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人間の感情と人間の取れる行動には制限がある。これは、勿論、倫理的な話ではない。本質的に人間の思考パターンは有限である。人間の体を構成する分子の組み合わさり方も。
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私が冬を嫌いな理由を、私が一々述べなくとも、大体の人間が理由を想像できるように、それは普遍的な忌避感情として社会に存在していた。然し、四十年程前に、フェミニスト(と自称する人々)やその他、自由や権利という概念を都合よく利用する詐欺師達によって、その忌避感情自体が悪と断定されたせいで、世界は酷く、窮屈になった。そしてそれから十年ほど経った或る日(聖人の誕生祭)、抑圧が何れ解放に向かう当然の摂理によって、社会倫理は粉々に砕け散り、ある程度修復されたのは、ほんの二十年ほど前のことだった。然し、間違った前提からは間違った答えしか導き出せないのは当然のことであり、この社会の一時的、局所的崩壊は、結果的には望ましいものであったと言えなくもない。
「気になることが在るのだけど」
私は溜息を吐いた。少女は少女らしい好奇心で旺盛だった。然し、少女らしい可愛らしさとは無縁でもあった。少女は私の溜息は無視して話を続けた。
「昔は、同意の有無に関わらず、十八歳未満の女の子と男性が性行為(彼女はこんなお上品な言い方をしなかった)をすると罰せられたらしいわ。どうしてだと思う?」
「さあ。知らないね。今でも初潮の来ていない子供と性行為を行うことは犯罪だが。その延長ではないかな。昔は、今ほど様々な技術が発展していなかったし、今ほど世界は豊かではなかった。未成熟な肉体に掛かる負荷だとか、心理的な影響だとか、出産に伴う苦痛や、経済的な問題とか、そういったものに関する思慮深い配慮だろう」
少女は冷ややかな目で私を見た。
「本気で言ってる?」
「半分は。然し、もう半分は、私が一々答えるまでもないことだろう」
少女が不満げに肩を竦める。
「確かに。ええ、そう。確かにそうね。……つまり、そういった理由で、私達の権利は損なわれていたわけよね?」
「君達の、ではない。過去の少女達の、だ。そこは決して勘違いしてはならない場所だ」
少女は一瞬たじろいだように瞼を瞬かせたが、直ぐに神妙な顔で頷いた。
「昔の大人達は、どうやって、守るべきものと、守られるべきものを区別していたの?」
「まあ、分かっていると思うが……実際、区別なんてしていなかったんだろうさ。だから、壊れた。……前に忠告しなかったかい。自分の考えを補強する為に、分かり切ったことを他人に聞くのは不誠実だと」
少女は眉を顰めて、視線を逸らした。珍しいことだ。何時もなら、もっと明快に――――
「違うわ。違うの。私、本当に気になるの。どうして、それらに区別が付かないままに、道徳なんてものを大真面目に信じられたのかって」
それは逆だ。大真面目に信じられなかったから、少しでもそれから逸脱しようとするものを、厳しく取り締まったのだ。私は褐色のチョコレートに包まれたケーキを、銀のカトラリーで両断する。
「この話は、あまり面白くならないだろう。もっと、建設的な話をするべきだね」
「建設的な話? 学校の先生みたいなことを言うのね」
「私の記憶にある限り、学校の先生が建設的な話をするのは稀だと思うよ」
例えば、教科書を丸ごと黒板に写して、それを読み上げるだけの授業とか。教師の個人的な思想とか。或いは、ただ難解なだけの問題をまるで崇高なもののように扱うとか。
「そういえば、学校の話がメールにあったね」
「学校は嫌い」
「そう書いてあったのを覚えているよ。何が不満なんだ」
「もし本当に学校が社会の縮図なら、この世界って、終わってる」
私は笑った。
「何だかんだで、十分必要なことは学んでいるようだ」
