30.旅立ちの朝と白銀の道行き
王命が下されてから数日。レイヴァーグ本邸は、かつてない活気に包まれていた。 アーヤの専属侍女となったリーネは、主の長い旅路を支えるため、目の回るような忙しさで準備を進めていた。
「アーヤ様、こちらは精霊術の研究に使う魔導具一式です。それから、道中で体が冷えないよう、王宮魔導師特製の温熱布も。あ、お茶はライゼル様がお好きな銘柄と、アーヤ様がリラックスできる果実茶を……」
「リーネ、そんなにたくさん……馬車に乗るかしら?」
苦笑するアーヤに対し、リーネは真剣な表情で頷いた。
「もちろんです! ライゼル様が特注された、長旅用の頑強な魔導馬車ですから、この程度ではびくともしません」
リーネはテキパキと荷物を詰め込んでいたが、ふと、その手が止まった。荷物を見つめる彼女の肩が、微かに震えている。
「……本当は、私もお供したかったのです。聖地がどれほど険しい場所だとしても、アーヤ様のお側でお世話をしたかった。髪を整えることも、お茶を淹れることもできないなんて……侍女失格です」
リーネは唇を噛み、潤んだ瞳をアーヤに向けた。
「アーヤ様は、お優しいから。無理をしても『大丈夫』と仰ってしまうでしょう? ライゼル様は……その、過保護すぎてアーヤ様を甘やかしすぎてしまうかもしれません。私がいれば、ちゃんとお小言も言えたのに」
寂しさと、役に立てない自分への不甲斐なさが入り混じったリーネの言葉。アーヤはそっと彼女の手を包み込んだ。
「リーネ、ありがとう。でも、あなたがここで家を守ってくれていると思うだけで、私は安心して旅ができるのよ。帰ってきたら、一番にあなたの淹れたお茶を飲ませてね」
「アーヤ様……。はい、最高の一杯をご用意して、首を長くしてお待ちしております!」
リーネは涙を拭い、無理に明るく笑ってみせた。そして、傍らで出発の準備をしていたライゼルの方を向き、深々と頭を下げた。
「ライゼル様。アーヤ様を、どうかよろしくお願いいたします。もし少しでもお痩せになったり、元気がなくなったりした状態で帰ってこられたら、私、ライゼル様にも怒鳴ってしまいますから!」
「心得ている。命に代えても、彼女を健やかなまま連れ戻そう」
ライゼルの短い、けれど揺るぎない誓いを聞き、リーネはようやく安心したように表情を和らげた。
——
出発の朝。正門にはグレンヴァルト侯爵とグレイグ、そして邸の使用人たちが勢揃いしていた。 ライゼルは騎士団の正装ではなく、動きやすさと防御性能を兼ね備えた、上質な漆黒の革に白銀の装飾が施された旅装に身を包んでいた。その腰には、国王から下賜された聖剣が静かに輝いている。
「アーヤ、行きましょう」
ライゼルはアーヤの手を取り、エスコートするように馬車へと導いた。
「……ライゼル」
呼び止めたのはグレンヴァルト侯爵だった。彼は無言で息子の肩を叩き、それからアーヤに向けて深く一礼した。
「アーヤ殿、息子を頼みます。しかし、あなた自身も無理はしないように」
「はい。必ず、皆さんの元へ戻ってきます」
馬車が動き出し、王都の景色がゆっくりと遠ざかっていく。 しばらくは街道を進む静かな旅路。しかし、馬車の中でのライゼルは、以前にも増してアーヤから一刻も目を離そうとしなかった。
「アーヤ、気分は悪くありませんか? 揺れが激しいようなら、私の膝を枕にしてください。あるいは、こうして抱きしめていた方が安心できますか?」
「ライゼル様、まだ王都を出て数時間ですよ……? 私は大丈夫です」
困ったように笑うアーヤだったが、ライゼルは真剣だった。彼はアーヤの腰を引き寄せ、彼女の髪にそっと触れる。
「これから向かう灼熱の霊峰は、今の季節、空気がひどく乾燥し、魔力も不安定になります。あなたの身に万一のことがあれば、私は自分を許せない。試練に挑む前から、私の心はあなたを守りたいという衝動で焼き尽くされそうなのです」
その瞳に宿る、昏いほどに深い愛情。 アーヤは彼の胸に顔を埋め、その鼓動を感じながら思った。この激しすぎるほどの想いが、最初の試練でどのように試されるのか。
馬車はライゼルが特注した最高級品で、魔法的な緩衝材が使われているため驚くほど揺れが少ない。しかし、ライゼルにとってそれは、アーヤを腕の中に閉じ込めておくための正当な理由を奪うものでしかなかった。
「アーヤ、少し指先が冷えていますね」
「えっ、そう……ですか?」
ライゼルはアーヤの両手を自分の大きな掌で包み込むと、指の一本一本を慈しむように、丁寧に口づけを落としていく。その所作はあまりに恭しく、それでいて熱烈だった。
「ライゼル様……はずかしいです」
「誰も見ていません。ここは私とあなただけの場所ですから。本当は、馬車から降ろしたくない。このまま私の腕の中にだけ置いて、一歩も外を歩かせたくないくらいだ」
ライゼルはそう言って、アーヤの耳元に唇を寄せた。 王都では副団長として、また侯爵家の次男として自制していた彼の箍が、旅の始まりと共に外れ始めているのをアーヤは肌で感じていた。




