07.静かなる返り討ち
穏やかな春の午後だった。
陽の間には、風に揺れるレースのカーテンと、微かなラベンダーの香りが漂っている。
窓際には手縫いのクッションが並び、小さなテーブルの上には、焼き菓子と紅茶の用意が整っていた。
「リリィ、ありがとう。とてもきれいに淹れてくださったのね」
「い、いえっ、奥さまこそ……この焼き菓子の置き方、少しお洒落だって厨房で話題なんですのよ」
そんな会話が弾んでいたところへ、控えのメイドが足早に飛び込んできた。
「お、奥さま! お客様が、正門に……!」
息を切らしながら告げられたその名に、周囲の空気がぴたりと凍る。
「……マルトン夫人が、お越しです」
陽の間にいた使用人たちが一斉に顔を見合わせた。
誰もが知っていた。マルトン夫人──旧貴族派であり、かつてこの邸宅の所有者と懇意だったという女。
上品ではあるが、あからさまに“格”を見下してくるその態度と、言葉に忍ばせた毒気。
ご機嫌取りは通用しない。相手が気に入らなければ、どんな高貴な令嬢であろうと平気で貶める女だった。
「わたくしが……お迎えいたしますわ」
そう言って、パメラは立ち上がる。
笑顔はいつもと変わらない。けれど、声の調子だけがほんの少し、澄んだ水面に落ちた小石のように揺れていた。
「お茶もございますし、せっかくですもの。よろしければ、“陽の間”へお通しして──」
「えっ……奥さま、ここに!?」
「ええ。お客様をお迎えするには、ぴったりの部屋でしょう?」
パメラがにっこりと笑うと、誰もそれ以上、言葉を継ぐことができなかった。
やがて、重たい足音とともに、マルトン夫人が陽の間へと姿を現した。
年の頃は五十を過ぎたあたりだろう。小柄ながらも張りのある声と、厚ぼったい金の装飾が目を引く。
「──あらあら、まぁ。これは、なんと素朴なお部屋ですこと」
陽の間を一瞥しただけで、ため息交じりの感想を漏らす。
目の奥には嘲りがある。丁寧に整えられたカーテンやクッションも、彼女にとっては安物の装飾でしかないのだろう。
「ようこそお越しくださいました、マルトン夫人。お足下の悪い中、ありがたく存じますわ」
パメラは恭しく一礼し、柔らかな笑みで応える。
夫人は、椅子をすすめられる前に勝手に腰を下ろした。
レースのクッションに手を置いて、一度、小さく鼻を鳴らす。
「……まあ、賑やかなのはいいことですけれどね。お若い奥さまには、もう少し格式というものを知っていただきたいわ」
「そうですね。わたくしもまだまだ至らぬところばかりで……こうして学ばせていただける機会が、とてもありがたくて」
「学ぶというより、身につけることが大切なのですけれど」
マルトン夫人の視線が、パメラのドレスに留まる。
艶を失った布地、擦り切れた袖口。華美な装飾はなく、質素な一着。
「まあ……そのドレス、随分とお控えめですこと。貴族の奥さまには、もう少し相応しい装いがあるのでは?」
声は柔らかいが、その実、斬るように鋭い。
けれど、パメラは微笑を崩さず、紅茶を一口含んでから、にこりと返した。
「ええ。控えめな装いですわ。ですが、この邸宅に相応しいと思いまして」
「……まぁ、アッシュグレイヴ家は爵位を得たばかりのご家系ですものね。伝統の重みとは、また違うご趣味があるのでしょう」
「はい。古き良き伝統とは、日々の積み重ねによって築かれるものと伺っております。ですから、わたくしはまず、このお屋敷にふさわしい空気を少しずつ整えていきたいと存じますの」
マルトン夫人の眉が、かすかに動く。
「でも、やはり見目も大切ですわよ? 外からの訪問者は、奥方の装いひとつで家格を測るものですもの」
「おっしゃる通りですわ。……けれど、それは“家格が装いによって測られる”という前提がある場合ですわよね?」
「……え?」
「ですから、貴族としての誇りや地位が“装飾”に依存しているご家系でしたら、それはさぞかし大変なことでしょう、と」
パメラは、微笑をそのままに、紅茶をそっと置いた。
「幸い、アッシュグレイヴ家は、実績と信頼で爵位を授かった家ですの。過剰な装飾より、誠実さを求められる立場かと」
「…………」