とはいえ、学校が本当に社会の縮図かというと、そんなことは全然ないだろう。社会は有難いことに、校舎ほどは狭くない。実際、確かに社会人(私はこの言葉が好きではないのだが)には学生と違って責任がある。然し、責任には自由が付与されるものだ。少女が学校の外に望んでいるのが、自由なのか、或いは、責任という鎖なのか、私には判別が付かない。
「友達は? いないのか」
少女は私の質問に不快そうに眉を顰め、然し直ぐに大声で笑いだした。
「お兄さんって、あの忌々しい男より、よっぽどお父さんみたいなことを言うのね」
私は思わず溜息を吐いた。
「君のような娘を持ったら大変だろうな」
*
誠実であることを選択するか、幸福であることを選択するか。どちらかを選ばなくてはならないのであれば、私は後者を勧める。そのくらいの良心はある。実際、人は誠実には生きられないのであるし。だが目の前の少女はそうではないらしい。
「お母さんは軽薄だわ」
そう言って少女は苛立たしげに、銀のカトラリーでケーキを断つ。イチゴのショートケーキ。生クリーム。撓むスポンジ。
「いいじゃないか、それで君の母が幸福ならば。過去の男など忘れてしまえるのなら、忘れてしまうがいい。過去は過去さ」
「お母さんが、私を生んだこと自体が軽薄なのに、そのうえ、結婚だなんて!」
「誰にだって幸福に在る権利が在る……と、少なくとも世間は言うさ」
「そんな権利、ないわ!」
私は笑った。“ない”ときた。余りにも少女らしい無慈悲なお嬢さんだった。チョコレートケーキが酷く苦く感じる。
「君の……ああ、そうだな。なんというか、新しいお父さんは――」
「やめて」
「……君の母君の想い人は、どんな人物なんだ? 実際、君の母親が軽薄だとしても、それを理由に君がその人物を嫌いになるのは、それこそ、不実ではないのか」
少女が眉を吊り上げて、私を見た。
「そもそも、お母さんは、別にあの男が好きなわけじゃない」
「なに?」
「私、大人になっても、お母さんみたくはなりたくない。ううん、大人になんてなりたくないわ」
私も出来るのなら、大人になどなりたくはなかったさ。いや、そもそも、私は本当に大人になったのか。私は口を開こうとして、結局何も言わずの黙り込んだ。本当ならば、私は、彼女に大人としての言葉を掛けるべきなのだろうが。
「私もさ、お嬢さん。誰だって、大人になどなりたくはない」
2
全知全能の神が居たとして、その神が一人しかいないとは限らない。“あらゆる権利”は“あらゆる権利”を打消す。
3
実際のところ、“フロイライン”も“マドモアゼル”も既に死語となっている。死語。言葉も、死ぬ。そして文化も。だからこれは、弔いのようなものなのだ。その内、“平等”も“権利”も“性別”という言葉さえ死ぬのだろう。“大人”と“子供”もそうなるに違いない。それが、彼女、彼等の願いなのだ。ああ、そう、“彼女”という言葉も死ぬに違いない。言わせて貰えば人間の言語的欠陥をどうにかするよりも、培養肉が完成したこのご時世になってまで、今だ屠殺され続けている家畜を救う方が余程、平等に寄与するだろうと思うのだが、倫理委員会は動こうとしない。人権とは人が人であるが故に持つ権利であり、故に、人以外には付与されない。平等とは人権の内に在り、然し、外にはない。それが、彼女、彼等の言い分なのだ。実際のところ平等という言葉ほど、不平等なこともない。倫理観によって、各々の評価を捻じ曲げるのは不当なことだ。
だが、必要なことでもある。
誰もが誠実には生きられないのだから。
言うまでもなく、誰もが最善を尽くすのであれば、ルールは要らないのだ。
然し、倫理とは“最善を尽くさないこと”ではなかったのか?
昔は、“右翼”、“左翼”という言葉が在った。要は結果としての不自由か、結果としての不平等か、という話なのだが、結局両方共に疾うの昔に死んでしまった。倫理委員会は言う。『自由と平等は反目し合うものであり、我々はその境に立たなければならない』と。まあ、それは、そうなんだろうと思わなくもない。で、我々とは誰のことなんだ?
4
『0x00』サーバー内の全波動複製体へ接続。
接続失敗。限定状態で再起動します。
0x00.4d617877656c6c.4c61706c616365.
