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テンキー  作者: 鍵田紗箱
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零の門① 一の鍵

 大切な人。

 俺の中でその言葉にピタリと当てはまる人物は、幼馴染の天川苺(あまかわいちご)だけだ。

 天地大輔(あまちだいすけ)という俺の名前と合わせ、あまあまコンビだなんて呼ばれていたくらいには仲も良かった。

 多分、両思いだったと思う。

 そんな大切な人が、大切だった人になってしまった日を、俺は今でも忘れることが出来ない。

 

 話は変わるが、大切な人が亡くなるとしたら、その死に目に逢いたいと思うだろうか。

 以前の俺なら、イエスと答えたのかもしれない。

 だが、今の俺は、迷いなくノーと答えてしまうのだ。


 





「うえ~ん、大ちゃ~ん、また追試がいっぱいだよ~」


「はぁ…だと思ったよ。あんなに一緒に勉強したのにな」


「その成果はあったよ!前のテストより、全教科10点くらいは上がってたもん」


「10点上がったって言っても、前回の苺の点数、一桁ばっかだったじゃないか」


 苺はこう言ってはなんだが、かなり学校の成績が悪かった。勉強が嫌いとか、素行が悪いとか、そういったことは全くなく、ただ単純に要領が悪かったのだ。

 

「はいはい、泣かないの。苺の追試指導係は私たちが担当するからね~」


「出来の良い天地君には、私たち追試組の気持ちなんて分かんないだろうし~」


 しかし、天然やドジと捉えられがちな苺の性格は、可愛らしいとして受け入れられていた。

 愛玩動物に近い扱いだったものの、苺の周りには、世話焼きのクラスメイトがいつだって集まっていた。

 今にして思えば、俺の存在も大きかったのかもしれない。

 自分を過大評価しすぎかもしれないが、俺はいわゆるクラスの中心人物だったのだ。

 そういった人物は、スポーツが出来て少しばかり性格が良ければいい。

 俺は上手いことその枠に当てはまっていた。

 

「あ、あの、大ちゃん…」


「分かってるよ。部活が終わったら迎えに行くよ」


「うん!それまで頑張るね!」


 苺もそんな俺の近くをうろちょろしていたため、中学生までは可愛がられていたのだろう。 

 中学生まで。そう、中学生までだったのだ。







「あの娘、『大輔君と一緒の大学に行くために勉強頑張るんだ』って。高校に入学したばかりの頃は、そんな電話ばっかりだったのに…」


 そう言って、黒で統一した衣装のおばさんは泣き崩れた。異変に気づけなかった自分自身を、責めても責め切れないのだろう。

 早い話が、高校で別々になった苺は、入学してから酷いいじめにあっていたらしい。

 距離のある高校に入学するしかなかった苺は、入寮するという選択肢を取らざるを得なかった。そうなると、苺の様子に気づくのが遅れてしまう。

 だから、おばさんは悪くない。

 悪いのは、自分のことに手一杯で、苺のことを考えもしなかった俺の方だ。

 あの日だって、「久しぶりに顔を見せたら驚くだろうな。…あいつ、どんな顔を見せてくれるんだろう」なんて、陽気に苺に会いに行けたぐらい、苺の現在を知らなかったんだから。







カチャカチャ…ガチャン………


 ノックをしても、呼び鈴を鳴らしても、一向にドアが開く気配はない。

 久しぶりの再会を前に、痺れを切らした俺は、寮母さんから頂いた鍵を取り出す。

 

