星界の涯て ~悪役令嬢ヴィクトリア 終章~
【前回までのあらすじ】
近藤 武は悪役令嬢である。世界征服を企む悪の組織B・J団に誘拐され、この世の地獄とも思える過酷な人体実験に晒された近藤は、人の貌を失い、悪役令嬢ヴィクトリアとなった。
B・J団の野望を打ち砕くため、平和を脅かす怪人たちとの戦いに身を投じる近藤。しかし彼には戦いに赴くもう一つの理由があった。親友、佐伯 吾郎の命を奪った憎き敵。近藤は名も分からぬその敵の姿を捜していたのだ。
心優しき正義の科学者であった佐伯は、悪役令嬢の持つ膨大なエネルギーを人の器に閉じ込めるための拘束具――黒のバロックドレスを開発し、近藤を辛うじて人間存在に繋ぎとめてくれた恩人であった。しかし佐伯はその優しさと正義の心ゆえに命を落とした。B・J団がスクールバスに仕掛けた爆弾の存在に気付いた佐伯は、その解体に成功した直後、何者かに銃撃され、その生涯を閉じたのだ。
数多の怪人との死闘の中、佐伯の名を問い続ける近藤。そしてその時はついに訪れる。爆弾怪人イソフラボマーこそが、佐伯の命を奪った仇敵であった。埼玉県警機動隊隊長、岩倉 憲一郎と、そして保育士であり科学者でもある吾郎の妹、佐伯 理沙の助力を得て新たな力を得たヴィクトリアは、イソフラボマーとの死闘を制し、見事親友の仇を討ったのだった。
はるか地底へと続く長い廊下を、ヴィクトリアは優雅に駆けていた。ハイヒールがたてる硬質な音が無機質な廊下に反響している。この廊下の先にB・J団の首領であり、すべての悪の元凶である男、ブラックジャスティスがいる。
「……私の許しもなく勝手に死ぬなど、許さなくてよ。岩倉……!」
ヴィクトリアの背後から断続的な銃声が聞こえる。岩倉はヴィクトリアを先に進ませるため、無数に湧き出る戦闘員を食い止めるために独り残り、戦っている。
決戦の刻が、近づいていた。
イソフラボマーを撃破したヴィクトリアは、すべての因縁に決着をつけるべく、悪の首領ブラックジャスティスの居場所をイソフラボマーに問い質した。イソフラボマーは一瞬の逡巡の後、B・J団の本拠地の場所を告げる。T市児童センター こどもの国――今は閉鎖されたプラネタリウムの地下こそが、B・J団の本拠地であったのだ。イソフラボマーは誰にともなく呟く。
「あの方は変わってしまわれた……。『闇の力で世界を折伏し、すべてを正義へと導く』それがB・J団の理想であったはずなのに」
イソフラボマーはB・J団で唯一、洗脳を受けていない怪人だった。ブラックジャスティスの理想に共鳴し、自ら改造手術を受けた男であった。しかし今、ブラックジャスティスは理想を失い、人に絶望して、世界を滅ぼそうとしている。「あの方を止めてくれ」イソフラボマーはそう言い残し、静かにそのまぶたを閉じた。
小一時間ほども駆けていただろうか、ヴィクトリアの目の前に古城の門の如き重厚な鉄の扉が姿を現した。みじんも息を乱すことなく、ヴィクトリアは扉の前で足を止める。扉に手を伸ばすと、触れる前に扉は自ら道を開けた。扉の向こうには深く澱んだ漆黒の闇。そしてその闇の中に、不気味に光る赤い瞳が浮かんでいた。
「……ついにここまでたどり着いたか」
低く威圧するような、ひび割れた声が部屋に広がる。ヴィクトリアは臆することなく部屋に一歩踏み込んだ。
「ごきげんよう、ブラックジャスティス。お目にかかるのは初めてね」
闇に沈んでいた部屋に煌々と明かりが灯る。照らし出された部屋の中央に、まるで玉座に君臨する古代の王のように、漆黒の装束に身を包んだ一人の男が座っていた。闇色の鉄仮面を身に着けたその男こそ、B・J団の首領にしてすべての悪の元凶たる、ブラックジャスティスであった。
「よもや貴様の如き羽虫に、こうもしてやられるとはな。己の不明を恥じねばなるまい」
ブラックジャスティスの言葉を意に介さず、ヴィクトリアはその透徹した蒼い瞳に冷酷な光を湛えて問う。
「救われ難き罪人といえども、弁明の機会を与えるのは貴き血を受けし者の崇高な責務というもの。答えなさい。なぜ、このような愚かな行為を?」
