35.水の都アイリスと残された日記
ボルカの村を旅立った二人は、険しい山岳地帯を抜け、西方の広大な平原へと降り立った。
数週間の馬車旅の末、視界が開けた先に現れたのは、太陽の光を浴びて冷たく鈍く輝く巨大な湖と、その湖上に浮かぶ白亜の都市――水の都アイリスだった。
街へ入ると、至る所から心地よい水音が聞こえてきた。白亜の建物は精緻な彫刻が施されているが、運河を往来する舟は少なく、水面は重く沈み、壁に反射する光もどこか青ざめて見える。
「わあ……綺麗。街全体が、湖の上に浮いているみたい。……でも、なんだか少し寒気がしますね」
アーヤが馬車の窓から身を乗り出して呟く。ライゼルはそんな彼女の腰を優しく支えながら、険しい表情で頷いた。
「アイリスは、水の精霊の慈悲によって支えられた都ですが……今のこの街は、時が止まったかのように静かすぎる。水面に映る景色も、まるで鏡の中に閉じ込められた街のようだ」
そう告げるライゼルの瞳には、どこか深い影が差していた。かつて星の迷い人たちがこの都で何を思い、何を残したのか。騎士団の記録で予習してきた彼は、ここがアーヤにとって、ただ澱みを清める聖地では終わらないことを予感していた。
二人は運河沿いにある落ち着いた宿に荷を解いた後、水の精霊王が待つ聖地「鏡の湖」へ向かう前に、ライゼルが以前口にしていた星の迷い人の記録を求めて、国立中央図書館を訪れることにした。
「ここなら、あなたが知りたいことが見つかるかもしれません」
静謐な空気の漂う図書館の奥、一般の利用者が立ち入ることのできない禁書庫の片隅。ライゼルが騎士団の権限で開かせたその場所には、古びた、しかし大切に保管された数冊の日記があった。
アーヤは震える手で、その中の一冊を手に取った。表紙に記されているのは、この世界の文字ではない。かつては当たり前のように目にしていた、今では遠く懐かしい日本語だった。
『――月――日。こちらの料理は美味しいし、皆も親切だ。けれど、ふとした瞬間に母さんが作ってくれた味噌汁の匂いを思い出して、涙が止まらなくなる』
『――月――日。精霊王に言われた。「あなたが望むなら、一度だけ扉は開きましょう」と。でも、私が帰ればこの地の澱みはどうなる? 私を愛してくれたあの人は? 選べるはずがない。けれど、選ばずにはいられない。私は、あの日からずっと、自分の人生が半分欠けてしまったような心地で生きている』
アーヤは指先を震わせ、その掠れた文字をなぞった。日記は最後、乱れた筆致でこう締めくくられていた。
『ごめんなさい。私は最後まで、こちらの世界の住人になりきることはできなかった――』
「……っ」
アーヤは息を呑んだ。それは、数百年前にこの世界へ転移し、アーヤと同じように清め手として生きた先代の、切実な望郷の記録だった。
アーヤの心に、鋭い痛みが走る。それは、彼女がライゼルの愛に甘え、無意識に心の隅へ追いやってきた恐怖そのものだった。
「自分はこの世界を愛している。けれど、この世界の人間ではない」という、残酷な事実。
日記を読み進めるにつれ、アーヤの心に波紋が広がっていく。そこには、この世界の人々への愛着や使命感と同時に、決して消えることのない、元の世界への未練が綴られていた。
ライゼルは、日記を見つめたまま硬直してしまったアーヤの横顔を、言葉もなく見つめていた。彼には、日記に何が書かれているのかは読めない。しかし、彼女の瞳に溜まっていく涙と、その細い肩が震えている理由を、痛いほど察していた。
(……やはり、あなたはそちら側に、心を奪われてしまうのですか)
ライゼルの胸を、冷たい不安が締め上げる。 火の精霊王との試練で、彼は醜い独占欲を捨てた。彼女を閉じ込める鎖を断ち切り、彼女がどこへ行こうとも守り支え抜くと誓った。だが、もし彼女の望む場所が、自分の剣も、魔法も、この命さえも届かない異世界だとしたら。
彼は影のように付き従うと誓った。しかし、影は光がなければ存在できない。彼女が別の世界の光へ帰ってしまうなら、自分に何が残るというのか。
ライゼルは思わず、アーヤの手首を掴もうとして――その指を寸前で止めた。無理やり引き寄せることは、もうしないと決めたからだ。
「……アーヤ。その日記に、何が書いてあるのですか?」
ライゼルの声は、これまでにないほど低く、掠れていた。
アーヤは顔を上げ、ライゼルを見た。彼の瞳には、かつての危うい独占欲とは違う、けれどそれ以上に深い、失うことへの絶望が滲んでいる。
「……ライゼル様。この方は、元の世界へ帰る扉を、提示されたみたいです。最後まで……迷って、苦しんで……」
アーヤの声が微かに震える。これまでの旅路、ライゼルの愛に包まれ、この世界で生きていく決意を固めてきたつもりだった。けれど、文字という形になった故郷への想いに触れた瞬間、心の奥底に沈めていた澱のような寂しさが、一気に浮上してきたのだ。
「……あなたは、どうしたいのですか?」
問いかけるライゼルの拳は、白くなるほど強く握りしめられていた。
その時、図書館の窓の外、街の中央に広がる鏡の湖から、重厚な鐘の音が響き渡った。水面を揺らすその音は、アーヤの脳裏に直接、冷たく透き通るような声を届けた。
『ようこそ。己の影を背負いし、星の子よ。……あなたにとって、故郷を想う心は毒となるのかしら。それとも、救いとなるのかしら。あなたの真実を、この湖に問いにいらっしゃい』
水の精霊王の招きだった。アーヤは日記を閉じ、不安そうに自分を見つめるライゼルに向かって、精一杯の微笑みを作った。
「行きましょう、ライゼル様。……私が、私自身の答えを見つけるために」
ライゼルは何も言わず、ただ力強く彼女の手を取った。 その手は、まるで離せば二度と捕まえられない場所へ消えてしまうものを繋ぎ止めるかのように、切実な熱を持って握りしめられていた。
夕暮れに染まり始めた水の都。美しく静かな湖面は、まるで鏡のようにアーヤの不安げな表情を映し出していた。