「あらあら、天川さんの彼氏?」


「彼氏じゃないです。ただの幼馴染です」


「ふーん、まあ幼馴染でも彼氏でも何でもいいわ。天川さん、あまり学校に馴染めてないみたいだったから、知り合いに会ったらとても喜ぶと思うわ」


「…あいつ、馴染めていないんですか?」


「多分ね。長いこと寮母なんてやってる私の勘だけど。まあ、これ渡しておくから盛大に驚かしてあげなさい」


 数分前の出来事。

 幼馴染だからと簡単に鍵を渡す寮母さんに疑念は沸いたが、そのおかげでこの開かずの扉をこじ開けられるのだから良しとしよう。

 今日は夏休みのど真ん中。長距離の移動と興奮で汗まみれの身体に、クーラーの涼しい風が襲い掛かることを期待してドアを開ける。


「………?」


 おかしい。

 日当たり良好な廊下よりもぬるい空気が、部屋から漏れだす。

 それと同時に、鼻をついてくる悪臭。腐敗臭よりも、糞尿の類によって香る臭い。

 臭いを外に漏らしてはいけないと、無意識のうちに部屋の中へと入った。


「うっ………」


 一段と増した臭い。玄関から目の届く洗い場にその原因は見えない。

 だとすれば、最も疑うべきはトイレだろう。

 しかし、そんな考えより優先すべきものがあった。

 こんな劣悪な環境で生活することが出来る人物。

 もしも、トイレを確認して何もなかった時、その予感は確信へと変わってしまう。

 だから、まだ無理をして笑顔を作れるうちに、苺と笑って再会が出来るうちに、その予感を裏切るために、部屋の奥へと足を運んだ。

 部屋の暑さも感じないのに、汗が噴き出す。

 臭いはきつくなる一方なのに、足が止まらない。

 再会への興奮のためか、鼓動が早くなる。

 痛くもないのに、足を引きずってしまう。

 まだ笑えているだろうか。

 泣いてはいない気がする。苺の前で泣くなんてみっともない真似は出来ないからな。

 今にして思えば、この時すでに、最悪の結末を想定出来ていたのだろう。いい加減自分の陽気さにも嫌気がさし、物事に対する冷静さが生まれていたのかもしれない。

 それでも、初めて目撃するはずのその姿を、想定することなんて出来るはずがなかった。

 

「――――――――――ッ」


 それが当然の反応であるように、絶叫し、嘔吐した。

 吐瀉物の臭いをかき消すほどの部屋の臭いが、さらなる吐き気を誘った。

 膝をつく。叫ぶ。嘔吐する。

 床に広がった吐瀉物以外の液体が、我先にとズボンに浸食していく。

 それをただ気持ち悪いと感じ、液体に反射するぼやけた宙吊りの存在に、ただただ恐怖を覚えた。

 ここから逃げよう。

 咄嗟に芽生えた思考を、床に転がった椅子が邪魔をする。

 足を取られ、再び床に転がった俺の目に、苺だったものが映る。 

 身体の全ての筋肉が弛緩し、自分よりも高い位置から見下ろしているソレに、やはり恐怖以外は生まれなかった。

 うっ血も出血も見受けられない大切な人の顔が、今までで一番醜いと思った。

 首吊り自殺。

 やり方さえ間違えなければ、一番簡単で楽な死に方とされるソレは、大切な人を最もシンプルに、醜い存在へと変えてしまう方法だと思った。











 あの日の光景を、何度忘れたいと思っただろう。

 どんなに願っても、脳裏にこびりついて剥がれない。

 そのせいで、苺との大切な日々を思い出すと、いつだってあの最悪な光景が上書きしてしまう。

 最悪な記憶。

 でも、それで良かったとようやく思えた。

 あの日の記憶があるから、今こうして再び出会えた天川苺を、大切な人と認識せざるを得ないのだから。


「好きだ、苺」


 「気持ち悪い」に代わる言葉。

 よりにもよってあの日と同じセーラー服姿の苺。下着もおそらく、年齢に不相応な、それでいて人間性にはふさわしいいちごパンツのままだろう。

 髪形だけはどういうわけか切り揃えられてる。

 見た目の変化に関係なく、苺は今でも、俺の大切な存在でなければならない人だ。

 俺の中に苺を繋ぎとめているのは嫌悪感と罪悪感。

 出来ることならあの日の記憶を塗り替えたい。今度こそ守ってやりたい。

 もう一度確かめたい感情を乗せた、伝えることが出来なかった言葉に決意する。

 俺に対して後ろめたい思いがあるのか、生き返ってから一定の距離を置いたまま口を開かなかった苺。

 そんな苺の瞳から零れ落ちる大粒の涙。

 慰めることも、優しく抱き寄せることもなく、開いた距離のまま苺の答えを待った。


「…グスッ………私も!」


 そして俺たちは、最悪を塗り替えるために、戦うことを決めたのだ。

 



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