ヴィクトリアは洋扇の先をブラックジャスティスに突き付ける。「貴き血の責務?」ブラックジャスティスはそう呟き、さも可笑しそうに嗤った。
「笑わせるわ。貴様のような輩がこの世界を腐らせたのだ!」
笑いを収め、ブラックジャスティスは叩きつけるような怒声とともにヴィクトリアを睨みつける。ヴィクトリアは平然とその視線を受け止めていた。
「世界を見よ! 今この瞬間にも、金と権力を弄ぶ一握りの人間の傲慢が、世界をほしいままに蹂躙している! 殺し、壊し、抑圧し、恥じることもない! そしてその他の大多数は飼い馴らされ、怠惰に沈んでいる! 思考を放棄し、己以外に関心を持たず、責任すら感じることもない! 強者の傲慢と弱者の怠惰が手を結び、世界は腐臭を放つゴミ溜めへと変質したのだ!」
ブラックジャスティスは玉座から立ち上がり、傲然とヴィクトリアを見下ろした。
「我は人間を導くつもりだった。だが、それは誤りであった。人間は愚かで、学ばず、過ちを繰り返す度し難い生き物であった。世界は人間の所有物ではない。人間に自浄能力がないのなら、人間を退場させ、腐臭を払い、世界を浄化せねばならぬ!」
ブラックジャスティスの瞳にはある種の純粋さがある。人の、世界のあるべき姿を描き、そうでない現実に絶望した理想主義者の空虚がある。そして、人を信じ、人に裏切られ、人そのものを拒むに至った敗北者の影があった。ヴィクトリアはくだらぬと言わんばかりに冷ややかな視線を返した。
「まるで幼子の駄々ね」
「……なんだと?」
ブラックジャスティスの声が深く激しい怒気をはらむ。対照的にヴィクトリアは冷たく、無慈悲なほどに落ち着いた声で言った。
「チェスに勝てない幼子が癇癪を起して盤面を放り投げるのと同じ。思い通りにならないから壊すなど、分別を持たぬ愚か者としか思えぬわ」
ブラックジャスティスは口を閉ざし沈黙する。仮面の奥の表情を外から窺い知ることはできない。しかし、沈黙し仮面で顔を隠してなお溢れる殺意が大気を震わせ、その心中を雄弁に語る。
「チェスに勝ちたいのならチェスのルールに従わねばならぬ。他者を愚かと嗤う前に、一つでも世界を美しく変えて見せよ。それができぬお前は吠えかけるしか能のない、ただの負け犬に過ぎぬと知れ」
常人では意識を保つことも難しい、息苦しいほどの殺意の中、ヴィクトリアは優美さを失うこともなく泰然と佇んでいる。怒りが限度を超えたのか、ブラックジャスティスはむしろ穏やかな口調で言った。
「貴様に道理を説いても無駄なことであったな。悪役令嬢などという、ふざけた存在の貴様には」
ブラックジャスティスの言葉に、ヴィクトリアは洋扇を口元に当て、艶然と笑った。
「愚者には愚者にふさわしい物言いが必要なようね。こちらの配慮が足らなかったことをお詫びいたしますわ。貴方程度でも充分に理解できる言葉に言い換えて差し上げるわね」
そして両者の刃のように鋭い視線が、交錯する。
「目障りだ。消え失せよ!」
「目障りよ。消え失せなさい!」
それは悪役令嬢ヴィクトリアの最期にして最大の戦いの開幕を告げるベルのように、ひりつくような運命の気配を伴って部屋に響き渡った。
「『近接戦闘特化形態』」
ヴィクトリアの呟きに反応し、彼女を包む漆黒のバロックドレスがまばゆい光を放つ。闇を払う白光が晴れた時、ヴィクトリアは純白の婚礼衣装に包まれていた。右手の薬指に嵌められたエンゲージリングが輝きを放ち、ヴィクトリアの持つ圧倒的な品格に無垢なる清心が加わる。常人ならば思わずかしずく貴人の波動が周囲に満ちた。
説明しよう! 近接戦闘特化形態とは、佐伯吾郎が考案し佐伯理沙が完成させた新素材、陽光の絹によって、ヴィクトリアの持つ悪役令嬢の力を極限まで増幅する究極の戦闘形態である! この形態に変化することにより、ヴィクトリアの戦闘能力は従来の十倍に跳ね上がる! だがその代償は大きく、近接戦闘特化形態を維持できる時間はわずか五分。五分を過ぎるとその後二十四時間、ヴィクトリアは完全に力を失ってしまう。まさに諸刃の剣、決戦の最後の切り札なのである!
