09.それは“必要”という名の贈り物
仕立て屋の扉をくぐった瞬間、甘やかな布の匂いが鼻をくすぐった。
柔らかな絹や織地が静かに並ぶ空間に、店主がすぐさま気づき、姿勢を正して迎えに来る。
「アッシュグレイヴ男爵さま、お久しゅうございます。……本日はご夫婦で?」
「ああ。夜会用のドレスが要る。間に合うか?」
「もちろんでございますとも。奥さまのお好みを伺いながら──」
「任せる」
レオはぶっきらぼうにそう言い捨て、部屋の隅の椅子に腰を下ろした。
目線だけでパメラを促す。彼女は一瞬まばたきをしてから、そっと頷き、布の棚へと歩み出る。
「……こんなに、たくさん……」
誰にともなくこぼした声が、妙に耳に残る。
手に取ったのは、淡いブルーグレーの絹地。次いで、深みのある葡萄色。派手ではないが、どれも光を受けて柔らかな艶を返していた。
「これなど……どうでしょう。少し落ち着いた色ですが、裾に銀糸の刺繍を入れれば、夜会にも……」
「それじゃ地味すぎる」
思わず、口が先に動いた。
パメラが振り返る。驚いたような表情に、わずかな紅がさす。
「……そう、ですか?」
「ああ。もっと華のあるやつにしろ。夜会だ。出席者の目に触れる」
「……はい」
視線を落とし、再び布を手に取り始めた後ろ姿。
その肩越しに覗く横顔は、どう見ても──ほんの少し、嬉しそうだった。
(……なんだ、その顔は)
レオは喉の奥に引っかかった何かを、ごくりとのみ込んだ。
控えめで、遠慮がちで、何かにつけて「わたくしなど」と引いてみせる。
だというのに、なぜか、目が離せなかった。
そして──また、言葉が勝手に口を突いて出た。
「……夜会のだけじゃねぇ。普段着も頼む」
椅子に身を預けたまま、レオは店主に顔を向けた。
「外出着、部屋着、靴、それから帽子もだ。奥方に必要なものを一通り。見劣りしない程度で、派手すぎず……質は落とすな」
店主は一瞬だけ目を見張ったが、すぐに柔らかな笑みで頷いた。
「承知いたしました、男爵さま。寸法をいただき、すぐにご用意いたします」
それを聞いて、パメラが驚いたようにこちらを振り返る。
両手で生地を押さえ、小さく呟いた。
「……これ以上は、贅沢ではないでしょうか」
控えめに遠慮するその声に、レオは即座に眉をひそめる。
「必要なものだ。みすぼらしい格好の奥方が隣にいちゃ、家の格が疑われる」
言葉は冷ややかだが、それは照れ隠しのようにも聞こえる。
だが、それだけでは終わらない。
一拍置いて、レオは視線を逸らしたまま、ぽつりと続ける。
「……マルトン夫人の件もある。あれくらい追い払ってくれりゃ、礼のひとつもして当然だろ」
無理やり言い訳を押し込んだような声音だった。
パメラは一瞬きょとんとしたように目を見開き──次いで、ふんわりと微笑んだ。
その笑みには、どこか誇らしさと、わずかな照れが交じっている。
「では……ありがたく甘えさせていただきますわ、レオさま」
ふわふわとした声に、レオはそっぽを向いたまま、短く言い捨てた。
「……そうしろ」
彼女がまた布に向き直ったのを見届けたとき、レオはようやく小さく息を吐いた。
(……ああ、まただ。なんでこんなことを言った)
そう思っても、もはや止まらない。支払いの話は進み、注文もすっかり確定している。
目を輝かせながら布を選ぶその横顔が、なぜか──この場所の空気と妙に馴染んで見えた。
──ただの礼だ。あくまで、それだけのはずだ。
そう何度でも自分に言い聞かせながら、レオはゆっくりと椅子を立った。
「……行くぞ。次は宝石だ」
「はい。ご一緒いたしますわ」
控えめな返事に込められた小さな喜びの気配を、レオは否応なく感じ取っていた。
その足取りには、わずかに弾むような軽さがあった。
宝石店の扉を開けると、澄んだ鈴の音が小さく響いた。
磨き込まれたガラス棚には、整然と並べられた宝石の数々。
まるで光の海のように、色とりどりの煌めきが溢れている。
パメラが一歩足を踏み入れた瞬間、小さく息をのんだ。
「……なんて、きれい……」
その声には素直な感嘆がこもっていた。
だが、すぐに彼女の顔に、わずかな陰が差す。
「……けれど、やはりわたくしには少し、贅沢すぎる気がいたしますの」
控えめにそう呟く声に、レオは足を止めた。
「……贅沢じゃねぇ」
そのまま振り返りもせず、低く告げる。
「必要なもんだ。それとも、お前は──俺の財力が、その程度しかねぇと思ってんのか?」
「いえっ、そんな……!」
パメラが慌てて首を振る。
「俺は戦で名を上げて、爵位を得て、ここにいる。男爵の名に恥じない程度の蓄えくらいはある」
振り返ったレオの目が、静かに彼女を射抜いた。
「遠慮は美徳じゃねぇ。俺に対して、無礼だ」
言い切った声には怒気はなかった。ただ、まっすぐな意地と自負があった。
パメラはしばし口を閉ざし──やがて、ほんのりと微笑んだ。
「……では、遠慮なく、選ばせていただきますわ」
「そうしろ」
うなずいたレオは椅子に腰を下ろし、パメラが並べられた宝石の前に立つのを静かに見守る。
ルビー、ガーネット、アメジスト──赤や紫の石が、温かな光を受けて揺らめく。
パメラは、その中のひとつに目を留めた。
深い赤紫の輝きが、まるで夕暮れの空のように吸い込まれそうな色を湛えていた。
「……これ、がいいですわ」
そう言って手に取った石を、そっと胸元にあてる。
その瞬間、レオの瞳がわずかに揺れた。
宝石の色と、自らの目の色が重なったことに──パメラは気づいていないのだろうか。
いや、それとも計算づくだろうか。
「どうかしら?」
問いかける声に、レオは一拍置いてから、低く答える。
「……悪くねぇ」
「ふふっ、ありがとうございます」
パメラの微笑みは、どこか誇らしげで、それでいて無邪気だった。
その表情を見て、レオはまたしても思ってしまう。
(……やっかいな女だ)
だが、口には出さない。
宝石店の静かな空気のなか、レオは店主に合図を送る。
「それでいい。支払いは俺が済ませる。……丁重に包め」
「かしこまりました、男爵さま」
淡々と応じた店主が奥へと引っ込むと、パメラはそっと礼を述べた。
「ありがとうございます、レオさま。……大切にいたしますわ」
「社交の準備だ。礼を言うことじゃねぇ」
そっけなく言い放ちつつも、その声はどこか柔らかかった。
宝石よりもあたたかな色を、瞳の奥にひとつ、宿していた。
包まれた箱をそっと受け取ったパメラは、それを胸に抱くようにして微笑んだ。
まるで、ただの装飾品ではなく──大切な贈り物であるかのように。