王女と黒い影
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満月は雲に隠れ、暗闇と静寂が満ちた。
聞こえるのは梟の遠い声。それだけだ。
彼のひとは窓辺に立ち、何も見えない風景を視線でなぞり描いているようだった。
もし、その絵が見えるなら、黒天鵞絨にその髪の色の様な金糸で描かれた見事なものに相違ない。
幽かな衣擦れの音。蝋燭の灯りの中で栗色の髪の侍女が静かに傅く。
王女お付きの侍女長、エヴァだ。
「姫様、風が冷えてまいりました。窓の鎧戸を閉めさせて頂きます」
「待って、もう少しこのままでいさせて」
その姿と同じく美しい声。齢十五の姫君はこれまで一度たりとも日の光りを浴びた事のない透き通る程の白い肌をしている。.
「父上と母上は何故、逢いに来てくださらないの?」
寂しそうに云う彼女。侍女長・エヴァは思わず口ごもった。
「王様と王妃様は最近催し物が多く御疲れのご様子。もう少しだけ辛抱なさいませ、姫様」
ブロンウィンはその、青い水をたたえた湖のような瞳を伏せ溜め息混じりに云った。
「嘘を云わないで頂戴。私、この城で何が起こっているか知ってるのよ」
侍女長の表情が凍りつく。
城の者達が皆、口を固く閉ざし、どうか姫君の耳には入れぬ様にと隠し通して来た事を知っているのか?と。
「考え過ぎでございます、この後歴史の御勉強がありますゆえ、お支度なさって下さい」
忙しい振りを装い、話を変えてみたが、彼女の心臓は激しく波打っていた。
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「この国が一度滅びた国だと云う事は前回お話ししましたね。では……」
歴史を教えるのは、大臣のゲーリング。
何故この男が大臣など出来るのだろう?と思える程の貧相な風体をしている。
衣だけがやけに立派なものだから、貧相な顔が余計に目立って仕方ない。
それでも、頭は良く、この国の歴史なら王よりも詳しいと云われている。そのゲーリングに
「大臣、ヴェロアが一度滅びた原因ですが、前回の講義だけではまだよくわかりません」
と、質問でわざと困らせるブロンウィン。
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「アズウェルとの戦に負けたからです。しかし、アズウェルは奪い取った領土を支配下に置きながら半世紀も捨て置いた。それはなぜか」
「呪われた土地だから」
間髪を入れずにブロンウィンが答えた。
彼女はもどかしくて爪を噛む。
そもそも、その“呪い”とは何なのか。
その正体を煙りに巻いて何が歴史だ。
「そちらの方は……私は専門外ですので、歴史上の事実のみをお教え致しております」
歴史、しきたり、礼儀作法、読み書き、算術、王女が覚えなければならない事は山程ある。
しかし、ブロンウィンは思った。
……自分の本当に知りたい事は誰も教えてくれない……と。
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歴史の授業が終り、大臣が立ち去って間もなく、王女の部屋の扉を軽く叩く音がした。
「姫様、私です。オルガです」
「待ってたわ、はやくお入りなさい」
入って来たのは侍女の装束を纏った年端もいかぬ黒髪の少女だった。
オルガと呼ばれたその少女は一番下っぱの侍女だ。
「姫様にお土産です。今街で流行っている焼き菓子。御使いの帰りに買って参りました」
「まあ素敵、一緒に頂きましょう」
ブロンウィンが彼女の訪問を心待ちにしていたのは城の者に内緒で菓子を持って来てくれるから……だけではない。
この侍女・オルガは大変な任務をブロンウィン王女に仰せつかっているのだ。
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「あれから、王様はやはり一歩も御部屋から出て来ません。お付きの者の話によると、覇気が無く、寝るでも起きるでもなく日がな一日寝台の上で天井を見ている有り様だそうです」
「ああ……やっぱり……ここ数年父上のご様子が変だったのは、思い過ごしでは無かったのだわ」
「王様ばかりではありません、王妃様も御公務が忙しいせいか、以前は私どものような下の者にも気軽にお声を掛けて下さったというのに」
そこまで云うとオルガは、はっとして、口ごもるがブロンウィンは
「いいわ、続けて、」と促した。
「王妃様はすっかり変わられてしまいました。なんというか……その……以前の優しい王妃様ではありません」
オルガは王女ブロンウィン本人に頼まれたとは云え、暗い報告ばかりをしなければいけない事に気が重くなった。
ブロンウィンが気を病んでいるだろう事は、こんな小娘でも解る。
自分の実の親達が悪いように変貌してゆく様をこの姫君はどんな気持ちで聞いているのだろう?
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「オルガ、次に来る時は城の地下にある書物を持って来て欲しいの」
「どんな書物でしょう?」
「ヴェロアの歴史の本よ。表紙に竜の絵が描かれているからすぐ分かるわ、きっとゲーリングが教えて暮れない王国の秘密が書かれていると思うの」
この王女は変貌してゆく王国を、目に見えぬ黒い影に覆われつつある王国を、たったひとりで救おうとしているのだ。
オルガはうち震えた。
これから起ころうとしている事に。
そして、この若過ぎる王女の勇気と気高さに。