「知っているぞ! その形態には時間制限があることを! 時間切れを迎えた時、貴様が無力なただの公爵令嬢になるということもな!」
嘲るような哄笑と共にブラックジャスティスが叫ぶ。ヴィクトリアはわずかに身を低くすると、艶やかな微笑みを浮かべた。
「お前如き、五分もあれば充分」
ヴィクトリアのウェディングシューズが床を蹴る。かすかな気配だけを残し、ヴィクトリアの姿が、消えた。
「ぬぅ!?」
次の瞬間、彼我の距離をゼロにして、ヴィクトリアはブラックジャスティスの眼前にいた。傷一つないたおやかなその手には、いかなるものもケーキのように切り裂く銀の短剣が握られている。ヴィクトリアはブラックジャスティスの喉元を狙い、躊躇いなく短剣を突き出した!
「甘いわっ!」
言葉とは裏腹に、ブラックジャスティスはかろうじて短剣をかわした。漆黒のマントが浅く切り裂かれ、一部がちぎれて宙を舞う。と、思うと、ちぎれたマントの破片が生き物のようにうごめき、短剣の刃にまとわりついた。意識より早く反応した本能が発した警告によって、ヴィクトリアはとっさに短剣を手放し、大きく後方に跳躍する。マントに囚われた銀の短剣は黒に染まり、歪み、泡立ち、ふくらみ、弾けて消滅した。
「うまく逃げたか。だが、逃げがうまくとも勝てぬのではないか?」
明らかな侮蔑を含んでブラックジャスティスが挑発する。ヴィクトリアは無表情に、少し乱れた髪を整えた。
――残り、四分。
ヴィクトリアは胸の前でぱちんと両手を合わせる。そして右手を握り、ゆっくりと何かを引き抜くように右に滑らせた。パリパリと光が弾け、何もないはずの空間から一本のトーチが姿を現す。ヴィクトリアは儀礼の細剣を思わせる仕草でトーチを構えると、鋭くブラックジャスティスに向かって突きを放った!
「赫灼の華よ、奔れ!」
トーチの先端から噴き出した炎は奔流となり、ブラックジャスティスに襲い掛かる。すさまじい熱量が大気を歪ませる。ブラックジャスティスは右手を突き出し叫んだ。
「深淵の風よ、蹴散らせ!」
ブラックジャスティスの右手から蒼く凍てつく闇の波動が吹き荒れ、ヴィクトリアの炎を阻む。闇色の風と眩き炎は拮抗し、両者のちょうど中間地点で境界を形作った。
「大したものだ。外宇宙の風に抗するとは。だが……」
ブラックジャスティスの赤い瞳が妖しく輝く。右手にぐっと力を込めると、深淵の風がその勢いを増した。均衡が崩れ、境界はじりじりとヴィクトリアの側に動いていく。
「……くっ」
小さく呻き、ヴィクトリアは一歩踏み込んでトーチを前に押し出した。炎が輝きを大きくし、闇の風を押し戻す、かに思われた次の瞬間。
――バキンッ
鈍い音を立てて、ヴィクトリアの手に握られたトーチが砕け散る。炎は瞬く間に凍てつく風に飲まれ、吹き散らされた。ヴィクトリアは両腕で顔をかばう。暴風はヴィクトリアのドレスを深く引き裂いて消えた。
「どうした? 自慢のドレスが台無しではないか」
余裕すら感じる口調でブラックジャスティスが楽しげに笑う。ヴィクトリアは無言でドレスに付いた砂埃を払った。
――残り、三分。
ヴィクトリアは天を仰ぎ、祈るように両手を組んだ。はるか地下にある閉ざされた部屋にいずこからか光が射し込み、ヴィクトリアを照らした。光は収斂し、一束のブーケを形作る。ヴィクトリアはブーケを手に取り、胸元に引き寄せると、その花びらにそっと息を吹きかけた。花弁はふわりと宙を舞い、そして、暴風を纏ってブラックジャスティスに襲い掛かる! ヴィクトリアの持つ圧倒的な財力により、花びらはそのことごとくがすべてダイヤモンドの刃へと変じたのだ!
