39.北の静寂、白銀への道
水の都アイリスを後にした馬車は、数週間かけて北へと進路を取った。車窓から見える景色は、豊かな緑と穏やかな運河から、次第に険しい岩肌と、薄く雪を被った針葉樹林と姿を変えていく。
車内には、移動用の魔導発熱器が置かれているものの、隙間から入り込む風は刺すように冷たい。
「……寒い……」
アーヤが思わず身を縮め、自分の肩を抱く。すると、隣に座るライゼルが彼女を横から抱き寄せ、自らの厚手の外套の中に彼女を包み込んだ。
「あ、ありがとうございます、ライゼル様」
「無理をしないでください。北の風は、体温だけでなく精神をも削ります。……そうだ、これも使うといい」
ライゼルは旅の荷物の中から、銀の刺繍が施された柔らかな白い布を取り出した。リーゼが、アーヤに寒い思いをしないようにと用意した、王宮魔導師が特別な法術を編み込んだ特製の温熱布だ。
「……温かい。陽だまりの中にいるみたい」
ライゼルがその布をアーヤの膝にかけ、さらに肩から包むように整えてやると、じんわりとした心地よい熱が彼女の身体を芯から温めていく。
「少し、眠っておくといい」
ライゼルの腕の中は、上質な革の感触とともに、彼の力強い体温と温熱布の柔らかな熱が混ざり合い、驚くほど間近に感じられた。アーヤは彼の胸に頭を預け、規則正しい鼓動を聞きながら目を閉じる。水の精霊の加護を得たせいか、ライゼルの鼓動がまるで自分のもののように心地よく響き、深い安心感に包まれた。
馬車が大きく揺れた拍子に、アーヤの髪のアイリスの青い髪飾りが小さく揺れる。それを見つめるライゼルの眼差しは、穏やかでありながらも、どこか張り詰めていた。
(風の廃都・プレクーバ……)
かつて魔法文明を極めた人々が、神(精霊)の領域に近づこうとして逆鱗に触れた場所。常に荒れ狂う暴風が吹き荒れ、招かれざる者を拒む断絶の地。何よりライゼルが懸念していたのは、そこが最も孤独が際立つ場所だという点だった。
馬車が止まり、御者が震える手で扉を開けると、そこには一面の白銀の世界が広がっていた。空は低く垂れ込め、吹き付ける風が獣の咆哮のような音を立てて大地を削っている。
その冷気は、吸い込むだけで肺の奥が凍りつくような鋭さを持っていた。
「着きました。ここから先は風の結界により、馬車は進めません。……アーヤ、行けますか?」
「……はい」
アーヤが馬車を降り、一歩踏み出す。その瞬間、強烈な突風が彼女の身体を押し戻そうとした。視界を遮るほどの雪のつぶて。その向こう側に、雲を突くような巨大な石の柱が乱立し、骸骨のように白く乾いた廃墟の影が見えた。
「――っ」
風に煽られ、よろめいたアーヤの身体を、ライゼルが背後から力強く支える。そして、自らの身体を盾にして風上に立った。
「アーヤ、私の影から離れないでください。この風は、ただの自然現象ではない。入る者を拒む、明確な意志を感じます」
ライゼルの外套が風に激しくたなびき、白銀の装飾が鈍く光る。彼は廃都の入り口を見据えたまま、低く、けれど確かな声を紡いだ。
「アーヤ。プレクーバの試練は、これまでの聖地とは性質が異なるはずです。風はすべてをさらっていきます。記憶も、繋がりも、そして、隣にいる者の存在さえも」
不安に揺れるアーヤの瞳を見つめ、ライゼルはその震える手を、手袋越しに強く、痛いほどに握りしめた。
「もし、嵐の中で私を見失いそうになっても、決して諦めないでください。私は何があっても、あなたの手を離さない。たとえ風が私の声をかき消しても、必ずあなたを迎えに行きます」
「ライゼル様……」
アーヤは、彼の手から伝わる必死なまでの熱量に、息を呑んだ。ライゼルが恐れているのは、この過酷な環境そのものではない。風の試練によって、自分たちが引き裂かれ、独りにされることなのだ。
「大丈夫です。アイリスで、私は現在を選びました。だから、どんな風に吹かれても、私はあなたの隣に居続けます」
アーヤが、厚いフードの上から、そこに隠れたアイリスの髪飾りの位置をそっと撫でながら微笑むと、ライゼルは一瞬だけ、救われたような表情を見せた。
「行きましょう。この嵐の向こうに、風の精霊王が待っています」
二人は寄り添い、吹き荒れる白銀の嵐の中へと足を踏み入れた。一歩、足を踏み入れるごとに、風の音はより鋭く、より冷酷に、二人の繋がりを試すかのように激しさを増していくのだった。




