零の門② 二の鍵
「ごめ……なさ…い…」
その弱々しい呟きが僕の妻、晴陽さんの最期だった。
表情は隠し通せない悲しみを帯びた笑顔。柔らかく結んだ目尻からは、抵抗を失った雫がこぼれる。
それでも苦痛を確認することが出来ないのは、頼りない僕をいつも支えてくれた彼女らしいと思えた。
「落ち着いて下さい、晴樹さん。双葉ちゃんにそんな姿を見せてはいけません」
晴陽さん以外のことなど忘れて泣き喚く僕に、医師と看護士の檄が飛ぶ。
「パパ、どうしたの?」
晴陽さんのベッドに伏せっていた双葉が、目をこすりながら僕の顔を不安そうに見上げている。
ああ。
そうだ、僕はパパなんだ。
双葉のこの世でただ一人の親になったんだ。
その事実が、僕の平静を保つと共に、悲しみを増幅させてしまう。
「……双葉、ごめんね。パパは弱虫なんだ。ママがお空に旅立ったことがどうしても悲しいんだ」
我ながら弱い人間だと思う。
娘の前で父として強がりの一つも言うことが出来ないのだから。
そんな自分の情けなさと、再び押し寄せてくる晴陽さんを失った悲しみに、娘の目の前で涙を流してしまう。
泣き顔だけは見られぬよう顔を手で覆う自分に、少しだけ感心した。
「知ってるよ」
泣き声を飲み込む。
濡れた両の手ごしに、双葉の屈託のない笑顔を垣間見る。
「お母さんが言ってたの。お父さんは双葉の前で無理しちゃうって。だから、ママがいなくなったあとは、双葉がパパを支えて欲しいって………」
「…だから…双葉はいつも……笑顔で、笑顔でいなきゃ……いけないんだああああああ」
糸が切れたように泣き出した双葉を、手繰り寄せるように抱きしめた。
胸が温かくなる。
娘の存在が、僕たちを想って流した涙が、僕の心を暖めてくれる。
晴陽さんが残したもの、晴陽さんにとって大切だったもの。
それは僕にとっても大切なもの。
泣いてばかりはいられない。僕一人でも守らなければいけない。
娘を置いて旅立つ辛さに押しつぶされそうな中でも、気丈に振る舞った晴陽さん。
そんな母に似て、人のために無理が出来るようになった双葉。
僕も、強くならなければいけない。
そう心に決めた僕の目に映った晴陽さんの穏やかな寝顔。
その眼元から続いていた涙は、すっかり乾いていた。
カンカンカンカン。
小気味よい音が耳を突く。六畳一間のボロアパートの前に存在する金属製の階段を上る音だ。
汗の不快さと対照的なその音の正体に気づき、西日を浴びながら目を覚ます。
「ただいま。お父さん大丈夫?少しは熱下がった?」
いつもよりも早い帰宅。
下校時間が早いとは聞いていないため、おそらく小学校から家まで真っ直ぐ走って帰ったのだろう。切らした息もそれを物語っている。
「大丈夫だよ。明日は仕事に行けそうだッ」
僕の言葉を待たずに、双葉が額を合わせてくる。
軽い頭突きのような行動に、身体のだるさも相まって気圧されてしまった。
「熱、下がってない、大丈夫じゃないよ。…身体拭くからゆっくり服脱いでて」
無理をあっさり見破られるのも何度目だろう。
晴陽さんの教えのためか、双葉の前で僕の無理は通らなくなってしまっていた。
帰って来たばかりだというのに、タオルを用意するついでに洗濯物を取り込み、着替えをあっという間に終える双葉。
晴陽さんが亡くなって7年。
小学5年生になった双葉は、本当に立派に育ってくれたと思う。
「今日の晩御飯はおかゆにしようね。友達から卵と鰹節を入れたらおいしいって聞いたんだ。…卵が切れてたから買ってこなきゃいけないけど、絶対美味しいはずだから楽しみにしててね」
「いや、味にはこだわらなくても…」
「ダメ!お父さんには美味しいものを食べて元気になって欲しいもん」
父親想いも相変わらず。
僕の身体を拭きながら唱えられるおかゆのレシピに、腹の虫が遅れて目を覚ます。
そんな僕の姿に、一層気持ちの入った双葉が、晴陽さんの使っていたトートバッグを持って玄関に向かう。
そうしていると、未だ幼い双葉に晴陽さんを重ねそうになる。
短く整えられた髪形や、暖色の服を好むのも、数少ない晴陽さんの写真の影響だろう。
「テーブルの上にお水とお薬を置いてるよ。服を着てから飲んでね。ご飯までは時間もあるし、少しでも寝たほうがいいよ」
そう言い残して玄関の戸を開ける双葉。
本当に良い子に育った。
娘の成長という父親にとってこれ以上ない幸せを噛み締めながら、薬を飲み、もう一寝入りのために布団へもぐりこむ。
「明日からは頑張ろう」
最近は娘のためと頑張りすぎた。その結果娘に心配をかけてしまうようでは父親失格だ。
この体調不良は神様がくれた反省期間だと思うのが良いだろう。
今度の休みには双葉を遊園地にでも連れて行ってあげよう。いや、どこかの動物園でパンダが産まれたんだったかな。いや、それよりも………
良い感じに瞼が重くなってきた。
弱まった西日の熱が心地好く身体を照らす中、次に起床を促すはずのおかゆの香りに期待を膨らませて意識を閉じた。
カンカンカンカンカンカンカンカン。
ドンドンドンドン。
2、3時間という長いのか短いのか微妙な睡眠時間を途切れさせたのは、夕方とは打って変わった騒々しい音たちだった。
部屋が暗い。窓から指す日の光が無くなっているのだから当然である。
洗濯物が山のまま。畳んでいないならば当然である。
おかゆの香りがしない。台所に誰も立っていないのだから当然である。
僕が起きちゃいけないから、電気をつけなかったのだろう。
腹をすかせた僕のために、洗濯物の片づけは後回しにしたのだろう。
じゃあ、気配りの上手なその子は…
ソウダ。カイワスレタモノガアッタンダ。
僕の…
タマゴカナ?ヌケタトコガアルノモハルヒサンニニテイル。
僕たちの大切な…
「やっと開けてくれましたね。蒼井さん、落ち着いて聞いて下さい!■■ちゃんが………蒼井さん…?」
フタバハドコダ?
「お父さんは相変わらず泣き虫さんだね」
久しぶりに見たその姿に、その声に、嗚咽が止まらない。晴陽さんが亡くなった時に引っ込めた涙は、双葉のために流し切ったものだと思っていたのに。
本当に恨めしい。こんな汚い姿では、娘を抱きしめられないではないか。
「……双葉、ごめんな。パパはやっぱり弱虫なんだ。嬉しい時に笑うことも出来ないんだ」
「知ってるよ。だから、私が代わりに笑ってあげるの」
双葉が浮かべるのは見るからに辛い笑顔。
僕の代わりに涙をこらえ、訳の分からない状況でも凛と振る舞おうとする姿勢。僕を支えることを意識して成長してしまったがための呪いだ。
娘の呪いが解けない原因は、父親である僕自身。
双葉に優しく抱きしめられる。
晴陽さん、どうか、こんな情けない僕に、少しだけ勇気をください。