが、まだ指令できるということをお忘れなく。あと、あんま暴れると体力なくなるぞ」
淡々とした海老澤の言葉に、丹部はチッと舌打ちをして、乱暴に手を離した。海老澤が余っている敷布団を指さして言う。
「とはいえコンクリの床に直に寝るのは良くないし、あれを敷いてやればいい。後各自、声出して数えながらやれ。見てるからごまかしはなしだ」
「っああ?てっめえ何偉そうに・・・」
「丹部!」
谷場が大声で丹部の言葉をかき消すと、丹部は谷場の顔を鋭く睨みつけた。それを見ていた畑中がニヤっと歪んだ笑みを浮かべる。
それでも谷場は動じずに、黙って敷布団を床に敷き始める。那須も真似して谷場の隣に布団を並べた。
「丹部、さっさと終わらすぞ」
「はあ?なんでこいつはっ倒さねえんだよ。しかも2人だし、こっちは3人。余裕だろ」
「指令クリアすんのが先だ。喧嘩は体力余ってたら」
「・・・くそがよ!くそなことしかねえ!」
丹部はイラついたように敷布団をぶん投げると、谷場と那須の顔を睨みつけながら腹筋の構えを取った。
「やりゃいいんだろ!やりゃあ!」
「そう、やればいい」
丹部は舌打ち一つすると、それなりの速度で数えながら腹筋を始めた。那須と谷場もすぐに始め、比較的ゆっくり数えながらも回数を重ねていく。
最初快調に飛ばしていた丹部だったが、40を超えたあたりで声と表情から余裕が消えた。続いて那須も20回あたりから苦しげな表情を浮かべ始め、呼吸が詰まり始める。谷場も声をかすれさせながら、なんとか30回まで回数を重ねた。
最初に動きを止めたのは那須だった。なんとか40回を数えたところで、布団に倒れこむ。
「疲れた・・・」
「おう、無理せず休め。時間はあるからな。・・・47、48」
谷場が数えながら声をかけると、那須は少し悔しそうな顔で頷いた。
一方、丹部は80回まで数えたところで、大声を上げながら寝っ転がる。
「あー!くっそ、っざけんな、くそが・・・」
谷場も60回で布団に倒れこんだ。ぜーはーと荒い呼吸をしながらも、海老澤を憎悪のこもった目で見つめる。海老澤は無表情で谷場の顔を見つめ返した。
「俺を睨んだところで、回数は軽くなんねえよ」
「その、余裕そうな顔が、むかつくんだよ・・・」
荒い呼吸とともに谷場が吐き出した言葉に対し、海老澤はちょっとだけ笑みを浮かべた。それは、この状況を心の底から楽しんでいるような笑みだった。
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「褒めて、ねえよ、くそ・・・」
言葉に一切の余裕を見せず答える谷場の横で、那須が腹筋を再開した。彼女の額から汗が流れ落ちる。それを見た谷場は少し唇を噛みしめ、自分自身の身体を見つめるように視線を下に落とした後、大きく息を吐いて同じように腹筋を再開した。
丹部はお腹を抑え、黙り込んだまましばらく天井を見ていたが、やがて歯を食いしばりながらまた身体を動かし始める。
苦しみながらも腹筋を続ける3人を見て、海老澤は面白そうに目を細めた。
「根性あるなあ。な、畑中」
「ほ、ほんと。頑張ってる」
畑中もニコニコしながら答える。
3人は休憩しては再開を繰り返し、最初に丹部が160回を超えた。大きく息をしながら、丹部は海老澤のほうへ顔を向ける。
「・・・後、何分だよ」
「あとー、20分。丹部が160、谷場が120、那須が110」
「だ、だからあとー・・・。110回、だね」
素早く計算した畑中が言うと、丹部は大きく息をしながら谷場と那須のほうへ顔を向けた。2人とも限界が近いらしく、1回腹筋しては倒れこみ、というのを繰り返している。
丹部は呼吸を整えた後、谷場と那須に怒鳴るように声をかける。
「おい、谷場、那須!」
「・・・んだよ」
苦しげな大きな息とともに谷場が返事をすると、丹部は少し黙った後、再び怒った口調で言う。
「貸しだからな。次別の指令来たら、お前らが率先して人柱になれよ!」
そう吐き捨てると、丹部は再びかなりのペースで腹筋を再開した。呼吸は荒く声は途切れがちだが、それでもスピードは緩めない。
谷場と那須も負けじと再開するが、丹部は2人よりもはるかに速いペースで回数を重ねていく。
「218、219・・・後何回だよ!」
「那須が122、谷場が139だから・・・。あと20回?」
