自宅なのに自宅じゃない
「おはよー。」
「お寝坊さんねえ。まあ、今日は土曜日だから起こさなかったんだけどね。」
「うん。」
高校の合格発表も無事終わり、入学式まで春休みの宿題をこなしつつも、どことなくのんびりとした日々だ。中学までと異なり、入学前なのに宿題があることには驚いたけど、一日にやる量を計算すれば、そう大変な量ではない。
洗面所に向かい、冷たい水で顔を洗えば、目もしっかり覚める。鏡に映るのは見慣れた少女だけ。綺麗な真っ黒ではない髪に、目の色も焦げ茶。髪は部屋で梳かして来ているから、整ってはいる。
洗面台には手洗い用の石鹸やアルコール除菌のボトルも置かれていて、棚にはうがい薬が入っている。区切られた棚ではコップに色の被らない五本の歯ブラシが立っているけど、黄色の物しか使われた形跡はない。
すっきりした頭で台所に戻れば、お母さんが繕い物をしている。居間のほうは様々な色のクッションや数体のぬいぐるみが置かれているだけで、人間はいない。
「朝ご飯は何にするの?」
「んー、トーストにマーガリンでいいや。ねえ、お父さんは?」
「散歩に行ってるだけよ。午前中には帰って来るわ。牛乳は温める?」
「うん。」
お母さんがパンをトースターに、牛乳を入れたマグカップを電子レンジに入れてくれるのを何となく眺めつつ、今日の予定を組み立てる。とは言っても、宿題は数ページずつ問題を解くだけのため、一時間もあれば十分だ。今日は友達とも約束をしていないため、一日ゆっくり本を読んだりゲームをしたり、好きに過ごそう。
今日の予定を立てつつテレビを見ると、不穏なニュースをやっていた。
「また行方不明者だって。」
「羽衣も一人で出かけちゃ駄目よ。」
「うん。」
アナウンサーが事件の詳細を伝える。しかし、その内容は信憑性に欠けるものだ。
「――従業員の目撃証言によると、彼らは口論の後、店舗に備え付けの大きな鏡に殴り掛かり、次の瞬間すり抜けて行った、ということです。――」
店の中なら防犯カメラで確認できそうなものだけど、その情報は出て来ない。おかしなニュースもあるものだと、香ばしい匂いの元であるトースターを見れば、煙が上がっていた。
「ねえ、お母さん。あれ、大丈夫?」
「あ、大丈夫じゃないわ。ごめんね、少し焦げちゃった。」
取り出したパンの表面が真っ黒だ。特に酷い部分は包丁で削ぎ落としてくれている。
「ちょっと焦げてるくらいが美味しいよ。」
お母さんがパンの用意をしてくれている間に、自分で牛乳を取り出す。スプーンで先に表面の膜だけ食べてしまって、席に着いた。
「温めた時にこの膜できるの何とかなんないかなあ。あんまり好きじゃないんだよね。」
「捨てちゃってもいいのよ。」
それはもったいない気がして、そこまで嫌いなわけでもないから、いつも先に食べてしまうことにしている。味は牛乳と同じで、濃いわけでもない。
食べやすいように四つに切られたトーストを目の前に出してくれる。真っ黒に見えた部分はおおよそなくなっていて、いつもより確かに黒いものの美味しそうに見える範疇だ。
「いただきまーす。」
手を合わせてから、サクサクと香ばしさと塩っぽさを味わっていく。食べ慣れた味だ。お母さんも前の椅子に座って、繕い物を再開している。何を直しているのだろう。
「洗濯ネットよ。チャックの部分だけ使えなくなってる物と、網の部分が派手に壊れてる物があるから、繋ぎ合わせてるのよ。」
言われてみると洗濯ネットの一部と思われるパーツが幾つも重ねられている。それらの一部を今は繋ぐよう縫っているようだ。
「ふーん。」
繕い物がある時はよく居間でしているけど、私が朝ご飯を食べている間は前に座っているようにしてくれている。
最後に牛乳を喉に流し込んで、手を合わせる。
「ご馳走様でした。」
「はい、お粗末様でした。」
自分の使った皿とカップを流しに浸けて、洗面所に向かう。まずは手を洗って、軽く口を濯いだら、桃色の歯ブラシで歯磨きだ。
それが終わって鏡を見れば、ここ一年で見慣れた男性が映っている。以前は年配の女性だった。小さい頃は知らない人がいると両親に言っていたけど、幽霊のようなものだろうと軽く聞き流されていた。時間によって歯を磨いていたり、手を洗ったりしていて、現実に生きている人間のような行動だ。今は鏡を拭いている。
人が鏡をすり抜けるわけはない。今朝のニュースを思い出しつつ、それがあり得ないと証明するように、何となくその布に合わせて手を鏡に伸ばしてみる。しかし、手は鏡に付くことなく、水に浸けたようにするりと抜け、手には布の感触があった。
「え?」