「小賢しい!」
ブラックジャスティスがマントを翻し、ダイヤモンドの花びらを絡めとって自らの身を守った。花弁は嵐となって逆巻き、漆黒のマントを少しずつ削っていく。しかし花びらもまたマントの闇に侵食され、ボロボロと崩れて塵となった。切り裂かれたマントは役割を失い、その下からは黒の甲冑が姿を現す。ブラックジャスティスは不快そうに鼻を鳴らした。
「ふん。マントを切り裂いたとて――」
言葉の終わりを待たず、ヴィクトリアは軽やかに床を蹴り、一気にブラックジャスティスの懐に飛び込んだ。
「ぬぅんっ!」
即座に反応したブラックジャスティスの拳がヴィクトリアを襲う! しかしヴィクトリアはわずかに身体をひねって紙一重でそれをかわした! ヴィクトリアのティアラが拳圧ではじけ飛ぶ。ヴィクトリアはブーケから一本の薔薇を引き抜き、ブラックジャスティスの眉間に向けて放った! 薔薇の茎が闇色の鉄仮面に突き刺さる! 穿たれた穴から亀裂が広がり、鉄仮面は砕け落ちた。ブラックジャスティスの素顔が今、明かされる――
「!?」
ヴィクトリアはブラックジャスティスの仮面の下を目の当たりにして息を飲んだ。そこには、何もなかった。そこには光を通さぬ深い闇がわだかまり、禍々しく赤い二つの光が浮かぶのみであった。
「……我を人の類と思ったか? 我は世界の望み。我は世界の絶望。我は人を信じ、人に裏切られた、この世界の総意よ!」
赤き双眸が妖しく光る。その光はヴィクトリアの持つブーケを焼き、のみならずヴィクトリアの身体を吹き飛ばした。ウェディングシューズのヒールが床を削り、ガリガリと耳障りな音を立てる。数メートルほど吹き飛ばされ、ヴィクトリアはかろうじて自らの身体を両の足で支えた。
――残り、二分。
「我が仮面を砕いた力量を誉めようではないか。褒美に、面白いものを見せてやる。いかなる希望も、意志も崩れ去る圧倒的な『力』というものをな」
ブラックジャスティスが右手を高く掲げる。その身体から闇色の闘気が立ち上り、右手へと凝集していく。渦巻き、うごめき、のたうつ闘気はやがて一本の大剣となった。ブラックジャスティスは片手で軽々と大剣を振り下ろす。風切り音は悲鳴に似て、昏く禍々しい気配にヴィクトリアはわずかに眉をひそめた。
「もはや時間もなかろう。来い! 無力な小娘に成り下がる前に、せめて戦士として葬ってやろう!」
ブラックジャスティスが大剣の切っ先をヴィクトリアに突き付ける。短剣も、トーチも、ブーケも失ったヴィクトリアには、もはや己の身以外に武器はない。だが、ヴィクトリアの透徹した蒼い瞳にはいささかの曇りもなかった。ヴィクトリアは表情を変えることもなく、床を蹴って真正面からブラックジャスティスに挑む!