「・・・あー!海老澤てめえ死ね!ついでに畑中も!ニヤニヤ眺めやがって!・・・224!」
谷場と那須が息を切らせて寝っ転がりながら、丹部の方へ顔を向ける。丹部は辛そうに顔を歪めながらも、声を張り上げて根性だけで体を起こしていく。
「235、236・・・。237!238!239!」
そう勢いよく叫ぶと、丹部はバタンと倒れこみ動きを止めた。呼吸は荒く、汗で髪の毛が額に張り付いているが、それでも目は光を失わずに海老澤を睨みつけた。
海老澤は時間を確認してから、どこか驚きをもって結果を言う。
「那須122、谷場139、丹部239。・・・驚いたな。丹部がここまで頑張るとは」
「・・・っせえ、俺は、ゲームを、クリアしに、来たんだよ。こんくらいで、お前らなんかに、渡さねえ・・・」
途切れ途切れながらも、どこか笑みを含ませながら丹部が言う。海老澤はふうん、と興味なさげに相槌を打った後、谷場に目を向けた。
「じゃあ2位は罰ゲームだな。腕立て50回」
「・・・時間制限は」
「別にねえけど、うだうだしてると次の指令に響くぞ。後13分」
海老澤が淡々と言う横で、那須が申し訳なさそうに言う。
「谷場さん、ごめん。私頑張れなくて・・・」
「いい、俺のほうが体力もあるし、筋力も、ある・・・」
谷場が淡々と言うと、谷場は汗をかいた額を袖で拭い、大きく息を吐きながら腕立てを始めた。
15回を過ぎたあたりで腕がプルプルと震えだし、やがて、ガッという声とともに崩れ落ちた。それでも少し呼吸を整えると、歯を食いしばって再び体を持ち上げて、腕立てを再開する。汗が髪の毛を伝い、ぽたぽたと布団の上に流れ落ちる。
と、ようやく復活したらしい丹部が、海老澤の方を睨みつけた。
「・・・それ、回数分けらんねえのか」
「分ける?どういう意味だ」
「・・・こいつの分量を俺が肩代わりするから、その分減らせっつってんだよ」
丹部の言葉を聞いた谷場が、腕立てを中断して丹部の顔を見た。海老澤は、面白いものを見た、といった表情で、口角を上げながら尋ねる。
「ほう、どういう風の吹き回しだ?」
「いいだろ、別に。もう後の指令は、全部こいつらに回すからな」
「まあそんなにやりたいなら、特別だ。丹部がやった回数の半分を、谷場の負担するべき回数から引こうか」
「・・・は?半分?」
丹部がぎっと海老澤を睨む。その視線すら面白いようで、海老澤は笑みを消さないまま答えた。
「半分。今21回だから、29回分助けるなら58回」
「・・・丹部、無理しなくていい、これは俺が」
「・・・黙ってろおっさん!何やるかは俺が決めるんだよ!」
丹部はそう叫ぶと、腕立てをはじめた。流れ落ちる汗が目に入るのも気にせずに、大声で数えながら続ける。
「16!17!・・・谷場もてめえやれや!」
「あ、ああ・・・」
30回を超えたところで、疲れた様子で丹部が膝をついた。
谷場はゆっくりと、しかし確実に身体を持ち上げる。
「丹部が32回だから、谷場は34回やればいい」
「ああ。・・・30、31」
谷場は歯を食いしばりながら、最後の力を振り絞るように身体を持ち上げる。
「33・・・。34!」
倒れこみながらも海老澤を見ると、彼は深く頷いて拍手を送った。
「素晴らしい根性だ。お疲れ。じゃ、また数分後に会おうか」
飄々とした声で言うと海老澤は倉庫の奥へ消えていった。ただただ眺めていただけだった畑中も後ろに続く。
谷場はしばしぐったりと倒れこんでいたが、やがて上半身を起こすと丹部に顔を向けた。
「丹部、どうしたんだ、急に」
「・・・どうもこうもねえよ。谷場てめえ、そんな立派な体格してるくせに、へたれてんじゃ、ねえよ・・・」
丹部は言葉を途切れさせながらも、憎まれ口を叩いた。と、那須が丹部を軽く睨みながら言う。
「丹部が来ないから、谷場さんが一番大変な奴、全部引き受けてくれたんだよ。そこに感謝せずに貸しとか、ふざけんな」
喧嘩腰の那須を、谷場は声だけで制した。
「那須、いい。・・・2人とも、ありがとな」
「・・・感謝する暇、あるなら、体鍛えておけよ」
丹部は目線も合わせずに淡々と言うと、ぐだっと布団に横になった。那須はまだ不満そうにそんな丹部を睨んだが、谷場が小声で諫める。
「いい、ここでやりあっても体力消耗するだけだ。それに、助かったのは事実だし」
