53.温もりが灯る場所
空に架かった虹が、ゆっくりと光の中に溶け込んでいく。
すべてを出し切ったアーヤは、広げた腕をゆっくりと下ろし、深く長い吐息をついた。張り詰めていた緊張が解けると同時に、立っているのも不思議なほどの疲労感が全身を襲う。
「……あ……」
膝の力が抜け、身体がふらりと傾いた。
だが、その身体が冷たい床に触れる前に、逞しく、そして誰よりも信頼している腕が彼女をしっかりと受け止めた。
「お見事でした、アーヤ。……あなたが、この国を救ったんだ」
耳元で響くライゼルの声は、これまでにないほど優しく、そして震えていた。
見上げれば、銀髪を風に揺らした彼が、眩しいものを見るような眼差しでアーヤを見つめている。その瞳には、大精霊契約者への敬意だけでなく、一人の女性に対する深い愛情が滲んでいた。
「ライゼル、様……。私、ちゃんと……できましたか?」
「ああ。これ以上ないほどに」
ライゼルはアーヤを抱き寄せたまま、バルコニーの下――黄金の光に包まれ、息を吹き返した街を見下ろした。
まだ遠くで人々の驚きと喜びのどよめきが聞こえる。澱みは消え、ヴェリタスの風は今、春の花々の薫りを纏って二人を祝福していた。
「見てください。あなたが咲かせた花です。あなたが、彼らに明日を返したんだ」
アーヤは彼の胸に頭を預け、穏やかに目を閉じた。
父と母を亡くし、元の世界では静かに終活さえ始めていた。そんな自分が、異世界に放り出され、戸惑いと恐怖の連続だった日々。けれど、今この腕の中に流れる温もりを感じるだけで、すべてに意味があったのだと思えた。
――そんな二人の静かな時間を破るように、王宮の下層から激しい足音が響いてきた。
「ライゼル! アーヤ殿! 無事かッ!」
聞き慣れた豪快な声が、バルコニーへの階段を駆け上がってくる。
扉が勢いよく開き、鎧を赤く染めたグレイグと、息を切らしたレイヴァーグ侯爵が姿を現した。
二人は、ライゼルの腕の中で静かに身を預けるアーヤと、それを見守るライゼルの姿を見て、一瞬だけ足を止めた。
「……ライゼル、アーヤ殿。本当に、無事だったのだな」
侯爵の声は、戦場での厳格な司令官のものではなかった。一人の父として、そしてこの国の再興を願う騎士としての、震えるような感謝が籠もっていた。
彼はゆっくりと歩み寄ると、膝をつき、アーヤの視線に合わせるように深く頭を下げた。
「アーヤ殿。……いや、ヴェリタスの恩人よ。我が一族、そしてこの国を代表して、心からの感謝を捧げる。貴女がいなければ、この春が訪れることはなかった」
その隣で、兄グレイグもまた、剣を鞘に納めて拳を胸に当てた。
「すまなかった、アーヤ殿。……正直に言えば、私はあなたを、弟に甘えるだけのただの異界の民だと思っていた。だが、間違っていたのは私の方だ。あなたは、誰よりも強く、高潔な女性だった」
二人の飾らない言葉に、アーヤは少し照れくさそうに、けれどもしっかりと頷いた。
「私はただ、ライゼル様に、そして皆さんに……笑っていてほしかっただけなんです」
その答えを聞き、侯爵とグレイグは顔を見合わせ、初めて心からの笑みをこぼした。
「ハハハ! 全く、ライゼル。お前には過ぎた妻……いや、最高の相棒だな。だが、よくやった。我が息子ながら、誇りに思うぞ」
父の言葉に、ライゼルは少し不敵に笑い、抱きかかえるアーヤの腕にそっと力を込めた。
「ええ、父上。彼女は、私の命を懸けて守るべき、たった一人の女性ですから」
王宮を包む柔らかな日差しの中、兄との間にあったわだかまりが、雪解けのように消えていく。
だが、安堵の空気が広がる中、アーヤはあることに気づき、ライゼルの服の袖を弱々しく引いた。
「ライゼル様……あの……魔導師長、は……?」
その問いに、ライゼルの表情がわずかに陰った。
陽光に煌めく精霊たちが、導くように王宮の奥へと流れていく。アーヤはその光の先にある、王宮の最深部——怨嗟の魔導書が砕け散った場所へと視線を移した。




