第三十七話 監督の策略
『虹の空に』のクランクインから、
早1ヶ月。
撮影は順調に進んで…
と言いたいけれど。
「カーット!!
衣里(聖音の役名)、
何度も言わせるな!
それが好きな人にする態度か!?」
今日も監督の怒声が響く。
「すいません…」
「10分休憩!
その間にちゃんと役に入れ」
「はい…」
実は順調じゃない。
他のシーンは、
ほぼNGなしで撮り終えるのに、
貴臣さんとの絡みのシーンだけは、
100%NGを出してしまう。
嫌いという態度が、
どうしても勝って、
演技に出てしまう。
この人を好きなのは私じゃなくて、
衣里なんだと、
言い聞かせても、
いざ本番になると…
柊じゃなくて、
貴臣さんだと思ってしまう。
私の大嫌いな人だと。
「…聖音」
「京華…私、
ダメかもしれない」
今まで、
全くNGを出さなかった訳じゃない。
ちょっと噛んだとか、
言葉間違いとか、
そんなのはよくあった。
だけど…
ここまで役になりきれない事はなかった。
初めてぶつかった壁は、
乗り越えられないかもしれない。
この役、
降りた方がいいのかな。
「そんな弱気でどうするの!
衣里はそんな子じゃないでしょ」
「京華…」
「最後まで闘いなさい。
受けた仕事は、
どんなことがあっても、
最後までやり遂げるの。
聖音が貴臣さんを嫌いでも、
衣里は柊が好きだったの」
「わかってる。
頭ではわかってるの…」
わかってるのに、
出来ないから、
余計に辛い。
「…聖音」
その時だった。
「衣里、柊、
ちょっと来て」
いきなり、
渋沢監督呼ばれた。
「ごめん、
行ってくる」
京華にそう言って、
渋沢監督の所に向かった。
「…君たち2人、
これからデートしてこい」
「えっ!?」
聞き間違いじゃないよね?
仲の悪さを知ってて、
言ってるの!?
「今日の残りの撮影は、
君たち抜きの場面を撮るから」
「待って下さい、監督!!
なんで貴臣さんと…」
「言いたくないけど聖音ちゃん、
それが全部演技に出てるんだよ。
衣里は幼なじみの柊が好きなんだ。
なのに、
幼なじみの仲良さも、
その奥に隠された恋心も、
全く伝わってこない。
だから、
ちゃんと演じられるように、
距離を縮めてくるんだ。
それが嫌だというなら、
衣里の役は降りてもらう」
「………」
何も反論出来なかった。
だって、
監督の言うことは間違ってない。
「今日はそのまま上がっていいから」
「…わかりました。
失礼します」
私は監督に頭を下げて、
京華の所に戻った。
「京華、ごめん、
帰るね…」
「え、ちょっと…」
「ごめん!!」
京華にそれだけ言って、
私は撮影所の外まで走った。
…衣里の役は降ろされる。
女優としても、
もう終わりかもしれない。
ため息をついて、
とぼとぼ歩いているときだった。
「………!!」
急に腕を掴まれて、
ばっと振り返ると…
貴臣さんがそこにいた。
「…ちょっ……待て…って」
息づかいが荒くなっている。
走ってきたんだ。
…私を追って。
「やだ…離して」
「お前…それでいいのかよ。
仕事を投げ出すのか!?」
貴臣さんは今まで見たことがない、
真剣な眼差しだった。
「…しょうがないでしょ。
私には衣里を演じられない」
私がそう言った瞬間。
バシッ!
乾いた音と同時に、
頬に電撃が走った。
「甘ったれんのもいい加減にしろよ。
これは、学芸会じゃないんだぜ?」
そう言った貴臣さんは、
全くの別人のようだった。
「………」
「…お前はそんな、
生半可な気持ちで、
女優をやってんのか?
ただの遊びで、
女優になったのか?
違うだろ!?」
「…………」
「お前は七光りだけで芸能界に入った、
そこら辺の2世タレントとは違うと思ってた。
でも一緒だったみたいだな」
貴臣さんの言葉は、
胸に突き刺さった。
失敗してもいいからやってみようと思って、
始めた女優のお仕事。
確かに最初は好奇心だけだった。
でも今は……
ちゃんとお仕事だと思ってる。
お金を貰って、
私じゃない誰かになる。
もうそこには、
遊びなんて気持ちはない。
なんか…腹が立ってきた。
「…投げ出す?
そんな訳ないでしょ!!
いいわよ!
デートでもなんでも、
やってやろーじゃん」
それは宣戦布告だったんだけど…
貴臣さんは、
にやっと笑って、
いつもの貴臣さんに戻った、
「じゃあ早速、
どこ行こっかなー」
「なんなの!?」
掴んだままの私の腕を、
ぐいっと引っ張って、
歩き始めた。
「ひっぱたいて、ごめんね。
聖音チャン。
お詫びにおしるこ、
ご馳走するからさ」
そう言いながら、
少年のように、
にかっと笑った。
…不覚。
こんな人にドキッとしてしまうなんて。
だけど…
見直した。
この人は、
俳優という仕事に、
真摯に向かい合ってる。
ただのチャラ男かと思っていた。
あんな事する人だし。
でも…京華の言うとおり、
あれが本気だったら?
だとしたら、
私も本気で答えなきゃいけないよね。
音緒ママの言うように、
ちゃんと向かい合ってみよう。
―――渋沢監督の策略に、
まんまとはめられる形で、
私の貴臣さんに対する気持ちは、
この日を境に、
徐々に変わり始めた。
…だけどまだ、
これは恋じゃない。