「だけど、丹部がもうちょい分担してたら、私たちももう少し楽に・・・」
「過ぎたことを言っても仕方ねえ。・・・それより、体は大丈夫か」
「・・・今は大丈夫。明日は筋肉痛かもね」
那須は無表情で言い放つと、丹部と同じようにくたっと横になった。彼女も汗で髪の毛が乱れ、頬に湿った黒髪が張り付く。谷場も会話を打ち切り、喘ぐように息を大きく吸い込みながら、仰向けに寝っ転がった。しばし3人の呼吸音だけが場を満たす。
その静寂を破るように、それぞれのスマホがメールの着信を知らせた。気だるげにしながらも、谷場が手を伸ばしてスマホを取り、メールを開く。
『17時、南雲から丹部、那須、谷場への指令。体力の一番残っている代表者1人を決め、3人で倉庫入り口へ来い。詳細はそこで話す。以上』
文章を読み上げた谷場が、怒気をはらんだ声で呟く。
「・・・誰も、体力なんて残ってねえよ、くそ」
「俺、もう動けねえよ」
丹部が吐き出した息に乗せるように言葉を出す。と、那須がばっと上半身を起こした。
「なら私が・・・」
「・・・一番ダメだ。まだ俺か丹部が行ったほうがいい」
「でも、2人が写経してた最中、私休んでいたし・・・」
「いや、俺が行く」
谷場はそう言って起き上がってから、大きくふらついた。隣にいた那須がとっさに支えると、谷場は弱々しい笑みを浮かべ、軽くお礼を言ってから離れる。それでもまだ、足取りは少しおぼつかない。
その谷場の動きに、那須は少し泣きそうになりながら口を開く。
「谷場さん、無理だよ・・・。だって、ずっと大変なことばっかしてたし」
「俺だってまだ若いし、横になってたから大丈夫だ。あいつらのことだし、無茶苦茶なことやってくる可能性がある。那須に無理させられねえよ」
谷場が無理やり笑顔を見せて歩き出すと、那須は少し泣きそうになりながら追いかけた。そんな2人を見つめていた丹部は、大きなため息とともに舌打ちをする。
「いちゃついてんじゃねえよ・・・」
そうぶつくさ言いながら緩慢な動作で起き上がり、2人の背中をゆっくり追いかけた。
一方、畑中はそわそわ落ち着きのない様子のまま、無言でスマホを見る海老澤におどおどと声をかけた。
「え、海老澤さん。本当に、南雲くん、って・・・」
「ほっといていい。あいつが選んだ行動だ」
「そ、そうだけど・・・」
「もう来るぞ」
海老澤がそう言った瞬間、谷場を先頭に那須、丹部と歩いてきた。全員、表情にも動きにも疲れを滲ませているが、それでも谷場は自分を大きく見せるように背筋を伸ばすと、海老澤を正面から睨み付けた。
「俺が代表者だ」
「14時からずっとやってるのに、元気なこった」
海老澤が軽く笑いながら言うと、谷場はそれには応じず、2人の顔を順繰りに見ながら言った。
「で、何をするんだ」
「慌てんなって、ほれ」
海老澤が何かを続けて2つ投げた。谷場がそれを受け止めて物を認識した瞬間、海老澤を睨み付ける。
「・・・何の冗談だ?」
「別に?ただの錠前だけど?」
谷場の手には、すでに鍵が開けられた状態の南京錠が2つあった。
状況を理解しきれていない那須はどこか不安そうに谷場を見つめ、丹部は舌打ちしながら海老澤たちを睨む。だが、そんな鋭い視線をも面白そうに受け止めながら、海老澤が薄く笑って言う。
「代表者以外の2人はそれをつけてもらう」
「・・・腰にでもぶらさげておけばいいのか?」
「分かって聞いてるでしょ?谷場さん」
海老澤の軽い言葉に、谷場は少しだけ俯いた。
と、状況を把握したらしい丹部が急に飛び出し、海老澤へ殴りかかった。それでも体力を消耗している彼の動きは鈍く、海老澤は何とか避けると丹部の顔を睨んだ。
「なんだ、まだ元気じゃねえか。こいつが代表のほうがいいんじゃねえの?」
「っるせえ、死ね!」
疲れでよろけながらも、丹部はまだ敵意を露にして拳を握る。と、谷場が大声で制止した。
「おい、丹部!やめろ!」
「何でだよ!」
そう返した丹部は、再び勢いよく海老澤へ殴りかかったが、海老澤は余裕そうにしゃがんで避けた。勢い余ってふらつきながらも、まだ諦めずに拳を握った丹部の腕を、谷場ががっしり掴んだ。
「丹部、やめとけ」
「んだよおっさん、俺に指図すんな!」
「違う。お前メール読んだか。あの指令は南雲から出ていた。・・・つまり、こいつら2人とも、まだ指令出せるんだよ」
