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鏡の世界  作者: 現野翔子
序章
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迷子

 筍と土筆を美味しくいただいた翌日は、その対価だと言わんばかりに部屋の掃除をすることになった。明日が入寮日だからだろう。

 それを恙なく終えた午後、やはり落ち着かなくて、そわそわと窓の外を見たり、春休みの宿題を片付ける栄先輩の隣に座ったりしていた。数分の間は私をちらちらと見つつも何も言わなかったけど、気が散るのだろう、とうとうペンを置いた。


「羽衣、入寮は明日。明日以降に、編入生や新入生の入寮は認められてる。早くて明日なんだ。それは分かるよね?」

「別に待ちきれないわけじゃないし。」


 ただ何となくじっとしていられないだけだ。そんなことは私も分かっている。勉強している人の周りでうろうろするのも悪い気はするけど、家の中でまで落ち着きのない妹扱いは少々納得いかない。私のお兄ちゃんはこういう時、理由も聞かずに言い聞かせようとはせず、自分の用事を優先させたい時はその理由や時間まで教えてくれた。

 やはりここは私の家ではない。そんな思いが強くなって、クッションを抱えたまま足をばたつかせた。


「散歩でも行ってきたら?疲れれば嫌でも眠れるから。」

「じゃあそうする。」

「今日、俺は家にいる予定だから、好きなだけ歩いて、好きな時間に帰って来るといいよ。晩ご飯には間に合うように。」


 上着を着て、気が進まないまま外へ出る。生まれた時から見慣れている風景と良く似通っているのに、細部が違うせいで、寂しさが勝る。

 住んでいる人やその影響による変化は多い。数軒隣りのこの家は美優ちゃんの家だ。ここでは見知らぬ人の名字の表札で、飼っていた犬もいない。だけど道の作りなどは変わらない。公園などの違いも、撤去しようかと言われていた遊具が撤去されただけとも言える変化だ。ボール遊び禁止もローラースケート禁止も、人々の考え方が少し変われば立て看板など簡単に撤去できる。

 畑の場所も記憶と同じだ。植わっている物は鏡の向こうでもいつも同じではなかった。周囲の道具なども古くなれば変えていく物だから、見慣れない物ばかりでも別の場所という感覚はない。壊れる時はなぜかいくつも同時に壊れると言って、一度に新品ばかりになるという状況は以前にもあった。

 昨日行った田んぼも見覚えがあった。時期的にまだ田植えが行われていなかっただけで、毎年採りに行く時期と同じ風景だった。田んぼで出会った老人はもちろん見知らぬ人だ。

 さらに進めば、見慣れない場所だ。この田んぼを越えて歩くことを私はしなかった。駅や大きなお店は同じ方向にある。小さな近隣の食料品店も、真っ直ぐ田んぼまで来れば通過することはないけど、田んぼまでの間にある。お父さんやお姉ちゃんならこの辺りも散歩しているかもしれない。

 一人で地図もなく初めての場所に入って帰ってくる自信はない。今までならここで引き返していただろう。帰れば家族が待っていてくれて、次の日でもすぐにでも友人に会えるのだから。しかし今日は不安を抱きつつも、未知の領域に足を踏み出す。歩いた道さえ覚えていれば、一人でも帰れるはずだ。

 お父さんやお姉ちゃんは地図を常に持っていたのだろうか。車に乗る時はお父さんがあらかじめ確認し、乗っている間はお姉ちゃんが助手席で確認していた。歩く時も初めて行く場所の時は二人で地図を見ていた記憶はある。だけどそれを持って行っていた記憶はない。確認すれば覚えられたのかもしれない。

 お母さんやお兄ちゃんはどうしているだろう。とても心配してくれているはずだ。捜索願などを出しているのだろうか。お母さんは私がいなくなった状況をそのまま伝えたのだろうか。家族では共有しているだろうけど、警察や近所の人にも話せるような内容だったとは思えない。いや、似たようなニュースは流れていたため、伝えられたかもしれない。そうだとするなら、私と同じように鏡を抜けてこちらに来た人は他にいるのではないだろうか。

 鏡を抜けて来た人もこちらではきっと知られていない。知られているなら、栄先輩が隠す必要はないからだ。抜けて来た他の人はどうしているのだろう。ここ数年で何人も鏡を抜けたというニュースは何度も聞いた。見間違いか何かだろうと聞き流していたけど、この身を以て体験した今ならあれは事実だと分かる。