先ほどまで滑らかに鏡を拭いていた鏡の中の男性も驚いたように手を引き、私の手を凝視している。もはや私の体は鏡に映っておらず、鏡など存在しないかのように私の手は鏡の向こう側に伸びていた。
男性が布を置いて、私の手首を掴む。そこには確かに体温があり、幽霊とはとても思えない。掴んだまま、興味深そうに私の手を観察している。こちら側に自分の手を引き戻そうとしても、掴まれている力は強くないのにその場に留める力は強い。ついに向こう側に引っ張られた。
腕全体が鏡の向こう側に入っている。それでもなお引っ張られて、洗面台に完全に乗り上げてしまう。反対の手を洗面台に付けて抵抗するけど、力では敵わない。
「え?ちょっ、お母さーん!!」
洗面台の奥で手を突っ張って、時間を稼ぐ。洗面所と居間は遠くないため、すぐにお母さんは来てくれるはずだ。
ぎりぎりと少しずつ引き込まれていく。足も洗面台下に引っ掛けるようにして耐えるけど、もう完全に両足浮いてしまって、振り返ると焦った様子のお母さんが私に向かって手を伸ばしていた。
「羽衣ちゃん!」
しかし、振り返ったせいで私の力が上手く入らなくなり、水面に顔を付けるように、鏡の向こうに抜けてしまった。
自分と男性しか映らない鏡から自分の下半身が出てくる。男性が受け止めてくれたおかげで頭から落ちることはなかったけど、こちらに引きずり込まれたのも彼のせいだと軽く睨みつける。
「一級適性者……。まさか俺の家に現れるなんて。」
まじまじと私を見つめているけど、その言葉の意味は分からない。鏡を振り返っても、二人しか映っておらず、その先にいるはずのお母さんの姿はない。
もう手は離された。立ち上がって鏡に手を付けるけど、ぺたりとガラスに触れた時と同じ感触が返ってくる。強く押し付けても、すり抜けることはない。
何か戻る方法はないか。洗面台の作りは私の家と同じだ。しかし、そこに乗せられた石鹸や、棚に入っているうがい薬、コップなどには見覚えがない。歯ブラシも歯磨き粉も一つしか入っておらず、やはり私の家ではない。
「さて。君は自分の今の状態が分かってるかな?」
少し距離を取って話しかけてくれるけど、その質問には答えられない。私にはなぜか鏡の向こう側に出てしまったことしか分かっていないのだから。
「まずは話を聞いてくれる?こっちに来て。」
自宅と同じ位置にある台所を通過し、居間のソファに座る。部屋の隅にはデスクトップ・パソコンが置かれていて、ぬいぐるみは一体もない。ソファに置かれたクッションも簡素な部屋に似合いの物だ。ソファも一つしかないため、並んで座る。ローテーブルには紙やペンなどが置かれていて、私の家とは大きく異なった雰囲気だ。
「君は鏡を抜けて来た。それは良いかな?」
「はい。だけど、もう一度鏡に手を付けても戻れませんでした。」
「そうだね。君は自分の家に帰りたい?」
「当たり前です!」
家の作り自体は同じでも、内装が大きく異なる。生まれた時から一緒にいる人も可愛いぬいぐるみも安心する匂いもない。
「俺にも戻り方は分からない。知っている人にも心当たりはないよ。」
どうしよう。両親もいない場所で生活する方法なんて分からない。料理だって両親の手伝いや調理実習程度だ。まず住む所がない。何より、一人は寂しい。
縋るように目を向けると、優しく微笑んでくれる。
「だけど調べれば分かるかもしれない。」
「手掛かりがあるんですか?」
「少しだけなら。そこで、なんだけど、君も一緒に調査をしよう。利害は一致していると思うけど、どうかな。」
帰るための方法を探してくれる。そのために私も頑張るのは当然だろう。何より、ここが私の家と違う場所だと言うなら、他に頼れる人がいない。
「はい、よろしくお願いします。あ、私、花房羽衣って言います。」
「引き受けてくれて嬉しいよ。俺は山吹栄。調べるにあたって、これだけは約束してほしい。君が鏡を抜けてここに来たことは秘密にするって。」
鏡から出て来たなんて簡単に信じられることではないだろう。頭のおかしい人、空想と現実の区別がつかない人だと思われてしまう。私も自分が体験する前にそんなことを言う人に会えば、そういう変な人だと思ってしまうだろう。
「はい、言いません。」
「それなら調査に関して話を進めよう。さっき言った手掛かりなんだけど、ここから少し離れた学校の中にあるんだ。それを一緒に調べよう。」
「生徒や職員でもないのに入って調べるのは不法侵入じゃないんですか?」
「俺はそこの高等部生だから問題ないよ。」
この人が高校生にはとても見えない。いや、大人に見える人もいるから、そうではないと断言はできないけど、それにしても大人びている。見た目だけではなく、話し方も雰囲気も。その上、私が五人家族で住んでいた家と同じ家に一人暮らしなんて、高校生のすることだろうか。