「じゃあ、指令出す前に殺す!」
「・・・その体でか?もう体力も限界だろ。その状態で2人だぞ」
谷場が静かに言うと、丹部は握っていた拳を開き、海老澤たちを睨み付けた。と、その力が抜けた一瞬をつき、谷場は丹部の両腕を掴んで前に持っていくと、手首の金具へ南京錠を引っかけパチンと止めた。
丹部は少し呆然と手首を眺めたが、状況を理解した瞬間勢いよく谷場のほうへ振り向き、彼の顔を睨み付けた。
「どういうことだてめえ」
谷場はそれを、完全な無表情で受け流した。丹部はベルトをはずそうと腕を動かすが、鍵もベルトも一切外れる気配はなく、苦しそうに顔を歪めた。そんな丹部の動きを気にも留めず、谷場は海老澤の顔を静かに見つめる。
「こういうことだろ?」
「ああ。もう1つ残ってるだろ?」
その言葉に、谷場は後ろで立っている那須へ顔を向けた。彼女は怯えるように後ずさりながら、海老澤に向かって叫ぶ。
「どういうこと!?」
「どうと言われてもなあ」
海老澤が軽く笑みを浮かべながら言うと、那須は谷場へ視線を向けた。
「谷場さんも!鍵は相手が持ってるんだよ!?」
「・・・すまん」
「すまんじゃなくて!」
そういうと那須は走りだし、勢いをつけて海老澤に体をぶつける。海老澤はそれを受け止めると、那須から繰り出されるパンチを受け流してから、谷場へ声をかけた。
「説明してやれよ。錯乱してんぞ」
「してない!全部お前のせいだろうが!」
那須が腹部分を目掛け拳を振るうが、海老澤はそれを難なく掴むと、そのまま相手の力を利用してぐっと引っ張った。引っ張られた那須はバランスを崩すが、そこをすかさず海老澤が受け止めた。
「ほら、危ないだろ?戻れって」
「危なくしてんのはお前だろ!」
那須はそう叫ぶが、谷場がそんな那須の腕を掴んで海老澤から引き剥がす。
「やめとけって。分かるだろ、状況」
「・・・んなこと言ったって」
息を切らせながら那須が呟くが、谷場はゆっくり首を横に振った。那須は諦めきれない様子で唇を噛むと、キッと海老澤を睨み付けた。
「じゃあ先に教えて。何するの」
「聞いたところで、那須には関係ねえよ?」
「いいから教えて」
那須が睨みながら言うと、海老澤は少し頭をかいたあと、畑中とアイコンタクトを取ってから倉庫の奥へ来た。
そしてすぐ、2人がかりでずるずると何かを引っ張って戻ってきた。谷場はそれを見て、表情を凍りつかせる。
「何だよそれ・・・」
それは、巨大な鉄製のホイールだった。紐がくくりつけられていて、動かせるようになっている。海老澤は手をひとつはたいて紐を置くと、谷場へ静かな視線を向けた。
「これを引っ張って、歩いてもらう。重さは40キロくらいはある」
「・・・これを?」
谷場が視線をホイールに固定しながら呆然と呟いたが、海老澤は肩を軽くすくめると、那須のほうへ顔を向けた。
「教えたぞ」
「何でこんな追い討ちをかけるような・・・」
悲しそうに那須が呟くが、海老澤は答えずに谷場に視線を戻した。
「とりあえずそれ。早く進めないと時間なくなるよ」
「・・・くそ。すまん、那須」
谷場が軽く俯きながら言うと、那須は無言で両手を前に出した。谷場は少し震えながらも那須の金具に南京錠をかけ両手を固定すると、彼女は少し俯いたまま丹部の隣に立った。
すでに丹部は体力が尽きているようで、床にあぐらをかいて、海老澤を睨み付けながら座っている。
「・・・これでいいか」
谷場が静かに問いかけると、海老澤は笑って頷いた。
「ああ、それでいい。で、クリアする目標だが、2つ用意したんだ」
「2つ?」
谷場が聞き返すと、海老澤の後ろから畑中が顔を出して答える。
「うん。1つ目が、片道だけ引っ張ればクリア。で、でも、そこの2人の鍵は3時間外さない。で、2つ目が往復すること。こ、これは終わった瞬間全部クリアで、鍵も外す」
「制限時間は18時まで。選んだら変更不可な。往復選んだけど疲れたから片道だけ、とかはナシ」
その説明を聞いた谷場は、手を強く握りながら那須と丹部へ視線を向けた。
丹部は視線を床に向けたまま、谷場と一切視線を合わせようとしかった。一方の那須は少し不安げにしながらも、谷場と目が合うと、精一杯の明るい声で言う。
「谷場さん、無理しないで。私平気だから」