「玉砕覚悟か! ならば望み通り果てるがいい!」
ブラックジャスティスは大きく身体を左にひねり、強く一歩を踏み出すと大剣を横薙ぎに払った! ヴィクトリアは高く跳躍してそれをかわすと、空中で前方に回転し、その勢いのままに右のかかとをブラックジャスティスに叩きつけた! 漆黒の甲冑の左肩が紙のように引き裂かれ、重い金属音を立てて腕が床に落ちる。しかし鎧の中はわだかまる闇ばかりで、そこには何の実体もなかった。ブラックジャスティスがダメージを受けた様子もない。
ブラックジャスティスが大剣を翻し、再びヴィクトリアに斬撃を見舞った。ヴィクトリアは身を沈めて斬撃をかわし、立ち上がる勢いを込めた鋭い掌底でブラックジャスティスの腹部を貫いた! 腹部を覆う漆黒の甲冑が砕け、破片が床で乾いた音を立てる。だがその奥にあるのはやはり、うごめく闇だけ。実体のないブラックジャスティスにダメージはなかった。かすかに顔をしかめ、ヴィクトリアは距離を取るべく一歩身を退き――がくん、と何かに引っかかったように身体を傾げた。ヴィクトリアがハッと足元に目を落とす。ブラックジャスティスはヴィクトリアのドレスの裾を踏み、その動きを封じたのだ。
「終わりだ、悪役令嬢」
ブラックジャスティスは右手を振りかぶり、ヴィクトリアに向かって大剣を振り下ろした! その赤い瞳が邪悪に歪む。ヴィクトリアは両腕を頭の上で交差した。右手の薬指に嵌めた指輪が光を放ち、ヴィクトリアの持つ圧倒的な権力が防御フィールドを展開する! 漆黒の大剣が輝く防御フィールドに接触し、金属が削れるような耳障りな高音が周囲に響いた。
「無駄なあがきよ。いかなる権力でも揉み消せぬ圧倒的な『力』が、この世にはあると知れ!」
大剣は防御フィールドをじりじりと削り、浸食していく。そしてその浸食が防御フィールドの半ばまで到達した、そのとき――
――キィン
光と闇の相克に耐えかね、エンゲージリングは砕け散った。防御フィールドを形成していたエネルギーが制御を失い、爆発する。粉塵が舞い、部屋に立ち込めて視界を遮る。ヴィクトリアは爆発の威力を直接その身に受け、吹き飛ばされて壁に背を激しく打ち付けた。両足に力を込め、辛うじて倒れ込むことなく身体を支えたヴィクトリアは、粉塵に覆われた先を鋭く見つめる。粉塵が晴れ、ヴィクトリアの視界に映ったのは、苛立たしげにこちらを見つめる二つの赤い瞳であった。
――残り、六十秒。
近接戦闘特化形態に必要なエネルギーの制御装置であるエンゲージリングを失い、ヴィクトリアの品格に翳りが見える。まだ婚礼衣装姿を維持しているとはいえ、戦闘力の低下は明らかだった。だがヴィクトリアの眼に絶望はない。ヴィクトリアの蒼い瞳は、まっすぐにブラックジャスティスを捉えていた。
「……その目が気に入らぬ」
ブラックジャスティスは不快さを吐き出すようにつぶやく。形成は圧倒的に有利、にもかかわらず、その声は平静さを失っていた。
「武器を失い、エネルギーの大半も失った! 攻撃に効果はなく、時間切れも目前! その上でなお、何にすがる!? どこに希望を見いだすというのだ!」
ヴィクトリアはかすかに笑った。
「怖れているのね」
「我が怖れるものなど、この世にはない!」
ブラックジャスティスが大剣を振りかぶる。その刃に赤黒い憎悪が渦を巻いた。
「今度こそ終わりだ! 滅びよ、悪役令嬢!!」
ブラックジャスティスが大剣を持つ手に力を込める。そしてまさに、刃に宿る憎悪をヴィクトリアに向かって放とうとした、そのとき――
――カツン
ブラックジャスティスの甲冑が、小さな音を立てた。それは小石がぶつかる音。どこからか投げられた小石が、ブラックジャスティスに当たったのだ。
「何者だ!」
小石が投げられたと思しき方向に、ブラックジャスティスは大剣を振り下ろした。赤黒い波動が走り、床を大きく抉る。バチッという音を立て、今まで何も存在しなかったはずの空間に、小柄な女性の姿が浮き上がった。
「――理沙!?」
ヴィクトリアが驚きと共に叫ぶ。そこにいたのは佐伯理沙――佐伯吾郎の妹にして科学者でもある、ヴィクトリアの理解者であった。抉られた床のわずか数センチ横で、もはや動作しなくなった光学迷彩に身を包み、理沙は震える身体を鼓舞するように、火のような怒りの双眸をブラックジャスティスに向けていた。
「……なんだ、それは? そんな小石ひとつで、我を討ち果たせると思ったか? 愚かだ、あまりにも愚かだぞ人間! ゆえに貴様らは度し難いと言うのだ!」
ブラックジャスティスは理沙をにらみつけ、嘲りの言葉を叩きつける。ブラックジャスティスは理沙をにらみつけていた。ヴィクトリアから視線を外して。
「愚かなのはあなたよ、ブラックジャスティス」
ブラックジャスティスの至近、手を伸ばせば頬に触れる距離で、ヴィクトリアのつぶやきが聞こえる。ブラックジャスティスが理沙に視線を向けた一瞬の隙に、ヴィクトリアは一気に距離を詰め、そして、
「死期の最中に他の女に気を取られるなんて」
両手を重ねて突き出し、ゼロ距離から渾身の婚約破棄を放った!