夫人は言葉をのんだ。だが、すぐに顔をつくり直す。
「ふふ……ずいぶんと気丈な方なのね。ご自分の立場をしっかりとご理解なさっているようで、感心いたしますわ」
「ありがとうございます。夫人のような、長年のご経験を持たれる方にそう言っていただけると、励みになりますわ」
「……」
「ただ、ほんの少しだけ気がかりなことがあって──」
パメラは、わずかに首を傾げる。
「わたくしのような未熟な者が、こうしてこの家の“奥方”を務めていることが、どなたかの目にどう映るのかしらと……ふと、考えてしまいましたの」
「…………」
マルトン夫人の唇が、かすかに引き結ばれる。
「でも、今のお言葉を伺って、少し安心いたしましたわ。わたくしはまだまだ経験も浅くて、格式ある方々の前では至らぬ点ばかりですもの」
パメラは微笑を深めた。
「だからこそ、装いだけで見栄を張るよりも、丁寧に手を加え、居心地のよい空間を整えることが、今のわたくしにできる“礼”かと思いましたの」
「………………」
マルトン夫人は立ち上がった。まるで座っていることが恥であるかのように、動作は早い。
椅子を引く音が、わずかに大きくなった。
脚が床をこすり、絨毯にずれた跡が残る。
夫人はそれを見て、瞬間、顔をしかめ──すぐに笑顔を作った。
「……それでは、またの機会に伺いますわね。次は、もっと格式にふさわしい装いで」
「ご助言、感謝いたします。では、その際は──わたくしも“格式”を楽しめるよう、夫人のお手本をしっかり拝見いたしますわ」
夫人の目がかすかに吊り上がったが、それ以上何も言えず、踵を返して歩き去った。
*★*――――*★*
夕刻、レオが屋敷へ戻ってきたとき、門前には一台の馬車が止まっていた。見覚えのある金細工の紋章が、夕陽を反射して鈍く光っている。
(……あのババァの馬車じゃねえか)
こんな辺鄙な屋敷まで、また何の用だ。
社交と称して権威を誇示するような連中のことは、戦場よりも疲れる。
だが、次の瞬間──馬車の扉がばたんと開いた。
出てきたのは、あのマルトン夫人……ではなく、従者の一人。彼が足下の踏み台を手早く仕舞い、慌てて扉を閉める。
その中には、うつむいたままの夫人がいた。
背筋を伸ばし威圧的に振る舞うはずの彼女が、今はただ、肩をすぼめて窓に背を向けている。口をきつく結び、スカートの裾を掴む指が震えて見えた。
まるで──逃げるようだった。
従者が手綱を引くと、馬車は勢いよく門を出ていく。
そして、その後ろ姿を、レオはしばらく無言で見つめていた。
「……何があった?」
ぽつりとこぼれた声は、誰に向けたわけでもない。
屋敷に足を踏み入れると、廊下にいた使用人たちがぱっと振り返る。誰もがどこか浮き足立ち、目を輝かせていた。
「旦那さま、お帰りなさいませ!」
「奥さま、すごかったんですのよ!」
「言葉ひとつで、あのマルトン夫人を……!」
レオは片眉をわずかに持ち上げた。
“あの”マルトン夫人を?
──それは、誰よりも鼻持ちならない女だと、レオ自身が思っていた相手だ。
幾度も面倒事を持ち込まれ、冷ややかにあしらってきた。相手にしなければよいと分かっていても、いざとなれば屋敷の格式まで持ち出してくる厄介な存在。
だが、今日の彼女は──敗北者の顔をしていた。
「……まさか、本当にあの女を返り討ちにしたってのか?」
信じられず呟くレオに、別の侍女が嬉しそうに言う。
「奥さま、ずっと笑顔でしたの。マルトン夫人が何を言っても、にこにこと丁寧に受け止めて……でも、気づいたら全部、返されていて……!」
「返された?」
「ええ。綺麗に、静かに、まるで踊るように」
使用人たちの間で、憧れにも似た感嘆の吐息が洩れる。
レオはその場を離れ、無言のまま陽の間へと向かう。
戸口から中をのぞくと、パメラが窓辺に座り、針箱を手にしているのが見えた。
陽の残る部屋のなか、彼女は淡く笑っていた。
まるで何事もなかったかのように。
(……やっぱり、何を考えてるか、わかんねぇ)
だが──。
(助かったのは、確かだ)
そう思ったとき、自分の口元がほんのわずかに緩んだことに、レオは気づいていなかった。