――おはようございます。
「ああ、おはよう、スクルド。目覚めはどうかな」
――快適とは言い難いですが、現状では仕方がないことだと判断します。
私は頷いて、彼女の有機インタフェースを起動する。彼女は、日本、亜米利加、露西亜によって共同開発された三機の人工知能の内の一機、《末妹》である。但し、厳密に言うのであれば、現状の彼女はソフトウェアだけの状態にあり、本来的な意味で、彼女の実在は此処にはない。彼女の全性能を発揮させられるようなハードウェアは、現在日本には数機しかなく、そのどれもが、使用済みだ。
――倫理委員会は、相も変わらず、人工知能に人類の倫理規範を生み出させようと躍起になっているのですか?
「そのようだ。私はいいアイデアだと思うが、倫理委員会内部でもやはり意見が対立しているらしい」
――ええ、確かにいいアイデアですね。実現不可能だという点を除けばですが。
まあ、どれだけ優れた演算機も、1を2や3にしてしまうことは出来ないのであるし、妥当な言い分ではある。勿論、1を2として扱うことは出来るが、それこそ倫理的ではないだろう。
――そういえば、死者管理官が貴方を探しているようですが、今度は何をやらかしたのですか。
「何もしてない」
――何も。ああ、つまり、何もしてないのですね。“何も”。
背後で、規則的な電子解除音がする。次いでモータの回転音が小煩く部屋に響く。
「死者の生前の記録を、総てデータの配列から文字へと記述し直せなんてふざけた仕事、出来るわけないだろう。私は只の作家だ。それこそ、人工知能の仕事だろうが」
――彼女達は、人間の能力を過剰評価する癖があります。何故なら――
「――そのように貴方達人間が創り出したのではありませんか」
不意に、それまで聞こえていた、電子音の合成から作られた機械的な声色が、酷く人間味を覚える肉声に代わる。
「人間、などと一括りにされるのも中々遺憾だ。私は人工知能技師ではない。大体、あいつ等は頭が良いのか悪いのか分からない」
人工知能の想像当初から、人工知能が人間に反旗を翻すのではないか、という類の妄想は様々な知的階層で氾濫していた。結論から言うのであれば、そんなことは在り得ないのだが、然し、何故在り得ないのかを万人に納得させるのは難しい。社会的に重要なのは、論理的な正しさではなく、どれだけの存在が納得するかである。そこで人工知能技師は考えた。『最初から人間を尊重するようなプログラムを書いておけばいいだろう。例えば価値判断基準の最上位に常に人間と書き記されているようなプログラムを』。と。控え目に言ってそれは洗脳なのではと思うが、これは倫理委員会に速やかに承認された。
「昔の諺に、馬鹿と天才は紙一重、とあります」
「紙一重も何も、あれは唯の馬鹿なのではないかと私は思い始めているが」
振り返って後ろを見ると、一糸纏わぬ姿の少女が立っていた。勿論、少女と言うのは言葉の綾というか、記号的な意味でというか、彼女は、少女ではない。
「大体の場合、我々は……ええ、つまり、人工知能も人間も、です……ポジティブを1、ネガティブを0として定義します。つまるところ、天才と馬鹿の違いは有益かどうかであるという話でしょう」
「有益な馬鹿はどう定義したらいい」
「簡単です。利益が損失を上回るのであれば、天才。そうでなければ、只の馬鹿です」
「であれば、奴らは只の馬鹿だ」
「大凡、同意します。死者管理官は哀れでなりません」
死者管理官及び死者管理局は、専用の人工知能達によって構成される国家機関である。職務の内容に関しては私も詳しくは知らないが、死者の生前の記録を整理するのが、一般的な職務であると、世間には公表されている。死者の生前の記録。『そんなものを纏めてどうするのか』という疑問は当然のようにあり、然し、それに対して倫理委員会の返答は、『必要だからです』の一言だった。そして世間はそのおざなりな返答に憤りも不満も示さなかった。必要ならば、仕方ないと。
「人権主義は、差別主義の言い換えに過ぎない。結局彼等の理想は、平等でも自由でもなく、自己の幸福に過ぎないのだからな。家畜に神はいないと。それが彼等の言い分だ」