「き、きさまぁーーーーーっ!!」
ブラックジャスティスの驚愕がこだまする。婚約破棄によって発生した膨大なエネルギーは時空を歪め、捻じ曲げ、小さなワームホールを出現させた。ブラックジャスティスの身体が、存在がワームホールに飲み込まれてゆく。
「悪役令嬢ヴィクトリアの名において、ブラックジャスティス、あなたを、追放する」
涼やかな瞳で、ヴィクトリアは厳かに告げた。抗いようもない運命にもがくようにブラックジャスティスは絶叫する。
「おのれ悪役令嬢! だが忘れるな! 人が己の欲望に囚われ、世界を蔑ろにする限り、我は必ず復活する! これから人が得る安寧はひと時の幻と知れ! 報いのときは必ずやってくるぞ! ふははははは、ふははははははははっっっ!!!」
不吉な予言を残して、ブラックジャスティスはワームホールの奥へと姿を消した。ワームホールははるか外宇宙、星々の輝く夜空の涯てへと繋がっている。ヴィクトリアは憐れみをその顔に浮かべて言った。
「遥か星界の涯てで、指を咥えて見ているがいい。人の未来を。世界に希望の華が咲き誇る様を」
人はときに愚かであるのだろう。それは太古の昔から今に至るまで変わらない。だが、人はただ愚かなだけで終わる存在ではない。多くの時が必要だとしても、人は必ず、世界を善きものへと変えてゆくだろう。ブラックジャスティスが世界の絶望であったように、悪役令嬢もまた、世界が人に裏切られてなお見出す、希望なのだ。
ヴィクトリアはワームホールに背を向け、冷酷に言い放つ。
「ごめんあそばせ」
その言葉が合図のように、ワームホールの口が閉じた。それはヴィクトリアが、世界の希望が、絶望を退けたことを示していた。悪役令嬢は、勝ったのだ。
――制限時間切れ。
ヴィクトリアの身体をまばゆい光が包む。光が晴れた時、そこに佇むのは、すべての力を失ったかよわき公爵令嬢であった。
――ゴゴゴゴゴゴ
大地が上げる悲鳴のように、B・J団の本拠地が小刻みに震え、軋みを上げる。ブラックジャスティスを失い、存在意義をも失ったこの施設が崩壊を始めたのだ。遠からずこの部屋も土砂に埋もれる運命であることは明らかだった。しかしヴィクトリアは動かず、いや、正確にはその場を動けずにいた。すべての力を使い果たしたヴィクトリアには、もはや一歩を踏み出すことさえ困難だったのだ。ヴィクトリアはついに自らを支えることすらできないと、力なく床に膝をついた。
「ヴィクトリア!」
理沙がヴィクトリアに駆け寄り、励ますようにその肩に手を添えた。ヴィクトリアは小さく首を横に振る。
「早くお逃げなさい。あなたには未来がある」
「バカッ!」
彼女らしからぬ罵倒の声に、ヴィクトリアは思わず顔を上げた。理沙は激しい怒りをその愛らしい顔に染め、ヴィクトリアをにらんでいる。
「世界が救われても、あなたがいなきゃ意味がないでしょう!?」
理沙の目尻にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「……こんなときくらい頼ってよ。友達でしょう?」
ヴィクトリアが驚きを顔に浮かべる。そして表情をふっと緩めると、やや遠慮がちに言った。
「肩を、貸してくださる?」
「うん! 行こう!」
理沙が左肩を支え、ヴィクトリアが立ち上がる。そして二人は一歩ずつ前へと踏み出し、部屋を後にした。二人の退出を見届けるように部屋の灯りが明滅し、やがて限界を迎えたように一斉に消えた。天井が崩落し、すさまじい轟音を立てる。
崩壊は、間近に迫っていた。
「無事か、ヴィクトリア!」
地上へと続く緩やかな長い廊下を進むヴィクトリアたちに、前方から声が掛かる。息を乱して駆けつけたのは埼玉県警機動隊長、岩倉であった。