 陽が傾き始めていた。もうそろそろ帰ろうと振り返るけど、住宅や駄菓子屋、雑貨屋などが並ぶ風景には見覚えがない。考え事をしながら歩いたから道順を全く覚えていない。そんなに複雑な道を通って来てはいないはずだと来た方向に戻ってみる。

 体感で数分歩けば、三叉路だ。どちらから来たのだろう。こういう時、今までは携帯電話でお母さんに道を教えてもらっていた。お兄ちゃんやお父さんが家にいる時なら迎えに来てくれた。だけど今、家に家族はいない。携帯電話も持っていないため、栄先輩に連絡を入れることもできない。自力で帰るしかないのだ。

 こっちで合っているのだろうか。そう不安になりつつ、直観を頼りに歩いて行く。何度も分かれ道を勘に頼り、家に近づいているのかさえ分からない。方位磁石も地図も持っていない今、自分がどこにいて、どこに向かって歩いているのかを判断する術もなかった。


 一向に見覚えのある風景にならない。もう陽は完全に沈んでいる。街灯のおかげで真っ暗ではないけど、それでも暗いことには変わりなく、不安感を煽られる。中学校の帰り道でさえ友達と一緒だったから、暗い時間に一人で歩いた経験なんて数えるほどしかない。

 夕食までに帰るという約束は守れなさそうだ。暗ければ周りの風景はさらに分かりにくくなる。きちんと帰り着けるだろうか。外を歩いている人でもいれば道を聞けるけど、知らない家のインターフォンを押す勇気はない。お巡りさんがいれば、声をかけられるだろうか。駅でもスーパーでも送ってもらえれば、そこからなら家に帰れる。その前に補導だろうか。

 きょろきょろと見回しながら歩いても、全てが知らないものだ。たまにすれ違う車もただ通り過ぎるだけで、声をかけてくれることはない。鏡の向こうの見知った人たちなら、私がこんな時間に一人で出歩いているなんて、と様子を気にしてくれるけど、ただの歩行者、障害物として避けるだけ。

 上着の前の釦を留めているのに体が寒い。手足が冷える。帰っても、ここには温めてくれる人なんていない。寒かったでしょ、先にお風呂で温まりなさい、と言ってくれる人もいない。私はこの鏡の中に、たった一人で閉じ込められている。頼れるのも相談できるのも、言葉を交わして一週間と経たない栄先輩だけだ。私は一年間姿が見えていたけど、栄先輩からは見えていなかったから、どこまで頼って良いかも分からない。今、手を離されれば、私は一人で途方に暮れることになるだろう。

 ふと顔を上げると、公園が見えた。だけど遊具が豊富で、登れそうな木も、ボール遊びができそうな広さもない。ここからでは帰り方なんて分からない。

 お腹も空いた。今日の夕食は天ぷらの予定だった。私の要望に応えて予定を変更してくれたものだ。意識すれば足にも力が入らなくて、公園の前にしゃがみ込んでしまう。自転車に乗ったまま入れないよう設置されている柵に掴まり、俯いた。このまま朝まで待ったほうが帰り道は分かるだろうか。朝になれば散歩に出る人もいるだろう。その人に現在地を聞こうか。

 気合を入れて立ち上がり、柵に軽く体重をかけた。これで前を通る人がいれば気付ける。まさかお風呂も入り終わったような時間に外を歩いている人なんていないだろうと思いつつ見渡せば、人影が一つ見えた。どんどん近づいてくるその人はこちらの姿を認めると、足を速めてくれた。


「栄お兄ちゃん……」


 思った以上に弱々しい自分の声に驚く。この人はお兄ちゃんではないのに、縋るような調子になってしまった。


「夕飯までに帰って来いって言ったのに。いったいどこまで歩いてたの?」

「分かんない。寒い。お腹空いた。」


 先ほどの声を誤魔化すように今の要求を伝えれば、栄先輩が着ていた上着をかけてくれる。大きいけど、体温も残っていて温かい。繋いでくれた手もお兄ちゃんほどの温かさはないけど、寒さを忘れさせてくれた。


「ほら、帰ろう。」


 迷いなく歩き出した。私もそれに引かれて動くけど、歩き続けた足はもう疲れ切っていて、ふらりと栄先輩にぶつかってしまう。


「歩ける?難しそうなら負ぶって」

「歩ける。」


 負ぶってもらって帰るほど小さな子どもではない。少しくらい足が痛くても我慢して歩ける。ここにいてくれるのが本物のお兄ちゃんだったらと思わないことはないけど、連絡も入れていないのに迎えに来てくれたことが、少しだけ一人ではないと思わせてくれたから頑張れそうだ。


