05.陽の当たる部屋へ
春の朝は、目に映るものすべてが静かに芽吹きを始めていた。
アッシュグレイヴ邸の庭先では、ようやく花のつぼみが膨らみかけており、まだ冷たい空気の中に、微かな土の匂いが混ざっている。
パメラは、その匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
縫い目のほつれたケープを羽織り、部屋の小さな窓を開け放ったのだ。外は晴天。だが、窓から入る日差しはわずかで、部屋の奥までは届かない。
(ああ……日差しって、こんなに貴重でしたのね)
思わずぽつりと漏らした声は、ケープの中で震える肩に吸い込まれていった。
この部屋に暖炉はある。窓もある。
けれど、南ではない。陽は差さず、空気はどこか湿っている。
ラングリー家の屋敷でも同じだった。誰にも邪魔にならない、家の隅の冷たい場所。
だが──。
「まあ、わたくしのような身には、かえって落ち着くのかもしれませんわね」
そう言って、パメラはくすりと笑う。
あくまで、諦めではなく感謝の笑みだった。
(……屋敷の構造。使用人の動き。配置と導線。そして、誰がこの部屋をあてがったのか)
そんなことは、言葉にされなくても伝わる。冷遇だと、気づかないはずがない。
けれど──言わない。それがパメラのやり方だった。
黙って受け入れ、笑顔で振る舞う。使用人たちに心配させないように。屋敷の誰にも、気まずさを抱かせないように。
だから、パメラは言葉を選んだ。
「旦那さま……どうすればわたくしにとって快適なのか、迷っておられたのね」
あくまで、相手の気遣いとして語る。悪意ではなく、優しさの不器用さ。そう位置付けることで、誰もが罪悪感を持たずに納得できるように。
そして、今朝。
使用人の一人が、おずおずと声をかけてきた。
「奥さま……その、もしご不便があれば……何なりと……」
パメラはふわりと首を横に振った。
「いいえ、何もございませんわ。けれど、少しだけ──ほんの少しだけ、朝のお日様が恋しくなりますの。南のお部屋にはきっと、もう春の光が差しているのでしょうね」
微笑みながら、壁際の椅子に腰を下ろす。足下の床は冷たく、窓辺もすぐに陰るこの部屋のことを、パメラは一度も「不満」として語らない。
「わたくし、あまり贅沢を申しませんが……でも、貴族の正妻が迎えられるお部屋というのは、昔から“陽の間”と呼ばれる場所が決まっていると伺いましたの」
その言葉に、使用人たちがざわつく。
“陽の間”とは、屋敷の南に位置し、最も日当たりが良い部屋のことだ。貴族の間では、一般的に正妻に宛がわれる部屋となっている。
「陽の間……それって、南向きの……?」
「でも、あそこは今、空き部屋のままで──」
「まさか、旦那さま……お忘れに?」
使用人たちが互いの顔を見合わせる気配を、パメラは控えめな笑みの下で見つめていた。
やがて、年配のメイドが唇を引き結ぶ。
「……奥さま。やはり“陽の間”がふさわしいと、私どもも思います。すぐに旦那さまに──」
「まあまあ、どうかご無理はなさらないでくださいまし」
パメラは両手を小さく振って、彼女たちを制する。
「旦那さまはきっと、お迷いだったのです。わたくしのことを考えすぎて……どのお部屋が良いのか、決めかねていらしたのではないかしら」
「……そうですわ。旦那さまは叩き上げのお方ですもの。“陽の間”が正妻をお迎えする部屋だなんてご存知なかったのですわ」
誰かがぽつりと呟いた。
「でも、優しいお方だから……わたくしが居心地の良い場所を選べるよう、あえて“仮住まい”としてこの部屋にしてくださったのかもしれませんわ」
そう続けるパメラの言葉に、頷く使用人たち。
「だったら、私どもが申し上げればよいのでは……旦那さまに“南の陽の間を奥さまに”と!」
「そうですとも。奥さまのお身体が一番です。冷たい部屋にいさせるなんて──」
「旦那さまは、気付いていらっしゃらなかっただけよね……!」
次々に言葉が重なり、やがて空気は自然と「レオへ伝えるべきだ」という流れになっていく。
