第三十五話 幼い頃の約束
「もう最低っ!!」
初日の撮影を終え、
帰宅した私の第一声。
疲れたよりも、
ずっとこっちのが大きい。
「お帰り、聖音」
「ただいまっ!」
私は乱暴に靴を脱ぎ捨て、
ソファーに寝そべった。
「どうかしたの?
今日クランクインだったんでしょ?」
音緒ママが、
お皿を拭きながら言った。
「…プロポーズされた」
「ふーん、プロポーズねぇ…
って、プロポーズ!?」
音緒ママは、一瞬流しかけて、
盛大に驚いてくれて、
ついでに拭いていた皿を落として割った。
「お気に入りの皿だったのに…」
破片を丁寧に拾いながら、
凄く残念そうに言った。
「ごめん…」
なんかごめんなさい。
…今度のオフに、
同じの買ってこよう。
「そんな事より、
プロポーズっていきなりじゃない。
聖音、
彼氏いたの?」
「いないよ、そんなの。
彼氏にされたんなら、
こんなに怒らないから。
初対面の変な男に、
俺と結婚しろ、ってさ。
絶対あり得ないしっ!!」
思い出したら、
また腹が立ってきた。
もう一発くらい、
食らわしてやればよかったな。
むしろ平手じゃなく、
グーパンのがすっきりしたのに。
「初対面で!?」
「そうだよ。
貴臣侑人って、
音緒ママは知ってる?」
「貴臣…?」
貴臣さんの名前を出した途端、
音緒ママの態度が変わった。
「え…知ってるの?」
「………」
音緒ママの目が完全に泳いでる。
これは何か隠してる。
「音緒ママ、
何か知ってるの?
だったら、ちゃんと話して」
音緒ママは、
お皿の片付けを止めて、
ソファーに座った。
「…わかった。
実はね…侑人くんは、
聖音の婚約者だったの」
「はぁぁっ!?」
嘘でしょ!?
あんなのが私の婚約者!?
…あれ、待って。
だった?
過去形?
じゃあ…今は違うのよね?
だったら何で貴臣さんは、
あんな事…。
頭が混乱してきた。
「一体どういう事なの?
婚約者だった?
わかるように説明して」
「…あの約束を、
侑人くんはまだ、
覚えていたのかしら」
音緒ママは、
そんな衝撃的な一言から、
ゆっくり話し始めた。
「実はね…聖音を産んだとき、
貴臣さん…侑人くんのお母さんと、
ベッドが隣だったの。
あんまり知られてないと思うけど、
侑人くんには、
聖音と同い年の弟がいるわ。
しかも、
誕生日が3日違い。
貴臣さんは帝王切開だったから、
私より入院日数長くて。
それでよく話をしていたの。
先輩ママだし、
本当に色んな話をしたわ。
当時6歳だった侑人くんは、
おばあちゃんに連れられて、
毎日病院に遊びに来てたの。
その時に赤ちゃんの聖音を見て、
『大きくなったら、僕のお嫁さんにするんだ』
って言ったの。
貴臣さんはも私も冗談だと思ってるし、
軽い気持ちで、
じゃあ幸せにしてあげてねって言ったのよ。
だから婚約者なんていっても、
真似事遊びみたいなものよ。
…あれから20年も経ってるし、
聖音を養女に出したこともあって、
忘れていたんだけど。
まさか…ね」
そんな小さな頃に会ってたの?
っていうか…
もっと考えて返事してよ。
じゃなくて。
それを貴臣さんは覚えていたってこと?
20年も?
そんな小さな頃の事なんて、
私は全く覚えてないよ。
「…ごめんね、聖音」
「ううん…音緒ママが謝ることはないよ。
でもちょっと驚いた」
初対面だと思ってた人と、
そんな出会いをしていたなんて。
「プロポーズ…前向きに考えてあげたら?」
「えっ!?」
この人…娘を売る気だ。
「今彼氏いないんでしょ。
そんな運命の出会い、
そうそうないわよ?」
「もう音緒ママってば!