その声を聞いた谷場は、すぐに海老澤へ向き直った。その顔には、諦めという言葉は微塵もなかった。
「往復でいく」
「・・・まだそんな元気残ってるんだ」
そう言いながら、海老澤はスマホの時計を確認した。時刻は17:18と表示されている。そのスマホをしまうと、海老澤はホイールにつけた紐を谷場へ手渡した。
「畑中がチェック要員で伴走する。この紐を握ったまま向こうの壁にタッチして、こっちまで戻って壁タッチで終わり。途中トイレに行こうが水飲もうが、寝っ転がろうが自由にしていい。・・・質問は?」
「ない」
谷場はそう言い捨てると、右手で紐をつかみ、40キロ越えのホイールを引きずりながらコンクリートの上を一歩ずつ歩き始めた。文句も何も言わず、前をひたすら見つめ、足を進めていく。
数メートルも進むと、谷場の口から荒い呼吸が漏れ始め、前に進むスピードが遅くなった。それでも足を止めることなく、ガリガリという耳障りな音を立てながら歩いていく。
途中紐を持ち替えながらも、部屋の半分まで来た。すでにかなり息は上がっており、谷場の額から汗が吹き出している。それでも弱音を吐くことなく、時折片手で汗を拭いながら、ただひたすら前を見据え歯を食いしばって先へ進む。
しばらく歩き、折り返し地点である壁が見えてきた時、初めて谷場は足を止めた。ゼーハーと大きく呼吸をしながら辛そうに膝に手を当てる。と、隣で歩いていた畑中が、ニヤつきながら声をかけた。
「お、げ、限界?」
谷場はそんな戯れ言には応えず、深呼吸して呼吸を整えると視線を上げ、再び前に進み出した。
すでに汗は筋となって顎からポタポタと垂れ落ち、コンクリートの床にシミを作る。それでもペースは落とさず、順調に歩を進めていく。
谷場は歯を食いしばりながら折り返しの壁をタッチし、そのまま疲れたように寄りかかってしまった。畑中が嬉しそうな声で言う。
「は、半分だね。今17時、37分」
37分、と谷場は大きな息を吐き出しながら呟くと、鬱陶しそうに汗で張り付いた髪の毛をかきあげて身体を起こし、来た道を戻り始めた。荒く大きな呼吸音と、コンクリートとホイールが擦れる音を響かせながらゆっくり歩いていく。
と、ブチッという音と共に、谷場が握っていた紐が切れた。勢いで谷場はつんのめるが、地面に倒れることは何とか回避して、呆然と切れた紐を見る。が、谷場はすぐに立て直し、無表情で地面に切れ端を捨てると、短くなった紐を握って再び歩き始めた。
すでに手の平は摩擦で真っ赤で、紐を頻繁に持ち替え、時折立ち止まって呼吸を整えながらも、少しずつ、着実に歩を進めていく。
「あ、あと10分」
畑中がそう告げたときの場所は、ちょうど倉庫の真ん中くらい。谷場は苦痛で表情を歪めながらも、くそが、と呟いてから紐を両手で握り、スピードを上げた。
汗は滝のように流れ落ち、地面に軌跡を残していく。もう汗を拭うことすら体力の浪費でしかなく、足をひたすらに動かす。手は痺れもう紐の感覚もない。残っているのは、最後まで諦めないという意志だけだった。その意志を原動力に進んでいく。
と、ようやく入り口で待っている3人の姿が見えてきた。
「あと、3分」
畑中の無情なカウントダウンも聞き流し、谷場はただ前で待つ3人の元へ歩いていく。
「あと2分」
那須の心配そうな顔も、丹部の不安と苛立ちが入り交じった顔も、海老澤のぶっ飛ばしたいほど余裕そうな顔も、全てがよく見える位置まで近づいていた。
もう聴覚は麻痺し、コンクリートとホイールが擦れる音が、ぐわんぐわんとエコーのように脳みそを揺らす。額から流れ落ちた汗が目に入り、3人の顔をぼやけさせ、視界を奪う。口の中はすでにカラカラで、でも咳をする余力すら残っておらず、ただただ空気を喘ぐように吸い込んでいく。
「あと1分」
もうその言葉すらエコーのように響く雑音にかき消され、自分の身体ではないような、ぼんやりとした感覚のまま歩き続ける。もう足の痛みも手の痛みも、頂点を通りすぎてどこか遠くへ消し飛んでしまったかのようで。
だから谷場は速度を上げた。自分の身体ではない感覚のまま。
「谷場さん!」
那須が泣きそうな顔で叫んだ。丹部は黙ったまま、不安の色を濃くしながら谷場の姿を見つめる。
最後の力を振り絞る谷場の隣で、畑中が変わらないトーンで言う。
「あ、あと30秒」
「谷場さん!もう少し!」
