46.芽吹く希望
樹海を後にした二人が辿り着いたのは、かつて澱みに喘いでいた、樹海の入り口に一番近い小さな村だった。数日前に通りかかったときは、作物は黒ずみ、人々は力なく項垂れていたが、今の光景はまるで別世界のように活気づいていた。
「見てください、ライゼル様! あんなに枯れていた畑に、緑が戻っています」
アーヤの弾んだ声に、ライゼルが視線を向ける。そこには、驚きと喜びの声を上げながら、一斉に芽吹き始めた苗を囲む農夫たちの姿があった。地の精霊王の加護が世界に行き渡ったことで、大地そのものが息を吹き返したのだ。
村の中へ入ると、井戸端からは澄んだ水の流れる音が響き、子供たちが元気に駆け回る声が聞こえてくる。二人の姿を見つけた村長が、顔を輝かせて駆け寄ってきた。
「おお、あんたがた……! 誰も戻らぬあの樹海へ入ったと聞いて、村の皆で心配していたんだが無事だったか! 見てくれ、あんたがたが戻るのと入れ替わりに、空気が晴れ、水までこんなに清らかになったんだ。……まるで、あんたがたが幸運を連れてきてくれたようだよ」
村人たちが集まり、旅人の無事を喜ぶ。自分たちが清め手と騎士であるとは明かしていなかったが、村人たちはこの好転が二人の樹海からの生還と重なったことに、理屈を超えた幸運を感じているようだった。
その温かな手や、明日を信じる瞳。それらに触れるたび、アーヤの胸には熱いものが込み上げてきた。
「……私のしたことが、こんなに誰かを笑顔にできるなんて」
これまでは必死に与えられた義務をこなすだけだった。けれど今、救われた命の温もりに触れたことで、アーヤは自分が真なる清め手としての使命がただの義務ではなく、誰かの明日を守るための誓いなのだと本当の意味で理解し始めていた。
一方、ライゼルもまた、自身の内なる変化を密かに感じていた。樹海での激闘と移動の疲れがあるはずなのに、足取りは驚くほど軽く、五感はこれまでにないほど澄み渡っている。村のどこかで咲き始めた花の香りや、遠くの草木が揺れる音までが、鮮明に意識の中に流れ込んでくるのだ。
(これが、精霊王に授けられた新たな刻……)
ライゼルは、傍らに立つアーヤの横顔を見つめた。黄金の夕日に照らされた彼女は、以前よりもずっと気高く、けれど親しみやすい光を纏っている。彼女と同じ時間を歩むことになった。その喜びと責任を、ライゼルは静かに、しかし深く噛み締めた。
「……ライゼル様?」
ふと、アーヤが不思議そうに彼の顔を覗き込んだ。
「何か、良いことでもあったのですか? ライゼル様が、あまりに晴れやかな顔をしていらしたので」
「……分かりますか?」
ライゼルは自身の胸元に手を当て、苦笑した。
「身体が軽いのです。まるで自分自身が、この澄んだ風や大地の一部になったかのような、そんな不思議な充足感があります」
それは、アーヤと同じ時を刻むという祝福がもたらした、新たなる騎士の姿だった。
だが、その安らぎを破るように、一騎の伝令が村へと駆け込んできた。レイヴァーグ侯爵家の紋章をつけたその騎士は、切迫した表情で魔導馬車の傍らへ膝をつく。
「ライゼル様! 侯爵閣下より、緊急の書状をお持ちいたしました!」
受け取った書簡に目を落としたライゼルの表情が、一瞬で険しいものへと変わる。
「……王都に、異変が——」
「はい。数日前より、王城が正体不明の黒い結界に覆われ、王都全域に異常な濃度の澱みが溢れ出しているとのこと。国王陛下とも連絡が途絶え、侯爵閣下やグレイグ様も対応に当たっておいでですが、状況は刻一刻と悪化しております……!」
その言葉に、アーヤは息を呑んだ。四つの加護を揃えたこの瞬間に合わせたかのような、王都の異変。
「アーヤ。どうやら、ゆっくりしている暇はなさそうです」
「はい……行きましょう。この村で見せてもらった笑顔を、王都でも取り戻さなくては」
二人は再び馬車へと乗り込み、全速力で王都へと進路を向けた。
揺れる車内、ライゼルは剣の柄を固く握りしめていた。王都を蝕む澱みへの怒りと、最前線で対応にあたっている父や兄を想う焦燥。だが、隣に座るアーヤの瞳に宿る澄んだ光を見たとき、胸のざわつきは静かに収まっていった。
「案じることはありません、ライゼル様。侯爵様もグレイグ様も、きっと今この瞬間も、王都の人々のために戦い続けていらっしゃいます。一刻も早く駆けつけて、澱みを払いましょう。私たちならそれができます」
今度はアーヤが、ライゼルの手をそっと包み込んだ。その温もりは力強く、これからの死闘を予感させながらも、触れ合う温もりは二人の絆をより一層、揺るぎないものへと変えていく。
「そうですね。彼らが守り抜いている王都を、濁らせたままにはしておけない」
ライゼルが応えると、アーヤは深く頷いた。
魔導馬車は夕闇を切り裂き、全速力で駆ける。その轍の先にあるのは、誇り高き王都——。
二人の帰還を拒むかのように広がる闇の帳へと、彼らは真っ向から飛び込んでいった。