「壮健で何よりね、岩倉」
服は破れ、身体のいたるところに打撲、裂傷を負い、顔はすすけて全身土埃にまみれた岩倉は、ヴィクトリアの皮肉めいた言葉に苦笑いを浮かべる。そして無言でヴィクトリアに近付くと、おもむろに彼女の身体を横抱きに抱えた。
「な、何をする! 無礼な!」
「緊急事態だ、大目に見ろ。急ぐぞ佐伯さん! ここはもうもたん!」
羞恥に顔を赤らめるヴィクトリアを無視して、岩倉はヴィクトリアを抱えたまま出口に向かって走り出した。見たこともないヴィクトリアの素直な表情に笑いをこらえながら、理沙は岩倉を追って駆ける。岩倉の胸の中で、ヴィクトリアは小さく「この、無礼者め……」とつぶやいた。
天井からパラパラと土埃が降り、灯りはいつ切れてもおかしくないほどに激しく明滅を繰り返している。そう遠くない場所で、何かが崩れ落ちる音が聞こえた。
「見えたぞ!」
岩倉の声が希望に弾む。理沙は返事をする余裕もないほどに苦しげに息を乱しながら懸命に駆けていた。外へと、未来へと続く扉が、もうすぐ手の届く場所にある。
岩倉たちの後ろでは、まるでドミノ倒しのように崩落の波が押し寄せている。足を止めればあっという間に崩壊に飲まれる。生死を分けるギリギリの緊張感の中、二人は必死に足を前に出し続けている。
残り十メートル。バチッという音を立て、ついに廊下の灯りが消えた。外から射し込む星明りがわずかに二人の視界を照らす。外への扉は、すでに開け放たれているのだ。
残り五メートル。崩壊によって巻き起こる激しい土埃が二人の背にその手を伸ばす。ヴィクトリアは両手を組み、目をつむって祈った。ただの公爵令嬢となった今のヴィクトリアには、祈る以外にできることはない。
残り二メートル。土埃が二人を追い越し、理沙は目を細め、口を手で覆った。
残り一メートル。崩落の欠片が二人の背を打つ。岩倉が鼓舞の咆哮を上げ、そして――
三人は星々の輝く夜空の下へと、飛び出した。
今は閉鎖されたかつてのプラネタリウム館が轟音と共に崩落する。間一髪、時間にしてわずか数秒の差で、三人は崩落から逃れ、命をつないでいた。生き延びた、その安堵が肉体に疲労を思い出させ、岩倉は地面に膝をついた。理沙もまた、激しい呼吸で空気を貪りながら座り込んでいる。ヴィクトリアは岩倉の手から逃れると、彼に抱きかかえられていた事実を抹消するかのように平然と立ち、二人を見渡した。
「よく働いたわね、二人とも。褒めて差し上げるわ」
岩倉はぜぇぜぇと整わぬ呼吸をなだめながら、ヴィクトリアに右の掌を掲げ、制止の意志を示した。
「……ちょっと、待って、くれ……息が、整う、まで……」
岩倉の言葉に、ヴィクトリアはわずかに目を伏せる。
「待って差し上げたいけれど、私、そろそろお暇をしなければならないの」
「……えっ?」
言葉の意味を捉えかねたか、理沙が怪訝な顔をヴィクトリアに向けた。ヴィクトリアの身体が静かな光に包まれる。その姿が黒いライダージャケットの青年――近藤武へと変わり、そして近藤の身体から、淡く透けるヴィクトリアの霊体が分離した。
「ごきげんよう、近藤 武。顔を合わせてお話するのは初めてね」
近藤の正面に立ち、ヴィクトリアが穏やかに微笑む。近藤は戸惑ったようにヴィクトリアを見つめた。
「あなたには、過酷な運命を強いてしまったことをお詫びいたします」
ヴィクトリアは近藤に向かって頭を下げた。近藤は無言で首を横に振る。近藤には分っているのだろう。ヴィクトリアとの別れが、不可避であることを。
「ちょっと待って! どういうこと!?」
疲労の極みにあることを忘れ、理沙は立ち上がってヴィクトリアに詰め寄った。ヴィクトリアは、少なくとも表面上は平静を装ったまま、理沙に告げる。