(ええ。そうやって、皆さまが“自ら動いた”ことにしておきましょう)
パメラはふわりと笑ったまま、部屋の隅に目をやる。曇った窓。その下の冷えた床。
そのすべてを、愛おしげに見やったあと、小さく囁く。
「……春の陽射し、待ち遠しいですわね」
それは願いではなく、布石だった。
*★*――――*★*
その日の昼下がり、レオ・アッシュグレイヴは書斎で文書に目を通していた。
そこへ、ノックの音に続いて、妙に勢いのある足音が廊下を満たす。
「……旦那さま。お時間、いただけますか」
扉の前に立っていたのは、年配のメイド長と、数人の使用人たちだった。どこか落ち着かない顔つきで、全員が揃って正面に並んでいる。
「なんだ」
「その、奥さまのお部屋について……」
メイド長が遠慮がちに切り出すと、リリィが一歩前に出た。
「奥さまのお部屋、日当たりが悪くて朝晩は冷えるんです。お身体の弱い奥さまには……とても」
「……それで?」
「旦那さま、貴族の正妻には、南向きの“陽の間”が与えられるとご存じでしょうか? あの部屋は今、空いているそうで──」
レオは書類から目を上げると、淡々とした声で問い返した。
「知ってる。……で、それがどうした」
一拍の沈黙。使用人たちが、わずかに目を見開いた。
当然、知らないと思っていたのだろう。だが、その予想は外れる。
レオの目は、「知らなかったわけではない」と告げていた。
(──それでも、俺はあの部屋を与えなかった)
理由を語るつもりはない。語ってしまえば、すべてが“意図的な冷遇”になる。
「……あの部屋で不便なことはないはずだ。暖炉もある」
レオの言葉にリリィが反論の声を上げかけたそのとき、別のメイドが囁くように言った。
「奥さまが……“旦那さまが迷ってくださったのだと思います”って……」
「え?」
レオが思わず声を漏らすと、別の者が畳みかける。
「“優しい旦那さまが、わたくしの好きなように改装できるように配慮してくださったのかもしれませんわ”とも……!」
「………………っ」
手にしていた書類を無意識に握りしめる。
(まさか、そんなことまで……!)
「ですから、やはり“陽の間”に──」
「奥さまは“自分が我慢すればいい”とまで仰いましたけれど、見ていられません!」
あれよあれよという間に、正義感に燃えた使用人たちに囲まれて、レオは静かに頭を抱えた。
──そして、そこへ現れたのが、当の本人だった。
「まあ、皆さま……そんなに大げさにすることではありませんのに」
まるで困らせてしまってごめんなさい、とでも言うような表情で、パメラは手を合わせた。
「旦那さまは、“陽の間”のことをご存じなかっただけですわ。そんなの、当然ではありませんか?」
「……た、たしかに」
「叩き上げのお方ですしね……お育ちが、ちょっと違えば、そういうことも……」
(知ってるっつってんだろうが……!)
レオは歯を噛みしめたが、声には出せなかった。
「南のお部屋、しばらく使われていなかったと伺いましたわ。でしたら、少しずつ手を入れて……私の手で整えても、よろしいかしら?」
柔らかな微笑み。控えめな提案に見せかけて、逃げ道のない布石。
「もちろん、贅沢は申しませんわ。お代も出せませんし、できる範囲で……工夫してみますの」
(どこまで計算している……!)
レオは喉まで込み上げた言葉を飲み下した。
ここで何かを言ったところで、“ひどい夫”になるだけだ。
「……好きにしろ」
ぽつりと落とした声に、使用人たちがぱっと顔を明るくする。
「やっぱり旦那さまはお優しい……!」
「奥さまのこと、本当に大切に……!」
「なんて素敵なご夫婦なのかしら!」
あれよあれよという間に、“思いやりのある夫”の図が完成していく。
(誰が素敵な夫婦だ。ふざけんな)
「レオさま、ありがとうございます」
パメラが、静かに微笑んでいた。
その笑顔がまた、旦那さまへの感謝と尊敬に満ちたものとして使用人たちの目に映ったことを、レオは悟っていた。
(……くそっ……全部、手のひらの上だ)
静かに喉奥から息を漏らす。
──春の日差しの下、レオはひとり、己の敗北を噛み締めていた。