勝手に運命にしないでよ」
そうだよ。
運命の人ならきっとわかるもん。
だけど、
貴臣さんは違った。
心がそういってる。
だから…あの人がどう思ってたとしても、
私には関係ない。
私はあの人が好きじゃない。
それが全てだもん。
「…一度、
ちゃんと話してみたら?
聖音が思うほど、
嫌な人じゃないかもしれないよ。
安心して。
無理に結婚しろなんて、
言わないから」
「…わかったよ。
もう寝るね」
私は音緒ママにそう告げて、
自分の部屋へ行った。
ベッドに潜り、
ぐるぐる考えている内に、
いつの間にか眠っていた。
そう言われても、
20年前の事なんて、
私は知らないし。
(聞かされただけで)
貴臣さんの第一印象は、
どうしても最低男だもん。
演技でもないのに、
好きでもない人にキスされるなんて、
最悪。
しかもあんなのと、
幼なじみ役なんて。
…気が重い。
―――翌朝。
京華からの着信で目が覚めた。
「…もしもーし……」
「ちょっと聖音、
聞いたよっ!
貴臣さんとキスしたって、
どーゆー事っ!?」
京華が大声で叫んだから、
耳がキーンとした。
おかげで完全に目が覚めた
そうだった…。
京華も『虹の空に』出るんだった。
今日の撮影から来るんだっけ。
というか、
どこで聞いたんだろ…。
情報早いなぁ…
「…もう少しボリューム下げてよぉ」
「あ…ごめん。
でも…どういう事?
貴臣さんと初対面だって、
言ってたよね?」
「こっちが聞きたいよ…
ほんと意味不明だし。
今日の撮影行きたくないよぉ」
「聖音、ちゃんと説明してもらうから。
絶対おいでよ?」
「はい…」
「じゃあ、後で」
そう言って、
電話は切れた。
今日の京華、
すっごく怖いんですけど…。
なんでそんなに…
つーか、
私は悪くないよね??
あっちが勝手に…だよ?
はぁ……。
京華に相談しようかと思ってたけど、
赤ちゃんの時に会ってるなんて、
絶対言えないわ。
うっかり言っちゃったら、
殺されかねない剣幕だったし。
でも絶対、
今日は問い詰められるなぁ。
更に気が重くなった。
「でも…主役だし、
行かないわけにもいかないよね…」
私はベッドから起きて、
リビングに向かった。
誰もいない、
静かなリビング。
ダイニングテーブルの上には、
音緒ママの書き置きがあった。
『聖音へ
よく寝てたので、
起こさずに行きます。
長く留守にするけど、
ちゃんとご飯は食べること。
じゃあ行ってきます
ママより』
やば…昨日のあれで、
すっかり忘れてた。
今日から2人は、
スイスの交響楽団とリサイタルで、
2ヶ月いない。
見送りしようと思って、
撮影の入り時間を調整してもらったのに。
急いで部屋に戻って、
電話を掛けた。
「もしもし、音緒ママ!?」
「あら、聖音。
おはよう」
「ごめん、寝坊しちゃって。
もう空港?」
「ちょうど着いたところよ。
それより、
ちゃんとご飯食べて、
しっかり休むのよ?
聖音は何かあると、
ご飯食べないから、
それだけ心配」
ごめん、
二十歳になってもまだ、
親にそんな心配させる娘で。
「ありがとう。
大丈夫、ちゃんと食べるから。
行ってらっしゃいって、
それだけ言いたかったの」
「わざわざありがとう。
聖音も撮影頑張るのよ?」
「ママ達もね。
あ、聖斗パパにも言っといてね?」
「はいはい。
じゃあもう搭乗手続きに行くから」
「うん、じゃあ…」
電話は呆気なく切れた。
行ってらっしゃいと、
心の中でもう一度言って、
私はスマホを机に置いた。
それから、
自分の頬をぱんぱんと叩いて、
気合いを入れた。
しっかりしろ、聖音。
そう言い聞かせて、
バスルームに向かった。