「ブラックジャスティス亡き今、悪役令嬢の力はこの世界に不要なものよ。強すぎる力は、必ず悲劇を呼ぶ。私は、もう退場しなければね」
「そんな! やっと平和が訪れたっていうのに!」
納得できぬと理沙はヴィクトリアに手を伸ばした。しかし実体を持たぬヴィクトリアにはもはや触れることは叶わない。虚空を切った自らの手を、理沙は呆然と見つめた。
「そう、ようやく平和は訪れた。だから、これからはあなたたちの番」
ヴィクトリアは近藤たちの顔を見渡す。ブラックジャスティスという目に見える脅威は去った。しかし、脅威の不在は平和とイコールではない。人々がその叡智を集め、世界をより良いものとしていかなければ、世界は再び絶望に沈み、第二、第三のブラックジャスティスが現れる。
「あなたたちなら、できるでしょう?」
いささかの挑発と共に、ヴィクトリアは笑った。近藤や、理沙や、岩倉のような人間がいる限り、世界が闇に囚われることはない。ヴィクトリアの笑顔には確信があった。近藤は力強くうなずきを返した。ヴィクトリアもまた、満足そうにうなずく。
「……ヴィクトリア」
岩倉が、ためらいがちにそう声を上げた。ヴィクトリアは岩倉に顔を向け、ほんの一瞬だけ寂しげに微笑むと、何も言わずに空を見上げた。
「道を見失いそうになったら、夜空を見上げてごらんなさい。無数の星々の中に、私の姿を見ることができるでしょう。私はいつでも、あなたたちを見守っている」
ヴィクトリアの身体が、淡く透き通る光に包まれる。そしてその足元から、小さな光の粒となって空へと昇っていく。別れの時だ。
「ヴィクトリア!」
理沙の目から涙がこぼれる。ヴィクトリアは少しだけ意地悪な顔を作った。
「近藤をあなたにお返しするわ、佐伯理沙。近藤にはあなたのような田舎娘がお似合いよ。あなたのような、心の美しい、田舎娘がね」
「あなたってひとは、最後まで……!」
理沙が涙を拭い、ヴィクトリアに笑顔を送る。ヴィクトリアは名残を惜しむ気持ちを断ち切るように大きく呼吸し、
「ごめんあそばせ」
悪役令嬢の名にふさわしい、強気な、そして華やかな笑顔を残し、ヴィクトリアは星界へと去って行った。
「……行っちゃったね」
「ああ」
理沙と近藤、そして岩倉は空を仰ぐ。今日は新月。闇を照らしてくれるはずの月はその姿を隠している。しかし月がないということを忘れてしまうほど、天の星々は力強く輝き、地上を照らしてる。
「これからは、俺たちの番、か」
岩倉が自らに言い聞かせるようにつぶやいた。悪役令嬢という強大な存在を失い、人は自らの力で未来を切り開かねばならない。それは星明りだけを頼りに夜道を歩くような、心細く、不安な道行きだ。だが地上を照らす星々の中に、ヴィクトリアがいる。そう思えば、どんな不安にも負けてはいられない。
「私たちならできると、彼女は言ってくれたでしょう?」
ヴィクトリアができると言ったのなら、それは決して不可能な道ではない。困難な道ではあるとしても。
「やってみせるさ」
近藤はその精悍な顔に笑みを浮かべた。世界は変えることができる。良いほうに変えることができるのだ。そしてその方法は、常に人の心の中に、必ず存在している。
あたかも月のように星が輝く夜は星月夜と呼ばれる。それは闇の中にある人にも、無数の光が道を示してくれることを人々に伝えている。星の光は希望への道標。そしてその光の先にこそ、未来がある。
近藤は理沙の肩を抱き寄せた。理沙は近藤の方に頭を預ける。そして三人は、強い決意の瞳で星界の星々を見上げたのだった。
悪役令嬢とは何か、という問いに、まさかの結論。