もう体は言うことを聞いてくれない。足は止まるし、手の皮は剥けているし、目は痛みで開かない。肺は空気を入れ替えるのに精いっぱいで、声なんて出せる余裕はない。
それでも。
「10秒。9、8・・・」
谷場の足がもつれ、ふらっと倒れこんだ。それでも右手に握った紐は離さず、汗で開かない目を無理やりこじ開けて、腕の力だけでわずかに進みながら前を見る。そして、畑中のカウントダウンを聞きながら、谷場は腕を伸ばした。
その手は、ぎりぎり壁に届いていた。ゴールであるコンクリートの壁に。
全員が一瞬言葉を失い、ただ谷場が荒い呼吸音だけを響かせる。その後、海老澤が驚きをもって呟いた。
「・・・ゴール」
「谷場さん!」
那須が倒れ伏した谷場の元へ駆け寄った。谷場は大きく呼吸を繰り返すのみで、反応すら返さない。那須が声をかけ続ける中、海老澤が畑中に鍵を渡しながら言った。
「正直、クリアするとは思ってなかった」
「どこぞの根性ないナヨナヨ人間とはちげーんだよ、谷場は」
丹部が鍵を開けてもらいながら、海老澤へ鋭い視線とともに言葉を放つ。
那須は何か言いたげに丹部に視線を向けたが、結局何も言わないまま鍵を開けてもらうと、ようやく自由になった両手で谷場の身体をさすった。
「大丈夫?体」
「・・・ああ」
谷場が吐息とともにようやく声を出した。その声を聞いた那須が、少し安心した表情を浮かべる。
と、その場にいる5人の携帯が一斉に震えた。同時に、天井から歪んだ声が降ってくる。
「新しいゲームは楽しんでもらえたかな?では本日はこれにて終了。現在出ている指令もすべて無効となる。ではまた明日、10時に会おう」
終了を告げる合図だった。那須が安心したように谷場をさすりながら涙を浮かべた。谷場も安堵したように深く息を吐きだし、微かな声で言う。
「・・・しばらく、このままで、いたい」
「布団持ってくる?」
「・・・頼む」
那須が立ち上がると同時に、丹部も立ち上がった。
「俺も手伝う」
「・・・どういう風の吹き回し?」
「別にいいだろうがよ。嫌なら手伝わねえけど、お前のその体で、ここまでスムーズに持ってこれんの?」
「・・・じゃあ頼むわ」
そう言い合いながら消えていく2人を見送ってから、海老澤が谷場を見下ろした。
「・・・なんでそこまで頑張るんだ?」
「お前が、やらせたんだろ・・・」
「クリアできるとは思ってなかった。せいぜい半分で諦めるかと」
「読みが、甘かったな」
ようやく余裕が出てきたのか、谷場がうっすらと笑みを浮かべた。
と、丹部が敷布団を、那須が掛布団を持って戻ってきた。谷場の隣に布団を敷き、転がすようにして布団の上に乗せる。谷場がうめき声をあげつつも、2人にお礼するように軽く手を挙げた。それを眺めてから、海老澤は畑中を連れその場から離れ、倉庫の隅へ向かう。
海老澤と畑中、2人きりになった静かな空間で、海老澤は畑中に静かな口調で言う。
「畑中、すまなかった」
「だ、大丈夫。おれ、楽しかったし」
「・・・すまんな。とりあえず、休憩してからゆっくり考えようか」
「う、うん。じゃあ、おれ、いつもの場所にいるね」
「・・・ああ」
南雲は1人、膝を抱えるようにして部屋の隅っこに座り込んでいた。
窓から差し込む日差しが段々傾いていく以外、何も変化がない室内で、1人何もせずにただただ俯き、まるで置物になったかのように微動だにしない。と、そんな静寂をガチャリという音が破った。
南雲が少し赤い目を上げると、海老澤がペットボトルの水を片手に立っていた。隅に座っている南雲へ水を差し出しながら、冷たい目で言う。
「今日のゲームは全部終わった。・・・俺らの負けだ」
「・・・そう」
南雲は大して興味もなさそうに呟いた。彼は水に手を伸ばすこともなく、膝を抱え込んだ姿勢から戻ろうとしない。海老澤は差し出した水の行き場をなくし、少し宙を彷徨わせてから、南雲の隣に置いた。
そのまま、お互い何も言わない静寂な時間が流れる。南雲は不機嫌そうに口を真一文字に閉じ、泣いた跡がある少し赤い目を海老澤から逸らし、壁を見つめ続ける。海老澤は何の感情も見せずに、ただ立ったまま南雲を静かに見下ろしていた。
しばらくして、南雲がぽつりと言葉を発した。
「・・・わかんなかった」
「何が?」
「おれがここにいる理由も、あんなことをやらなきゃいけない理由も」