「ん?」

「どうしたの?何か気になることでもあった?」


 携帯電話もなく、公衆電話からかけたわけでもない。公衆電話を見つけたとしても電話番号を知らず、お金も公衆電話用カードも持っていない私にはどうにもできなかった。それなのに、栄先輩はどうしてここまで来られたのだろう。


「ねえ、どうやって私がここにいるって分かったの?」

「近所の人に、何時頃どの方向に向かって歩いていたか、ってのを聞いたんだよ。それでおおよその方向は分かる。」


 細かくは分からない。だけど、暗い中、私を見つけてくれた。


「もしかして、探してくれた?」

「当たり前だよ。散歩にでも行ってこいって言ったら帰って来ないんだから。夜道を子ども一人で歩くものじゃない。」


 心配してくれたようだ。子どもではない上に、栄先輩とは一学年しか変わらないはずだけど、一人で帰れなかったことは確かだ。暗い中を一人で歩くことも好きではないため、ここは素直にお礼を言っておこう。


「ありがとう、迎えに来てくれて。少し安心した。」

「そっか。」


 本当の私の家に帰れるようになるまでは、栄先輩の家が私の家になる。あくまで一時的にではあるけれど、その間くらいなら、あの家を私の帰る家にしてあげても良い気がした。


「羽衣、昼は俺が悪かった。別に邪険にしたかったわけじゃないんだ。」

「そうは思ってないよ。私も入寮が楽しみでうろうろしてたわけじゃないし。ただ……」


 ただ、何だろう。ただ落ち着かなかっただけ、では何も説明できていない。あるべき物がなくて、いるべき人がいない状態だった。


「ただ、寂しかった。」


 窓の外を見ても変わらない。建物もほとんど同じで、空の色は同じ。だけど家の中は違う所ばかりが目に付いて、栄先輩は隣に座っても私のお兄ちゃんのように笑ってくれたり頭を撫でてくれたりしなかった。そんなことは当たり前で、そうしてほしいと思っていたわけではないのに、ここが私の居場所ではないと言われているような気がしてしまった。

 早く、早く帰りたい。そう思っても帰るためにできることも学校に入るまではなくて、落ち着かなかった。


「学校に行けば、寂しいなんて思う暇もなくなる。明日は朝ご飯食べたらすぐ出発しようか。」

「うん。」

「帰ったら天ぷら温め直さないと。羽衣が食べたいって言った、筍のかか煮の天ぷらもちゃんとあるから。」

「うん。」


 明るく話し続けてくれるのは私が寂しいと言ったからだろうか。


「大荷物持って行かないといけないのに、明日筋肉痛になってるかも。」

「栄お兄ちゃんが持ってくれるんでしょ?」

「さすがに全部とはいかないよ。」

「うん、頑張る。」


 帰り道を探すために動き出せる。忙しくしていれば、少しずつでも近づいていると思えれば、寂しくなんてないだろう。帰った時に家族にあったことを全て伝えよう。全部を本当のことだと思ってはもらえないかもしれないけど、嘘だと決めつけもしないだろうから。話すより先に、無事を喜んでくれる。だから再会を祝って、それから色々な報告だ。長期休みにお兄ちゃんやお姉ちゃんと会った時のように、積もり積もった話をしよう。

 家に向かう私の足取りも軽くなる。そこには誰も待っていないけど、温かいご飯とお布団はある。


「そうだ、栄お兄ちゃん。鏡から人が出て来た話って知ってる?」


 本当は、私以外に、と言いたいけど、それは外では話せない。帰ってからにしようかとも思ったけど待ちきれなかった。


「……いや、知らないな。急にどうしたんだ?」

「鏡に人が吸い込まれたって話を聞いた覚えがあるんだ。だから出て来た人はいるのかなって。」


 間は気になったけど、聞いたことがあるかどうか考えてくれただけかもしれない。


「鏡を通り抜ける素質を鏡操適性と呼ぶことは前にも説明したよね。つまり鏡を通り抜けることは適性者かつ、その鏡と対になる鏡が存在すれば可能なんだ。鏡を出入りしている人を見かけても、適性者なんだな、あれには対の鏡が存在するんだな、と思うだけで、そう話題にはならない。」


 家の鏡から突然人が現れるようなことはない。だから私がそうだとは言えないことになっている。それなら鏡の向こうで聞いた報道は何だったのだろう。


「詳しいことは学園でも教えてもらえる。俺から説明するより分かりやすいよ。」


 帰り道を探すための知識も、学園で得ることになるようだ。しっかり気合を入れて行こう。


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