32.焦がれる執着の試練
真っ赤な火の粉が視界を埋め尽くし、次にライゼルが目を開けたとき、そこは灼熱の霊峰ではなく、見覚えのある静寂に包まれた場所だった。
「……ここは?」
そこは王都にあるレイヴァーグ本邸の、さらに奥深く、実際にはあるはずのない美しい書斎だった。窓はなく、壁一面が魔導書と贅沢な装飾で埋め尽くされている。そして、部屋の中央には、ふかふかのソファに座るアーヤがいた。
「ライゼル様、お帰りなさい」
アーヤが穏やかに微笑む。しかし、その足首には、宝石を散りばめたような細く美しい銀の鎖が繋がれていた。鎖の先は、ライゼルの座る椅子の脚へと伸びている。
『どうだ、人の子よ。これこそがお前の望んだ理想ではないか?』
虚空から精霊王の声が響く。
『この世界なら、彼女が傷つくことも、澱みを浄化して孤独に彷徨うこともない。お前が望む通り、誰の目にも触れさせず、お前だけのものとして永遠に愛でることができる。……ここで彼女と二人、永劫の時を過ごすがいい』
ライゼルは息を呑んだ。自分の内側に潜む、どす黒い独占欲が、この光景に歓喜の声を上げているのが分かった。彼女を鎖で繋ぎ、自分だけの管理下に置く。外の世界の理からも、精霊の義務からも解放し、自分だけを見て笑う人形にする。
それは、ライゼルが心の底で最も恐れ、同時に最も渇望していた光景だった。
「……ライゼル様? どうしてそんなに悲しい顔をなさるのですか?」
幻影のアーヤが、ライゼルの頬に手を伸ばす。その瞳には何の疑いもなく、盲目的な愛だけが宿っている。ライゼルはその手を掴み、指先に口づけを落としながら、心の中で猛烈な火花を散らした。
(そうだ。こうしてしまえば、彼女を失う恐怖から解放される。彼女は一生、私の腕の中で安全に暮らせる。……だが)
ライゼルは、アーヤの銀色の鎖を見つめた。 そして、彼女の瞳の奥を覗き込む。——そこに自由な意思がないことを悟った瞬間、彼の胸に鋭い痛みが走った。
「……違う。これは、私の愛するアーヤではない」
ライゼルの声が、低く書斎に響いた。
「私が愛しているのは、自分の足で立ち、誰かのために涙を流し、凛として運命に立ち向かうアーヤの魂だ。……彼女を籠の鳥にすることは、彼女の魂を殺すことと同じだ」
ライゼルは腰の聖剣を抜き放ち、迷いなくアーヤの足首に繋がれた銀の鎖を断ち切った。
「私は、アーヤを閉じ込めたいほどに愛している。その醜い独占欲さえも、私の一部だ。……だが、私はそれ以上に、アーヤがアーヤとして幸せに笑う世界を守りたい!!」
その瞬間、豪華な書斎がガラスが割れるように崩れ去った。 ライゼルの咆哮とともに、彼の内側から独占欲の黒い炎ではなく、彼女を護るための純粋な白銀の炎が吹き上がった。
——気がつくと、ライゼルは祭壇の前で膝をついていた。 目の前には、驚いた表情で自分を見つめる本物のアーヤがいる。
『……見事だ、人の子よ。己の最も醜い欲望を直視し、それを支配ではなく守護の力へと昇華させたか』
火の精霊王が、満足げにその巨体を揺らした。
『合格だ。お前の魂に、我が火の加護を刻もう。これはお前の独占欲を正しき力に変え、彼女をあらゆる災厄から焼き守る盾となるだろう』
ライゼルの胸にある刻印が、鮮やかな紅蓮の輝きを放ち、彼の肉体に新たな力が脈打つのを感じた。
試練を終え精霊王が姿を消すと、ライゼルは立ち上がり、心配そうに駆け寄ってきたアーヤを今度は鎖ではなく、温かな両腕でしっかりと抱きしめた。
「ライゼル様……! 大丈夫ですか? 急に意識を失われて……」
「……ええ。少し、自分の中の魔物と話をしていただけです」
ライゼルはアーヤの肩に顔を埋め、深く息を吐いた。幻影の中で鎖を断ち切ったとき、彼は悟ったのだ。彼女を閉じ込めるのではなく、彼女がどこへ行こうとも、その隣を絶対に譲らないことこそが、自分に課せられた真の執着の形なのだと。
「アーヤ。……私は決めたのです。あなたがこの世界のどこへ行こうとも、何をしようとも、私は影のようにあなたに付き従い、守り支え抜くと」
「ライゼル様……」
「たとえあなたが私を疎ましいと思う日が来たとしても、私は決してあなたを離しません。……それが、私の選んだ試練の答えです」
アーヤは、ライゼルの胸の刻印が、自分の周りに集まってくる精霊たちと共鳴するように、熱を持っていることに気づいた。ライゼルの覚悟を認めた小さな精霊たちが、祝福するように彼の周りで嬉しそうに光り、その熱がアーヤにも伝わってくる。
「疎ましくなんて思いません。私をそんなに深く想ってくださって、ありがとうございます」
アーヤがそう言って微笑むと、ライゼルは救われたような表情を見せ、彼女の額にそっと唇を寄せた。