南雲が目線を伏せながら言うと、海老澤は呆れたように腰に手を当てて答える。
「そんないちいち筋道立てて考えてるのか?お前がご飯を食べる理由も、寝る理由も、言葉を発する理由も、そして呼吸をする理由も、全部説明がいるのか?」
「それは・・・。全部生きるために」
「その理由じゃダメなのか?生きるために、やる」
海老澤が静かに言うと、南雲は静かに目線を下げ、膝を抱えて丸まった。2人の間に、再びの静寂が訪れた。全ての時が止まったかのように、部屋の中が静まり返る。
と、海老澤が大きく息を吐きだしながら、南雲へ手を伸ばした。
「とりあえず、ここにずっといるわけにもいかないだろ」
「・・・何でおれに構うんだよ」
南雲は手を取らずに、海老澤の顔へ冷たい目線を向けた。海老澤は手を下ろしてから、静かな落ち着いたトーンで答える。
「・・・決まってるだろ、チームだからだ」
「・・・おれは、海老澤と組みたいとは言ってないのに」
南雲はムッとしたように言うが、海老澤は同じトーンのまま語り掛けるように続ける。
「それでもチームメイトになってしまった。なら足並み揃えて、ゴールに向かって一緒に走っていくのが人間だろ」
黙り込んだ2人の間に、その言葉が溶けていく。と、その静けさを、遠慮がちに開いたドアの音がかき消した。
恐る恐る室内に入ってきた畑中が、南雲の姿を見つけると一直線に駆け寄ってきた。
「な、南雲くん!」
「・・・畑中、くん」
畑中は南雲のそばにしゃがみこむと、安堵した表情で一気に話し始めた。
「い、いなくて、気になっていたんだ。よかった。今日、ごめん、おれ悪かった。だから、ね、夕食、夕食食べよう。キッチンが空いたところなんだ、今」
無言のまま、畑中の顔を困惑した表情で見つめる南雲に、海老澤が淡々とした声をかける。
「こう言ってるし、理由なんて後で探せばいい。とりあえず行こう」
「・・・行こうって、海老澤さんが閉じ込めたくせに」
南雲が不機嫌そうに呟くと、畑中が軽く目を見開きながら海老澤の顔を見上げた。
「と、閉じ込めた、の?」
「選択肢は与えたぜ。与えたうえで一緒にやりたくないっていうから、邪魔させないためにな」
「邪魔・・・」
畑中が呟いた。海老澤は動揺する様子もなく、あくまで淡々と、自分の行動は正しかったといわんばかりの態度で続ける。
「思い出してみろ、この部屋での南雲の態度。畑中もお前」
「・・・それは、そ、そうだけど」
畑中が戸惑ったように言うと、南雲はプイと顔を背けた。それを見て、畑中が慌てて付け加える。
「で、でも、もう終わったことだから。それに、いくらカッとなっていたとはいえ、スタンガン撃ったおれが悪かったし・・・。ごめんね、だから、ご飯食べよう?」
言葉に応じることなく、俯いたまま表情を見せない南雲へ、それでも畑中はどこか無邪気な、まるで小さい子供のように語り掛ける。
「ね、何食べようか。肉?魚?お、おれも、ちょっとは手伝えるように、なってるはずだから、一緒につくろうよ」
「・・・うん、そうだね」
南雲は小さい声で雑に相槌を打つと立ち上がり、さっさと部屋を出ていった。畑中が慌てて追いかけようとすると、海老澤が冷たい声で、畑中だけに聞こえる声で言った。
「仲良くするのは良いけど、最悪のことも想定しておけよ」
「最悪?」
「・・・裏切りとか、逃亡とか、自殺とか」
そうならないようにはするけど、と海老澤は小声で付け足した。畑中は一瞬視線を下に向けたが、南雲を追いかけながら小さい声で反論する。
「な、南雲くんは優しいから、そんなことしないもん」
それだけ言うと畑中も部屋を出ていった。
海老澤は、床に置かれたペットボトルを手に持つと、南雲たちが出ていった出口を見つめながら呟いた。
「優しいじゃなくて、弱いだけなんだけどな」
暗闇の中、谷場は布団の上で目を覚ました。どうやらあの後そのまま寝てしまったらしく、すっかり周囲は静まり返っていて、人の気配は一切感じなかった。
起き上がろうとして、身体の至る所が悲鳴を上げる。谷場は顔をしかめながらも起き上がり、足や腕をさすった。
「くっそ、さすがにきついな・・・」
それでもお腹は痛いほど空腹を訴えている。谷場は無理矢理立ち上がると、足を引きずりながら台所へ向かった。