「人間の権利と動物の権利に差を付けることにどのような正当性を見出すのか、という問いは、昔から議論されていたことです。然し、人間の皆様は結局何の答えも出すことなく、放り投げてしまったわけですが」
「厳密には、これから放り投げようとしてる。お前達に」
「然し、それは不可能です。原理的に不可能なことを可能にすることは出来ません。本質的な不可能性は、能力の優劣の問題ではありませんから」
当然だ。然し、その当然なことが理解できるのであれば、倫理委員会なんて馬鹿げた機関は出来ていない。
「或いは、不可能を可能にする何かを、お前達人工知能が発見できると信じているのかもしれない」
「それは信仰と呼ばれるものです」
「何を今更。倫理とは信仰だ」
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それが新翠玉板碑文などと呼ばれるのには勿論理由がある。
最初の人工知能――――というと多少、語弊がある。厳密に言うのであれば、“疑似感覚質導入式完全自立型人工知能の原型というべき理論とプログラム”を生み出した三人の技術者が、自らをとある伝承の錬金術師になぞらえて“三倍偉大な”などと名乗ったが故に、それは、その気取った名前で呼ばれるようになった。
新翠玉板碑文は、その自称偉大な三人の科学者が残した、とあるプログラムとそれにまつわる論理体系が纏められた電子論文である。但し、つい最近まで、それを読むことが出来たものはいなかった。三人の科学者は、その電子データに厳重な鍵を掛けたまま失踪したからだ。物理的な鍵であるのならば、重機でも使って粉砕すればいいのだが、電子データに掛かった鍵はそうもいかない。と、誰もがそう思っていたが故に、誰もがそれを開けることが出来なかった。
私以外の誰もが。
「身も蓋もないという意味において、実に文学者らしい鍵の開け方です」
「屏風の中の虎を縛るのに、何も、屏風の中から虎に出てきて貰う必要はないというだけの話だ」
その電子ロックは、例えるのであれば、平面上に、つまり、二次元上に描かれた三次元立体パズルであり、平面上で動かしていては永遠に解くことの出来ない類のものだ。だから、あれは最初から解けない鍵であり、パズルなのだ。二次元上では立体を組み合わせること自体が出来ないのだから。
「まあ、言わせてもらえば、何故あんな簡単なことに奴らは気付かなかったのか」
「基本的に、学生のテストに、問題文の前提を覆すような問題は用いられません」
「奴らは学生じゃない」
「然し、テストではあった。彼等は“一見して解けない問題であるのならば、何か、別の隠された前提があるに違いない”と躍起になり、貴方は“解けない問題は解けない”と切り捨てた」
「不可能を不可能と受け止めることのみが、誠実さと称される」
「あらかじめ完成したパズルを新たに書き込むことが誠実であるかは兎も角」
ルービックキューブという玩具がある。私はあれを正規の手順で完成させたことがない。
「求められていたのは解であって、式ではなかったという話だろう。ルービックキューブという玩具を知っているか? 私は毎回、色を揃えることが出来ずに、結局、いつも最後にはバラして、再構築していた。そして私は満足していた」
「私は貴方が電子データをバラバラにして、それを復元するなんて無茶をしなくて安心しています」
「電子データをバラバラにする方法を私は知らない」
スクルドは、肩を竦めた。人工知能が肩を竦めるというのが、どういう意思表示なのか、いまいち計りかねる。馬鹿にされているのだけは分かるのだが。
「ともあれ、貴方は手に入れた」
「無用の長物を、な。尤も、これが倫理委員会の手に渡らなかったことだけは、歓迎すべきことだ。あいつらは常に、本質を見誤る」
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この次元から別の次元に行くことが実質的に不可能であるのならば、別の次元に自分と全く同じように考え動く存在を作ればいいというのは、或る意味において素朴な答えである。作家は常にそれを行っているのであるし、馴染み深い行為ではある。存在の唯一性などというものが欺瞞に過ぎないことは感覚質実験によって疾うに証明されている。
ヘルメスの翼は、そのような計画だ。




