月下の誓い
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草が風に吹かれ、草原はまるで緑の海のように見えた。
馬上ではシーグがアーレフの群青の衣にしがみついている。
血の繋がりは無いとは云え、育ての親を亡くしたばかりの少女に何と云っていいか判らず、アーレフはずっと黙ったままであったし、シーグもまたこれからの自分のいく末を案じているかのように始終静かだった。
城へ行けば殺されるのは必至。だがゲバルトは確かに、この小さな少女に“真実を知れ”と云ったのだ。“自分の還るべきところへ還れ”と。
王の乱心さえ治まってくれたら……もとの心優しき王に戻ってくれたなら、生きたままのシーグ、否、シーグリンデ王女の帰還は喜ばしい事になるに違いない。
夕日が沈み、暗くなる空と同じように、騎士は自分の心が暗く、重く、冷たくなるのを感じた。
―ヴェロア王は首を持って帰れ。と―
何者かが囁く声が聞こえる。
―その小娘の首を刎ねるだけだ。造作もない容易いこと―
また、誰かが囁く。
辺りを見回しても誰も居ない。
それもその筈、この声はアーレフの心に直接語り掛けているのだ。
……そうだ。
王の命令はこの者の首を持って帰る事だった。
盗賊ふぜいに心を許し、あまつさえ、この呪われた双子の王女の片割れが死なずに済む方法を考え倦ねている自分が滑稽に思えて来た。
背中に掛かる重さと暖かさの主が、急に忌々しく思えて仕方なかった。
―その者さえ居なければ、そなたの母も死なずに済んだであろうに―
その囁きを聞いた時、アーレフの心の中の何かが壊れた。
人ひとり横たえる事の出来そうな岩が有った。
月明かりに照らされたそれは寝台のようにも、悪しき邪教の祭壇の様にも見える。
アーレフは、馬から降りると、意識を失ったシーグをそこに寝かせた。
そして、シーグの長剣を手に取る。
「終わりにしよう」誰に聞かせるでも無く騎士は呟いた。
「苦しまない様に一撃で決める。許せ」
シーグの細い喉元に、長剣の刃を当て狙いを定める。
こんな大層な剣など使わなくても、素手で折れてしまいそうな華奢な首。
仕損じるな、仕損じれば苦しめる。死にきれない痛みでのたうち回る様は地獄だ。
斬られる側は勿論、斬る方もだ。
群青の騎士は全神経を研ぎ澄まし、剣を振り上げた。
その時、一条の光が、アーレフの目を眩ませた。
研ぎ澄まし、はりつめた神経が弛緩する。
「お止めなさい。その者を殺めても呪いは解けぬ」
美しく、透き通った子供の声だ。
その声に驚いたのか、アーレフの耳から何かが這い出て来た。
小さな、黒い蜥蜴。
「その悪しき者が語り掛けそなたの心を歪ませたのだ、騎士よ」
声の主は光の衣を纏った少女……否、七才程の小さな子供だ。 夜空を背に浮かんでいる様は、まるで天使のよう。
「騎士アーレフよ、妾の云う事をよく訊くがよい。本当に呪われているのは、この双子の王女達ではない」
“悪しき者”が逃げ去ったせいか、神々しく美しい人ならぬ者の後光に照らされたせいか、群青の騎士は我に返り、自分のしようとした事に驚愕した。
「貴女は一体……」
不思議な光景であるにも関わらず、禍々しさは微塵も感じられず、それどころか心が安らいで頭が冴え冴えとする。
「今は名乗れぬ、しかし心して置くがよい。妾はそなたたちを見守る者。そして、ヴェロアを守る者」
波打つ金髪や目の色はブロンウィン王女に似ているような気がする。
「教えてください、私は何をすべきなのでしょう?ヴェロアを救う事は出来るのでしょうか?」
こんな一介の騎士に何が出来るのだろう?アーレフは高貴なる魂を持つ光り輝く子供の言葉を待った。
「案ずるな、双子の王女達自らがヴェロアにかけられし呪いを解く。そなたはその手助けをしてくれればよい。王女に忠誠を誓い、供に戦ってくれればよい」
そう云うと、その小さく細い人差し指を、アーレフの胸甲の心臓に当たる部分に向ける。そこは丸くレリーフに囲まれ、鏡の様になっている。一瞬だが、まばゆい光が騎士を包んだ。
「そのミスリルの胸甲の心臓部分に映らぬ者は“悪しき者”。覚えて置くがよい」
それだけ云うと、光輝く子供は天に昇るように光の粒になり消えて行った。
取り残されたアーレフの傍らには月の光を浴びて眠るシーグ。
忠誠を誓う……
王ではなくこの少女に。
アーレフの唇の端が少しだけ綻んだ。はりつめた糸が、凍り付いた心が、緩み、溶けたかのようなそんな気持ちになったからだ。
やおら騎士は衣住まいを正すと、シーグに向かって跪いた
「月よ、この儀式の証人に。騎士アーレフ・ローゼンマイヤーはシーグリンデ王女に忠誠を尽くす事を誓う」
勿論、シーグは聞いていないだろう。
それでも騎士は、自分自身に言い聞かせるように厳かな誓いの儀式を執り行った。
崇高な使命を果たす為に。
夜空には数多の星と月が輝いていた。