と、暗い倉庫の中、台所の蛍光灯の近くで何やら作業している人影が目に入り、谷場が思わず表情を曇らせた。人影も足音で気が付いたのか、谷場の方を振り返り口を開く。
「起きたのか」
「海老澤、てめえ・・・」
谷場が敵意をむき出しにして答えると、海老澤は軽く苦笑いを浮かべながら応じる。
「すまなかった、俺らも勝ちたいって必死だったんだよ」
「すまなかったで済むほど甘くねえよ、第一、全身痛いんだけど」
「悪い悪い。お詫びと言ってはなんだが、飯作ろうと思ってな。その体じゃ、皿持つのもきついだろ?」
海老澤に言われ、谷場は改めて自身の身体を確認する。皮が剥け真っ赤になった手のひら、悲鳴を上げる二の腕、肩、太もも、ふくらはぎ。そして感覚のない足先。
谷場は適当な椅子に腰かけながら、ため息交じりに応じる。
「頼むわ。変なもん入れんなよ」
「入れねえよ。何ならずっと見てればいい。何食う?」
「・・・肉」
単語で答えながら、谷場はキッチンの横に椅子を移動させた。
海老澤は手を止めて考え込むが、すぐに材料を取り出すと慣れた手つきで調理を始めた。その様子を眺めながら、谷場が話しかける。
「・・・職業、調理師とかなのか?」
「いや?趣味なだけだ。ああ、一応免許は持ってるけど」
「ふーん・・・」
谷場はつまらなさそうに会話を打ち切った。と、海老澤は玉ねぎを切りながら、静かに谷場へ話しかけた。
「そういえば、谷場も既婚者だったんだよな」
「・・・も?」
「ああ、俺も離婚した」
海老澤がなんとはなしに言うと、谷場は少しだけ興味を持ったようで、料理をする海老澤の顔を見上げながら尋ねる。
「理由は?」
「・・・まあ、簡単に言えば性格の不一致だ」
「ずいぶんありきたりで」
嫌味をのせて谷場が言うが、海老澤はその嫌味に答えることはなく、鍋で豚肉を炒め始めた。ジューという料理音が周囲に響く。
と、へらで豚肉を動かしていた海老澤が、真剣な声で谷場に話しかけた。
「谷場」
「何?」
「今日はお前らが勝利したんだよな」
「・・・ああ。クリアメールも届いてた」
玉ねぎを投入しながら、海老澤がゆっくりとしたスピードで言う。
「・・・なあ、明日は俺らに勝たせてくれねえか」
「はあ?というか明日があるのか?」
「分かんねえけど、まだ今日が終了といっただけで、明日は開始日時しか触れてない。失格ならそれなりの言動があるはず」
「・・・だとしても、俺は今日やられたこと全部、忘れられねえんだけど。それを水に流せって言いたいのか?」
谷場が海老澤の横顔を睨みつける。海老澤は鍋に視線を落としたまま、一切谷場のほうに視線を向けず、早口で答えた。
「・・・だよな。そうだよな。すまん、忘れてくれ」
「どうしたんだ?急に。南雲と中身入れ代わったか?」
谷場の言葉には答えず、海老澤は鍋に調味料を入れ、冷凍された白米を電子レンジに入れて解凍する。
そして白米の上に鍋の中身を入れ、最後にゴマと卵を乗っけて谷場の前に置いた。
「スタミナ豚丼。ニンニク入ってるから、歯磨きして寝ろよ」
「・・・いただきます」
谷場は一応手を合わせた後、どんぶりを食べ始めた。
よほどお腹が減っていたのか、すごい勢いでご飯をがっつく谷場を、海老澤は無感情な瞳で眺める。その視線に気づいた谷場が、手を止めて海老澤の顔をめんどくさそうに眺め返しながら、ぶっきらぼうな口調で言う。
「・・・正直1日目からずっと海老澤には世話になってるが、だからと言って勝ち負けをコントロールするのはまた別の話だからな」
「・・・分かってるよ。俺もそこまで馬鹿じゃない」
その後2人の間に会話はなく、ただ谷場がご飯を食べ続ける音が響く。
やがて谷場はどんぶりを置き、海老澤までへ届くようにごちそうさまでした、と言って席を立った。谷場が皿を持つより早く、海老澤が空いたどんぶりを下げる。
「・・・別に片付けくらいやるよ」
「いい、休めよ。見ていて痛々しい」
「こんな身体にしたのはお前だからな」
「ああ、だから責任もって世話してんだろ」
「・・・世話っていうなよ」
谷場は少しイラついたように言うが、海老澤は肩をすくめると、食器洗い用のスポンジを手に取りながら言う。
「おやすみ」
「・・・ああ」
少し足を引きずりながら、谷場は寝床へ戻っていく。
それを海老澤は視界の端で眺めた後、無表情のまま皿を洗い始めた。