08.夜会の招待状と、灰色の石
春の陽が差す午後、陽の間にはあたたかな光と、干した布の香りが満ちていた。
パメラは小さな籠の中からレースの端切れを取り出し、どのカーテンに縫い足すか思案していたところだった。
扉の向こうから、聞き慣れた足音が近づいてくる。
重たく、ぶっきらぼうだけれど、乱れはない。
その音を聞くだけで、パメラは自然と顔を上げる。
──レオだった。
「……手紙が届いた。王都からの使いだ」
扉が開き、彼が現れる。手には、濃紺の封蝋で封じられた厚手の封筒。
そこには、ヴェステリア公爵家の紋章が刻まれていた。
「まあ……公爵家から?」
パメラが受け取ろうと手を伸ばすと、レオはほんの一瞬だけ封筒を見下ろし、少しばかり面倒そうに肩をすくめた。
「……夜会の招待状だ。“夫婦で出席せよ”ってな」
「夫婦で……」
パメラは思わず声を漏らす。
レオは無造作に椅子へ腰かけ、封筒をテーブルに置く。
「顔見せだ。世話になった以上、公爵の顔も立てねぇとな。この屋敷だって、融通してくれたのは公爵だ」
「……なるほど。つまり、アッシュグレイヴ家の“新しい奥方”として、お披露目されるわけですのね」
「そういうこった」
パメラは封筒にそっと指を這わせながら、小さく首をかしげた。
「でも……このままでは、お見苦しい姿で伺うことになりますわ」
「わかってる」
レオは少しだけ言葉を重ねるように、低く答える。
「ドレスを……仕立ててやる。それに、宝石も必要だろ」
「……!」
驚きと喜びが、声になる前に微笑みに変わる。
「では、選びに……?」
「ああ、付き合う。……勝手に選ばれても困る」
「ふふっ。かしこまりましたわ、“旦那さま”」
いたずらめいた笑みと共にそう言うと、レオはふいっと視線を逸らす。
「……はしゃぐな。これは社交だ。仕事だ」
「わかっております。でも、せっかくですもの。お買い物なんて──まるで、デートですわね」
「は? ちげぇよ」
「でも、ふたりきりで馬車に揺られて、お洋服を選びに行くなんて──立派な“デート”ではありませんの?」
にこにこと笑うパメラを見下ろしながら、レオは諦めたように頭を振る。
「……支度しとけ。明日、街へ出る」
「はい、レオさま」
嬉しそうに微笑むパメラの声は、そよぐ風のように軽やかだった。
だが、その目の奥には、“社交”という名の戦場を前にした者の静けさが宿っていた。
*★*――――*★*
馬車のなかは、木々のざわめきと車輪の揺れに包まれていた。
パメラは膝の上に小さな布包みを広げ、そっと中身を取り出した。
「……これも、持って行こうと思いまして」
布の中にあったのは、掌にすっぽり収まる灰色の石だった。
平たく磨かれた表面には、かすれた線で小さな霊獣らしき姿が彫られている。
翼があったのか、耳だったのか、判然としない。形は歪で、どこか幼さを感じさせる彫りだった。
けれど、その不器用な線のひとつひとつが、パメラの指先に馴染んでいた。
「願い石ですの。昔、ある場所で出会った方と……ほんのひととき、一緒に作ったんです」
レオはちらりと石を見下ろしたが、何も言わなかった。
パメラは石を裏返し、もう一方の面をそっと撫でた。
裏には、ぎこちない手つきで刻まれた、四足の獣の姿。
牙を剥いているのか、笑っているのか、判別のつかないその線は、けれど確かに“何かを守ろうとするもの”のように見えた。
「少し拙い彫りですが……でも、どちらも懸命に彫ったものなんですのよ」
パメラは照れくさそうに笑う。
「こうして、何か大事な場所へ向かうときは、持っていると安心するんですわ。お守り、というか……そういうものですの」
「……どこで作ったんだ、それ」
「静養先で。……貴族の子どもたちが集まる、名乗りを禁じられた場所でしたの。名前も家も伏せるのがルールで。だから、お相手のことも、何も知らなくて……」
「名前も?」
「ええ。聞きたかったけれど──聞きませんでした」
ほんの一瞬、パメラの指が石を強く握る。
「ルールだからと、聞けなかったんです。……けれど、あとでとても後悔して。だから今は、やらずに後悔するくらいなら、やってしまえばいいって、思うようにしているんですの」
そうしてもう一度、石を布に包み直す。
稚拙な彫りが、柔らかな布地のなかにそっと隠されていった。
レオは、その様子を横目に黙っていた。
(……どこかで、見たことがあるような……)
頭の奥に、くすんだ記憶が手を伸ばしてくる。けれど、まだ形にはならない。
気にすることではないだろうと、レオは思いを打ち消す。
「支度は、できてるんだろうな」
「もちろんですわ。今日は“お仕事の買い物”ですものね」
「……ああ」
「でも、楽しみですのよ。だって、レオさまとお出かけですもの」
「……ちげぇ。仕事だって言ってんだろ」
「“仕事のデート”ってことですわね」
くすりと笑うパメラの声音が、春の風のように馬車のなかを通り抜けていく。
レオは小さく舌打ちしながらも、それ以上否定はしなかった。
石畳の揺れに、車輪が軽く跳ねた。
窓の外には、人通りの多い商人通りが見え始めている。
パメラは、あの灰色の石を再び膝の上で撫でていた。
小さな掌にすっぽり収まる石。その彫り跡は、幼いながらも懸命に刻んだ──そんな形をしていた。
(……あのときの、石……)
記憶の底に沈んでいた光景が、泡のように浮かび上がる。
名乗りが許されない場所。風に揺れる白い帳と、遠くに聞こえた鐘の音。幼い少女の笑い声。慣れない手つきで彫った護獣の背に、小さな手が添えられた感触。
(まさか……)
思わず視線を落とした先で、パメラがふとこちらを見上げる。
「……どうかなさいました?」
「いや。……なんでもない」
レオはわずかに目を伏せる。
(……そんな都合よく、いくわけがねぇ)
自分にそう言い聞かせながらも、胸の奥にひとつ、名も知らぬ記憶の灯がともりかけていた。