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06.陽の間に、春が満ちていく

 南向きの“陽の間”は、長らく使われていなかったせいで、どこか埃っぽく、壁紙の一部は陽に焼けて色褪せていた。

 けれど、窓を開け放つと、春の柔らかな日差しが床いっぱいに差し込み、頬をくすぐるような風がカーテンを揺らしていく。


「……まあ」


 パメラは、思わず両手を胸の前で組んだ。

 南向きの“陽の間”は、質素な部屋だった。豪奢な装飾も、貴族らしい威厳もない。けれど、その簡素さにこそ、手を加える余地があった。


「この窓辺に椅子を置いて……お花を飾る棚があったら、素敵ですわね」


 ふんわりと微笑みながら、パメラは部屋の隅に視線を向ける。壁紙の剥がれをそっと撫でながら、次に貼る色を思い描く。


「奥さま、剥がしますか? 私が──」


「いいえ、まずはこのままにしておきましょう。陽の射す時間にあわせて、どこまで日が入るのか見極めてから……ね?」


 パメラはケープの裾を軽くつまみ、しゃがみ込むと、床の埃を丁寧に拭き取っていく。

 貴族の令嬢らしからぬその所作に、手伝おうと駆け寄ってきたリリィや他の使用人たちが、息をのんで立ち尽くした。


「奥さま……そんなこと、私どもが──」


「お手を煩わせるつもりではありませんの。ただ、わたくしも少しだけ、この部屋の一部になりたいのです」


 そう言って、パメラはにこりと微笑んだ。

 光を浴びた笑顔は、それだけでこの部屋を柔らかく照らすかのようだった。


 やがて、皆が「少しだけ」と言いながら集まりだす。

 端切れを持ってきた者。古いクッションの綿を詰め替えようとする者。戸棚の奥に眠っていたレースをそっと広げる者。


「奥さま、これ……お使いになりますか?」


「まあ、素敵。きっと窓辺にぴったりですわ」


「壁に掛ける飾りにしては? あたたかい印象になりますし……」


「でしたら、このリボンも使ってくださいませ。以前の奥さまが残していったものらしくて……ずっとしまわれたままでしたの」


「それは……それなら、尚更ですね。丁寧に使わせていただきますわ」


 パメラは、与えられたものをまるで宝物のように扱った。それがどれほど古びたものであっても、ひとつひとつに目を向け、丁寧に言葉を添える。


「この棚も、角を少し削って丸くすれば……ぶつかっても痛くありませんし、優しい印象になりますわ」


 淡々と提案しながら、実際に自分の手で作業に加わる。

 上品な微笑と、時折見せる真剣な眼差し。それに惹かれるように、使用人たちは自ら道具を持ち寄り、陽の間の中に活気が生まれていった。


 陽の間は、もうかつての空き部屋ではなかった。


 温かな陽射しと、人々の笑い声。誰かの手によって選ばれ、整えられていくという温度のある空間。

 その中心に、パメラは確かに存在していた。


 陽の間に出入りする使用人たちは、いつもと変わらぬ笑顔を見せていた。

 けれど、ふと気づけば──その多くが、女性やまだ年若い少年少女で占められている。


(この屋敷、思っていた以上に使用人が多いような……)


 帳簿を見せてもらった折、パメラは思わず眉を寄せた。

 名簿には「未亡人」「遺族」「家族を戦で失った者」などの注記が並び、いくつかの名前には「傭兵時代の縁者」と添えられていた。


「旦那さまは……亡くなった仲間や、重傷で働けなくなった方のご家族を、できる限り引き取っておられますの」


 侍女のリリィが、そっと打ち明けた。


「行き場のない方に、居場所を。旦那さまは、それだけのことだと……仰っておられました」


 何気ない一言だったが、それはこの屋敷の静かな温もりの理由を教えてくれた気がした。


 パメラはそっと頷いた。

 この陽の間が、ようやく家の空気を帯び始めたのと同じように──この屋敷そのものもまた、誰かの命の続きとして息づいているのだと。



*★*――――*★*



 昼下がりの執務室。窓辺には南からの陽が差しているはずだったが、背筋にまとわりつく空気は妙に冷たかった。


 手元の報告書に目を落としていたレオは、ふと顔を上げる。廊下の先から、かすかな笑い声が聞こえてきた。

 甲高くはない。けれど、やけに楽しげで──妙に耳に残る、あの女の声。


(……また何か、やってやがるな)


 この屋敷は元々、絶えた男爵家の邸宅だった。重々しい静けさをまとい、家具も調度も古いまま、空間だけが時を止めていた。

 その空気が変わったのは、“陽の間”にあの女が移ってからだ。


 今では、そこの扉が開くたびに笑い声が漏れ、使用人たちがやたらと出入りしている。

 古い布を裁ち、小物を作り、飾りを加え、まるで女子修道院の余暇のような騒がしさだ。


「奥さま、すてきです!」


「このクッション、色合いが陽の間にぴったりですわ!」


「奥さまの手縫い、器用でいらっしゃいますのね」


(……あのレース、以前の奥方が使ってたやつか? 引き出しの奥にあった古布まで引っ張り出して……)


 陽の差す部屋でよく喋り、よく笑い、よく動く。

 まるで、ずっと昔からこの家を守ってきた正統な女主人のようだった。


(……何が“改装させてください”だ。気づいたら“私の部屋”だとでも言いたげな顔しやがって)


 そればかりか、使用人たちの空気もすっかり変わっていた。

 少し前までなら、レオが廊下を歩けば視線は伏せられ、会釈一つもぎこちなかった。

 ところが今では、やけに目を合わせてくる。


「旦那さま、奥さまのことお好きなんですね」


「ぶっきらぼうだけど優しいなんて、奥さまと理想のご夫婦ですよ」


(いや、ちげえ。なんでそうなる)


 何かを言いかけて、結局、口を閉じた。

 言ったところで信じてもらえないのは、昨日のやりとりでよくわかった。


 メイド長が、こんなことを言ったのだ。


「旦那さま、そろそろ奥さまに、正装用のドレスを一着くらい贈って差し上げては……」


 ──たしかに、パメラが身にまとっていたのは、古びた仕立てのドレスだった。

 袖口は擦り切れ、色もすっかり褪せている。装飾も最小限で、華やかさからは遠い。

 それでも彼女は、微笑みを浮かべてこう言った。


「色あせて見えるかもしれませんけれど、少しずつ手を入れているんですのよ。こういうのも、悪くないと思って……」


 その一言が、使用人たちの心をつかんでいた。古くとも丁寧に着続ける姿に、健気さと誠実さが重なって見えたのだろう。


(……わざとに決まってる。あれで同情を集めて、誰の胸にも入り込もうって魂胆だろ)


 レオはぐっと目を伏せ、指先でこめかみを押さえた。


 居心地が悪い。


 この屋敷は本来、自分の戦の報酬で得た城だった。

 重厚で、静かで、誰にも気を許すことのなかった空間。それが──。


 今や、花の色と布のぬくもりに染まり、香り立つ紅茶と笑い声が支配する“女の居場所”になっている。


 ふわふわと笑うその女が、まるで何の力も使わずに屋敷を塗り替えていく様子に、レオの奥底はじわじわと侵食されていく。


(……気づけば、どこもかしこも、あの女の空気に染まってやがる)


 咄嗟に立ち上がり、椅子がわずかに軋んだ。

 無造作に上着をつかみ、扉へと向かう。


「……ちょっと、出る」


 誰に言うでもなく吐き捨てた言葉に、返事はなかった。

 扉の向こうでは、まだ、陽の間から笑い声が響いていた。

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