40.風の廃都、孤独の断絶
プレクーバの内部は、外の嵐が嘘のように静まり返っていた。しかし、それは安らぎの静寂ではない。音がすべて風に吸い取られたような、耳に痛いほどの無音だ。巨大な石柱が立ち並ぶ回廊を進むにつれ、アーヤは形容しがたい違和感に襲われた。
(……ライゼル様が、遠い……?)
すぐ隣を歩き、手を握っているはずのライゼルの存在が、霧の向こう側にあるように霞んで見える。触れている手の感覚さえも、手袋越しに麻痺していくようだった。
「ライゼル、様……?」
アーヤがその名を呼んだ瞬間、背後から突風が吹き抜けた。
「アーヤ、離さないでください!」
ライゼルの叫びが聞こえたが、その声は風に切り刻まれ、バラバラの残響となって四方八方から響く。次の瞬間、二人の間を見えない壁のような気流が引き裂いた。繋いでいたはずの手が、有無を言わさぬ暴力的な力で弾き飛ばされる。
「ライゼル様!」 「アーヤ――っ!」
視界が真っ白な風に覆われ、アーヤの身体は後方へと押し流された。必死に手を伸ばしたが、ライゼルの漆黒の外套は一瞬で白銀の霧の中に消え、後には冷たい風の音だけが残った。
ライゼルは、弾かれた手の残像を追うように、虚空へ手を伸ばした。
「アーヤ! 返事をしてください、アーヤ!」
叫びは虚しく虚空に消える。ライゼルは反射的に剣の柄に手をかけたが、抜き放つ直前でその動きを止めた。この真っ白な風の中で闇雲に剣を振れば、迷い込んだ彼女を傷つけかねない。
「……くっ」
彼は剣を抜く代わりに、拳が血の気が引くほど強く柄を握りしめ、溢れんばかりの魔力を周囲に放射した。刃ではなく、自らの存在を誇示するような光を放ち、彼女が自分を見つけるための標になろうとしたのだ。
その時、周囲の石柱が淡い光を放ち、風の粒子が一人の老人の姿を形作った。半透明の身体、長く伸びた髭も髪も風そのもののように揺らめいている。風の精霊王――それは、怜悧な瞳でライゼルを見下ろしていた。
『盾の騎士よ。汝は、あの娘と共に在るために、同じ刻を望むと言うのか』
「……そうだ。そのために、私はここへ来た」
ライゼルは歯を食いしばり、精霊王を睨みつける。
『ならば見せてみよ。汝の愛が、ただの執着という名の鎖ではないことを。風は自由を愛する。あの娘は、汝が繋ぎ止めておかねば消えてしまうほど、脆き存在か?』
精霊王が杖を振ると、ライゼルの目の前にいくつもの幻影が現れた。それは、自分がいなくても、一人で立派に聖地を清め、民に微笑みかけ、この世界を自由に飛び回るアーヤの姿だった。彼女はライゼルがいなくても幸せそうで、その瞳には孤独の影一つない。
『見よ。あの娘は、汝がいなくとも光り輝く。汝が隣に居続けることは、あの娘の翼を縛る重荷ではないのか?』
「……っ」
『彼女を真に愛するならば、その翼を縛るな。彼女はすでに強き力を得た。汝が隣に居続ける限り、迷い人の娘は汝という弱き個を守るために、真の自由を広げきれずにいる』
ライゼルが息を呑むのを、風の精霊王は見逃さない。
『汝がこの風の一部となり、姿なき加護として彼女を支える道を選べば、彼女は精霊と一体となり、この世の何物にも縛られぬ存在へと昇華するだろう。だが、その時、汝の姿は彼女の瞳には二度と映らぬ。独り、風の狭間で彼女の背を見送り続けるがいい。——これこそが汝が求めた同じ刻を生きる、究極の純粋な愛ではないか?』
精霊王の問いかけに、ライゼルの身体は石のように強張った。足元から体温を奪われ、冷たい泥濘へと沈み込んでいくような感覚に、息をすることさえ忘れる。
「彼女の……重荷……」
絞り出すような呟きが、冷酷な風にさらわれて消える。脳裏をよぎるのは、北へ向かう道中、自分の腕の中で安らかに眠っていた彼女の顔だった。あの安らぎさえも、自分が彼女を繋ぎ止めていた結果だとしたら――。
拳を固く握りしめるライゼルの手袋が、ミシリと悲鳴のような音を立てる。
風の試練。それは「自分がいなくても彼女は幸せになれる」という事実を突きつけられた上で、なおも「共に歩むこと」にどのような意味を見出すのかを問う、孤独な魂の対峙だった。
一方、別の空間に飛ばされたアーヤの前にも、風の精霊王の声が降り注いでいた。
『星の迷い人よ。あの騎士は汝を守るという呪縛に囚われている。汝が彼を解放してやれば、彼は自らを顧みぬ無謀な献身から解き放たれ、自由になれる。汝一人がこの世界の運命を背負えば、彼は死の淵から救われるのだ』
二人に突きつけられたのは、相手を想うがゆえの決別という、甘美で残酷な誘惑だった。




