公孫樹
浮き城 ―――― 。
その名はかつて、豊臣秀吉の水ぜめに合ったゆえ。
真っ白な城郭の隣には大銀杏、それだけは当時と変らない。
悠久の時を超えて、大樹は一体何を見てきたのであろうか。
温暖化と叫ばれても、寒い冬は確実にやってくる。
冷たさを増した風に美月は襟元のマフラーをぎゅっと両手で抱きこんだ。
石畳の道。
ようやく訪れた冬は浮き城の周囲の樹々を一気に染め上げた。
韓紅に・・・・・。
もちろん、大銀杏も例外ではなく、黄金色の葉をそこら一体に散り敷かせていく。
いつからだったか。
大銀杏から視線を感じるようになったのは・・・・・。
学校帰り、塾の帰り。強くて、もの言いたげな視線。
それは怯える種類のものではなく、探るといったような視線に近かったが、度重なってくれば、不気味に思えてくるものだ。
だったら ―――― そこを通らなければいいものだが、美月は生憎そういう性格ではない。わからないことは徹底的に追求する主義である。
それが為、幼い頃から数々のとんでもない目にあってきたが、今更変える気も起きない。
深夜。という時間に近いPM11時。
塾の友達との立ち話が思いのほか長引いた。
大銀杏の前を通りかかった美月は思わず足を早めていた。
「おまえは・・・・ではないのか?」
刹那、聞こえてきた、低い男の声。
美月はつと振り返った。
大銀杏の下には白い水干の、まだ30才にはなっていないだろう男。
腰に届くほどの黄金色の髪に、大地の瞳を併せ持つ。
だが、おそらく彼は人ではない。
人にあるべき虹彩がないのだから。
「あなたは人間ではないのね」
ぴゅうと、足元で木枯らしが渦を巻いて、黄金の葉を数多吹き散らしていく。
「ああ。わたしはこの銀杏の精だ」
美月は頷いた。
まとう色彩と、人ではありえない美貌から。
彼が樹精だとすぐに知れたから・・・・・・。
銀杏の精はつづけた。
「おまえは月姫ではないのか?」
「月姫・・・・?」
「ああ。この城の最後の姫だ。
月姫は水攻めに遭い、飢えに荒んで行く家臣どもをよく宥めていた。その優しさと怒涛の激しさでもってな」
「あたしと似ているの?」
「瓜二つだ。
その顔形も、何ものをも恐れないその性根もな」
ああ・・・。
彼はその月姫とやらが好きだったのだと唐突にそう思った。
「でも、あたしは月姫じゃないわ!」
出たのは自分でも思ってもみないほど尖った声。
「そうかもしれぬ。
また、そうでないかも知れぬ。
ただ、わたしはおまえと再びまみえたいと思った」
そういったとたん、彼の姿がゆらゆらと陽炎の如く揺らめいた。
「もう、眠るの?」
「ああ。もう冬ゆえにな」
ざざと風が鳴る。
舞い上がった落ち葉に彼が消えそうに思えて、美月は性急に言葉を紡いだ。
「わたしは美月。あなたは・・・・?」
「・・・・・月待主・・・」
そういったきり、樹精の姿は消えていた。おそらく、春を待つための長い眠りに入ったのだろう。
「いにしへの しづのをだまき 繰返し 昔を今に なすよしもがな
でも、もう一度、始めることはできるよね」
美月は手を伸ばし、月待主の樹肌にそっと触れると、踵を返した。
彼と同じようにやがて来る春を待つために。
文中の「いにしへの しづのをだまき 繰返し 昔を今に なすよしもがな」 伊勢物語
静御前が義経を慕って踊ったという和歌です。
「昔をもう一度繰り返せないかしら」といった意味なのですが、「繰り返せないのはわかってるよ」という意味をたぶんに含んでいるのではと思っています。
「公孫樹」はもちろん、銀杏の別名です。