「えぇ?」
「制服を着れば十分高校生に見えるから。君は何歳?」
「十五歳です。次の五月で十六歳になります。」
せっかく進学先も決まっていたのに、それまでに帰れるだろうか。
「それはちょうど良い。手続きをして入学できるようにしてもらおう。今から連絡するよ。ああ、身分証も必要だね。」
部屋の隅のパソコンに向かい、素早くカタカタと打ち込んでいる。私の進学先は変えられてしまったようだ。これは四月までには帰れないと思ったほうが良いだろう。
「山吹さんは去年から通ってるんですか?」
「ああ、編入したんだ。よく分かったね。」
「去年の今頃から鏡に映り始めたので……」
ばっとこちらを振り返る。山吹さんからは見えていなかったのだろうか。そうだとするなら私が覗き見ていたことになるけど、なぜか山吹さんの口角は上がっている。
「見えてたんだ、君にはずっと、こちらの世界が。そっか、流石だね。なら、問題なく入学できるよ。」
鏡を挟んだ世界は同じ時間なのだろうか。同じなら今から入学試験を受けることはできないように思える。
パソコンに向き直り、また何かを入力していく。
「今って何月何日なんですか?」
「三月二十四日、土曜日だよ。」
同じだ。窓の外も明るく、時間も大きく変わらないように感じられる。五教科の試験なら自信があるけど、先ほどの口ぶりでは学力が関係あると思えない。まさかお金で解決するわけではないだろう。
ソファに戻って来た山吹さんに気になる点を追及していく。
「どうやって入学するんですか?」
「ちょっと知り合いに頼んで、だね。」
裏口入学というものではないだろうか。私はそんなことしたくないと口を開こうとするけど、その前に弁解が始まった。
「もちろん試験は受けてもらうけど、簡単なものだから。その学校に立ち入ることができればそれで良い。君にその適性があることは確認済みだから心配は要らないよ。まあ、行けば分かるんじゃないかな。」
適性を確かめる試験。しかし、こんな時期に試験を行っているのかも疑問だ。
「へー。」
「特級適性者は学校側も確保したい。だから多少素性が怪しくても受け入れられる。こんな急な申し出でもね。」
どこの誰であるかを言えない私は確かにこの場所においては怪しい人物になる。まさか自分がそんな扱いを受けるなんて思ってもみなかった。
「疑問は解決したかな?」
「はい、今のところは。」
「なら君がここで生活できるようにしよう。俺は一部買い揃えて来るから、君はその間に自分の使う部屋を掃除しておいて。二階の空いている部屋ならどこでも好きに使ってくれて良いよ。」
そう言って自分は二階に上がって行ってしまう。気付かなかった私の言えたことではないけど、生活面の問題は真っ先に解決すべきことではないだろうか。ひとまず掃除用具はどこだろうと探すが、居間には見当たらない。二階の空いている部屋に置いているのかもしれない。使っていないなら物置になっている可能性は大いにある。
手すりや滑り止めのついた階段を上がると、山吹さんは廊下に掃除機を出してくれていた。
「邪魔な物があったら適当に奥の部屋に入れておいて。バケツと雑巾は洗面台の下。」
「はい、分かりました。行ってらっしゃい。」
私の返事も聞かず階段に向かう背中に言えば、軽く振り返り、照れたように笑った。
「うん、行ってくるよ。」
少々早い足音が消えて、私は手前から二つ目の部屋に入る。
埃っぽいけど、物が散らかってはいない。寝台も勉強机もクローゼットもある。さすがに布団はないけど、それは後で良い。邪魔な物は扇風機と小型の温風器、幾つもの中身の見える衣装箱くらいだ。季節外の服などを保管しているのだろう。
一つ一つ隣の部屋に運ぶ。隣はさらに物が少ないけど、やはり寝台の枠や机類は揃っている。去年までも鏡を通じて複数人を同時に見たことはなかったけど、複数人で住んでいたこともあったのだろうか。
邪魔な物たちを運び終えると、化粧台の前の物が目についた。屈んで拾えば、埃っぽいものの、それが何かくらい簡単に分かる。
「あれ?これ……」
中学に上がる頃、母の化粧を見て、私もしたいと言った私にくれた口紅だ。早速付けてみようとした時に落とし、どう探しても見つからなかったのだ。今見ればただのリップクリームだと分かるけど、当時はこれが口紅に見えた。
見覚えのない物ばかりのこの家で、三年ほど前に無くした物が見つかる。これはどういうことだろう。他に以前無くした物が落ちていないだろうか。そう思いつつ、掃除を再開した。