50.怨嗟の魔導書
逆光の中に立っていたのは、ヴェリタス王国の宮廷魔導師長――かつてライゼルも教えを乞うたことのある、初老の男であった。
整えられていた髪は乱れ、その瞳に宿る知性はすでに濁り、全身から噴き出す澱みが彼をどす黒い影へと変えている。
「魔導師長……! あなたがなぜ、このような禁忌を」
「……ライゼル。あの日、現れた彼女を診た時だ。まさか己の代で、再び星の迷い人が現れるとは……。私は、底しれぬ絶望に叩き落とされたのだよ」
ライゼルの問いに、男は力なく、しかし狂気を孕んだ笑みを返した。視線はアーヤを通り越し、はるか過去の幻影を追っているかのようだ。腕に抱いた魔導書からは、この世のものとは思えない無数の声が嗚咽のように漏れ出している。
「ライゼルよ、この世界が清め手と崇めてきた者たちが、その後どうなったかを知っているか? 彼らは皆、この世界を救うために選ばれた、類稀なる善人たちだった。魂が清らかで、誰よりも優しかったからこそ……その力は奇跡を起こしたのだ」
男が魔導書を掲げると、書影から淡く光る、苦悶に歪んだ星の迷い人たちの幻影が溢れ出した。
「だが、役目を終え、その身も心も擦り切れた彼らはどうなった? 元の世界に戻る術もなく、清らかすぎる魂は、この世界の穢れに耐えられなかった。孤独と郷愁、そして『自分は使い捨てられたのだ』という絶望。善人であった彼らが、最後に抱いたその負のエネルギーが、どれほどの力を生むか……お前たちにはわかるまい」
アーヤは、その幻影たちから伝わる、自分と同じ迷い人たちの生々しい苦しみに息を呑んだ。
彼らは決して、この世界を呪いたかったわけではない。ただ、優しすぎた。家族を想い、友を想い、帰れない絶望にその清らかな心が耐えきれず、裏返ってしまったのだ。
もしライゼルに出会っていなければ。もし精霊たちの声を聞けなければ。自分もまた、この魔導書の一部になっていたかもしれない。
アーヤの胸の宝玉が、これ以上ないほど激しく熱を帯びる。
「彼らは善人でした。だからこそ、その悲しみは深かった。でも、魔導師長」
アーヤは一歩、前に出た。彼女がこれまでの人生で見てきた痛みと、今の自分に託された、精霊たちの願いを重ね合わせ、その瞳を真っ直ぐに魔導師長へ向ける。
「元の世界へ帰りたかった彼らの心を利用して、さらなる悲劇を生むなんて。それは救いではなく、ただの冒涜です」
「黙れ! 今の貴様に何がわかる! 選ばれなかった者たちの嘆きを、その身に刻んで果てるがいい!」
魔導師長が魔導書を捲ると、ページから漆黒の雷撃が放たれた。ライゼルは瞬時にアーヤの前に躍り出ると、白銀の聖剣でそれを真っ向から切り裂く。
「魔導師長。過去の悲劇を盾に、今を生きる人々を犠牲にすることは、騎士の道としても、人の道としても断じて許されない!」
「ならば、彼らの絶望をその身で受けるがいい!」
魔導師長が叫ぶと、魔導書から溢れ出した澱みが巨大な渦となり、王宮の最深部を飲み込み始めた。
荒れ狂う澱みの中心で、ふいに不気味なほどの静寂が彼を包む。
「私はね、ライゼル。この国のあり方が、どうしても許せなかったのだ」
渦巻く澱みの中心で、魔導師長は静かに、しかし断腸の思いを吐露するように語り始めた。その顔には、かつてライゼルに知識を授けた、穏やかな師の面影が僅かに混じっていた。
「清き魂を異界から引き寄せ、救世の道具として使い、役目が終われば塵のように打ち捨てる。そんな残酷な循環の上に成り立つ平穏に、一体何の意味がある? 精霊に愛される? だからなんだ! 精霊の加護という美名のもとに繰り返されるこの悲劇を、私は……愛するこのヴェリタスという国に、これ以上背負わせたくはなかった」
男の掲げる魔導書が、呼応するように禍々しい音を立てる。
「ならば、すべてを一度『無』に帰す。精霊も、人も、そしてこの忌まわしい理も。何もない虚無へと還ることこそが、彼らへの、そしてこの世界への唯一の慈悲なのだ!」
その言葉は、絶望の果てに辿り着いた、彼なりの救済だった。
「それが、あなたの正義なのですか!」
アーヤの声が、澱みの渦を貫いて響く。彼女には、魔導師長が抱える「優しすぎるがゆえの絶望」が痛いほど理解できた。だが、だからこそ彼女は退かなかった。
「理を壊すために、今生きている人たちの未来まで奪うのは……それはもう、慈悲ではありません。ただの諦めです」
アーヤの胸に宿る宝玉が、眩いほどの光を放ち、周囲の闇を押し返していく。それは精霊王の意志であると同時に、彼女自身の「生きたい」という強い願いの輝きでもあった。
「私は、ここにいます。ライゼル様と出会い、この世界を愛したいと思った私が、今ここに生きている。過去の悲しみを理由に、私たちの今を消させはしません!」
「ああ。君の言う通りだ、アーヤ」
ライゼルが聖剣を構える。白銀の光が、王宮最深部の暗闇を昼間のように照らし出した。
「魔導師長。この世界が残酷だとしても、私たちは今を生きている。あなたの憤りは私が引き受けます。だが、あなたの絶望に、彼女の未来を渡すわけにはいかない!」
二人の意志が重なった瞬間、聖剣と宝玉が共鳴し、澱みの渦を切り裂く一筋の道が魔導師長へと伸びた。




