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天涯孤独のアラフォー元事務員、騎士団の副団長に溺愛される  作者: 桐生 翠月


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36.甘やかな誘惑

 夕闇が迫る中、二人は小舟(ゴンドラ)に揺られ、街の中央に広がる鏡の湖へと向かった。街の灯が水面に溶け出し、どこまでも続く鏡の世界を滑るように進む。やがて舟は、湖の中央にぽつんと佇むクリスタルでできた神殿へと辿り着いた。

 

 ライゼルは小舟から降りると、真っ先にアーヤに手を貸した。彼の掌は驚くほど熱く、しかし微かに震えている。

 

「アーヤ。何があっても、あなたのすぐ後ろに私がいることを忘れないでください」

 

「……はい、ライゼル様」

 

 神殿の奥へ進むと、そこには床一面が透き通った水で満たされた広間があった。水面を揺らすことなく一歩踏み出したその時、頭上から鈴を転がすような、清らかな声が降ってきた。

 

『よく来ましたね、星の子よ。そして、その光を守る盾の騎士よ』

 

 水面から、青い光の粒子が立ち上り、一人の美しい女性の姿を形作る。水の精霊王――それは、慈愛に満ちた瞳で二人を見つめていた。

 

(わたくし)は水の精霊王。人の心の奥底に眠る、真実を映す者。アーヤ、あなたは本当によく耐えてきましたね。この世界に一人きりで放り出され、大切な人を亡くした心の傷を抱えたまま……』

 

「精霊王様……」

 

『あなたの心には、深い海のような寂しさが沈んでいる。……見せてあげましょう。あなたが、心から焦がれていた()()()を。それはただの記憶ではありません。私の導きに従えば、あなたは、再び彼らと共に安らぎを得ることができるのです』

 

 精霊王がそっと手をかざすと、足元の水面には、穏やかな光に包まれた、ありし日の家庭が映し出された。そこでは、亡くなったはずの両親がアーヤに微笑みかけ、彼女が戻るのをずっと待っていたかのように手を差し伸べている。

 

『星の子よ。あなたが一人で背負うには、この世界の運命は重すぎる。あちらへ戻れば、あなたはもう戦う必要も、世界を清めるために命を削る必要もない。永遠に、愛する人たちに守られるだけの娘に戻れるのですよ』

 

「永遠に、父や母のところに……」

 

 アーヤの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。 この世界では大精霊(エレメンタル)契約者(・リンカー)としての重責がつきまとい、淀みを清めるたびに魂が削られるような感覚がある。けれど、この水面の向こうへ行けば、すべてから解放されて、ただの橋本綾として愛されるだけでいいのだ。

 

『ライゼル。盾の騎士よ、あなたは彼女の幸せを願っているのでしょう? ならば理解しているはず。彼女の魂は、この世界の一部ではない。この異郷での生活は、彼女をすり減らしていくばかりです。彼女にとっての真の救いは、あなたの隣で戦い続けることではなく、失われた愛の中に帰ることだということを』

 

「……っ」

 

 ライゼルは言葉を失った。 精霊王の言葉は、彼が最も恐れ、しかし否定しきれなかった残酷な真実を突いていた。自分は彼女を愛している。だが、自分とこの世界に繋ぎ止めることは、彼女から取り戻せるはずの幸福を奪い、過酷な運命に縛り付けることにならないか。

 

(私は……あなたの幸せを奪っているのか、アーヤ)

 

 ライゼルの拳は、白くなるほど強く握りしめられていた。彼はもう、彼女を力ずくで引き止める鎖を持っていない。彼女の自由を尊重すると、灼熱の霊峰で誓ったからだ。

 彼ができるのは、ただ彼女の選択を信じ、待つことだけだった。

 

『さあ、アーヤ。その手を私の導く水に浸しなさい。そうすれば、孤独な戦いはすべて終わり、あなたは幸福な眠りにつけるのです』

 

 アーヤは、吸い寄せられるように水面へと手を伸ばした。指先が、懐かしい両親の温もりが漂う水面に触れる、その寸前。

 

 彼女の耳に、ボルカの宿で聞いたライゼルの鼓動が、幻聴のように響いた。「あなたが消えてしまうのが怖い」と告白した、ライゼルの声。彼が自分の孤独に寄り添い、共に歩むと誓ってくれたあの瞬間。

 

「私は……」

 

 アーヤの手が、止まった。彼女は涙を拭い、水面に映る愛する両親の姿を見つめたまま、静かに、けれどはっきりと首を振った。

 

「私は、そこには帰りません」

 

 精霊王の慈愛に満ちた表情が、微かに揺らいだ。

 

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