34.消えぬ熱
灼熱の霊峰を下りきった二人が辿り着いたのは、麓にある温泉の村、ボルカだった。霊峰の澱みが浄化されたことで、村に漂う湯の香りは清々しく、肌を刺すような重苦しい熱気もすっかり消え去っている。村人たちは「山の怒りが鎮まった」と、祭りのような賑わいで喜び合っていた。
動きやすさを重視した機能的な旅装に身を包んだライゼルとアーヤは、一見すると少し身なりの良い若者連れにしか見えない。村人たちは、彼らを国を救う騎士と大精霊契約者だとは夢にも思わず、遠方から湯治に訪れた仲睦まじい新婚の若夫婦だろうと温かく迎え入れた。
「ようこそ、ボルカへ! 山の神様が機嫌を直してくださったおかげで、最高の湯加減ですよ。さあさあ、若いご夫婦はこちらへ!」
元気な村の案内人にそう声をかけられ、アーヤは顔を真っ赤にしたが、隣を歩くライゼルは否定することなく、むしろ満足げに薄く微笑んでいた。
案内された宿は、木材の温もりが感じられる素朴で清潔な造りだった。王都の華やかさとは違う、静かで穏やかな空気が流れるこの場所は、ライゼルにとって好都合だった。部屋の造りがこぢんまりとしている分、必然的にアーヤとの距離が密になるからだ。
「……ライゼル様、本当に大丈夫ですから。自分でお風呂の準備くらいできます」
宿の一室。アーヤは困ったように、けれど頬を少し赤らめて言った。ライゼルは上着を脱ぎ、シャツの袖を捲り上げた姿で、木製の浴槽にせっせと湯を運んでいた。村人が用意すると言ったのを、「私の手で整えさせてほしい」と穏やかに断り、自ら湯の温度を確かめ、リラックス効果のある香草を浮かべているのだ。
「いいえ。あなたは先ほど、命を削って淀みを浄化されたばかりです。今はただ、ゆっくりと羽を休めてほしいのです。さあ、アーヤ。温度はちょうどよく整えましたよ。髪を洗うのも、私が手伝いましょうか?」
「そ、それは結構です! 自分でできますから!」
慌てて浴室へ逃げ込むアーヤを、ライゼルはクスクスと笑いながら見送った。
ライゼルの眼差しは、以前のような危うい鋭さが消え、驚くほど穏やかで包容力に満ちていた。試練を経て、彼のアーヤに対する献身は、より純粋な愛情へと昇華されていた。幻影の中で自ら鎖を断ち切ったあの日、彼は悟ったのだ。彼女を縛り付けるのではなく、彼女が自由で、誰よりも幸せに笑っていられる世界を、自分の手で作り上げることこそが、真の守護なのだと。
今、彼が甲斐甲斐しく世話を焼くのは、彼女を監視するためではない。ただ、愛する女性が心から安らいでいる姿を、その瞳に焼き付けておきたいという、おおらかな慈しみからくるものだった。
やがて、湯浴みを終えて髪を濡らしたアーヤが戻ってくると、ライゼルは当然のように椅子を引いて彼女を座らせた。
「こちらへ。髪を乾かしましょう。湯冷めをしては大変ですから」
「……ありがとうございます、ライゼル様」
観念して椅子に座ると、ライゼルは大きな温熱布で、アーヤの髪を包み込んだ。騎士として重い剣を振るう大きな掌が、驚くほど繊細な手つきで髪を拭いていく。鏡の中に映るライゼルの瞳は、温かな熱を帯びながらも、深い慈しみに満ちていた。
「ライゼル様。なんだか、すごく大切そうに私の髪を触るのですね」
アーヤが鏡越しにふわりと微笑みながら声をかけると、ライゼルは一瞬、愛おしさに耐えかねるように動きを止めた。
「……ええ。こうしてあなたの髪に触れ、指先に伝わる温もりを確かめていると、ようやく現実に戻ってきたのだと実感できるのです」
「現実、ですか?」
ライゼルは布を置き、乾き始めたアーヤの髪に、指を滑らせた。その表情は、慈しみの奥に、どこか祈るような真摯さを秘めている。
「あの祭壇で、あなたが光に包まれて澱みを消し去る姿を見た時……あまりの神々しさに、そのまま天へ昇ってしまうのではないかと、一瞬、息が止まるほどに見惚れてしまいました。と同時に、このまま私の手の届かない場所へ、あなたが消えてしまうのではないかという畏怖さえ覚えた」
ライゼルは鏡の中のアーヤの瞳を見つめ、静かに、けれど熱を持って言葉を紡ぐ。
「だから、こうしてあなたを世話し、その温もりに触れることができる今の時間は、私にとって何よりの救いなのです。あなたはここにいる。私の手の届く場所にいてくれる。その事実に、私は今、心からの充足を感じています」
「ライゼル様……」
アーヤは振り返り、ライゼルの腰のあたりにそっと手を回した。彼の胸からは、先程授かった火の精霊の加護のせいか、それともアーヤを想う情熱のせいか、驚くほど力強く、温かな鼓動が伝わってくる。
「私はどこにも行きません。……ライゼル様がこうして私を支えてくださるから、私は清め手としての役目を果たせるんです。あなたは、私の唯一の騎士様ですから」
アーヤが胸に顔を埋めて真っ直ぐに想いを伝えると、ライゼルは深い充足感に満たされたように、熱い吐息を漏らし、彼女を壊れ物を扱うように優しく、けれど二人の運命を分かち合う確かな意志を込めて、力強く抱きしめた。
「……ありがとう、アーヤ。その言葉だけで、私はどのような試練も、地獄でさえも恐れずに進むことができます。あなたの騎士として、一生を賭してお側でお守りしましょう」
——
翌朝。村の市場を二人で歩いている際も、ライゼルの盾としての献身は続いていた。温泉地の朝市は活気に溢れ、色とりどりの果物や地元の工芸品が並んでいる。
アーヤの清らかな美しさは、素朴な村の中でも一際目を引いた。すれ違う男たちが思わず足を止め、彼女を見つめるたびに、ライゼルはさりげなく彼女の肩を抱き寄せ、自らの存在を誇示するように寄り添った。
「……ライゼル様、少し近すぎませんか? 皆さん、私たちのことを新婚さんだと思っているみたいで恥ずかしいです」
「間違いではありません。いずれそうなるのですから。今は予行演習だと思って、私に身を任せてください」
ライゼルは悪戯っぽく微笑み、アーヤの手を自分の外套の中に引き入れた。手袋越しではない、直接重なる掌の熱が、朝の冷たい空気を溶かしていく。
「冗談はさておき。あなたが私だけを見てくれるのであれば、世界がどうあろうと構わない。ですが、巡礼の旅はこれからが本番です。次は水の都ですね」
ライゼルは西の空を見据えた。 水の都アイリス。そこは美しくも、人の心の深淵を映し出すと言われる鏡の湖がある場所。
「水の都には、かつてこの国を訪れた星の迷い人の記録も残されていると聞きます。アーヤ。そこであなたが何を見つけ、何を感じたとしても、私の手だけは離さないでください」
ライゼルの言葉に、アーヤは少しだけ胸が騒ぐのを感じた。 水の都で何が待っているのかは分からない。けれど、もしも自分の心の奥底……まだライゼルにも言えていない、元の世界への未練や迷いが暴かれてしまったら――。
「……はい。約束します、ライゼル様」
アーヤは繋いだ手に力を込めた。 第一の試練を越えた二人の絆は、より深く、より重く、けれど確かな熱を持って、次なる運命の地へと向かっていった。




