41.願いが叶う日
書斎の扉をそっと開けたとき、パメラはレオの視線が何かを見つめているのに気づいた。
手元には、小さな灰色の石がひとつ。どこか、見覚えのあるかたち。
「お邪魔でしたか?」
そう尋ねると、レオは小さく首を振った。
「いや、ちょうどいいところだ」
机の上に置かれた石へ、パメラは自然と目を落とす。
それを見た瞬間、胸の奥に眠っていた何かが、静かに揺れた。
「それ……」
思わず声が漏れる。
パメラも、ポケットから同じような石を取り出していた。
平たい灰色の石。その片面には、彫り込まれた小さな獣の意匠──かつて、自分が彫った、願い石。
二つの石が、机の上に並べられた。
片方は、ずっとしまい込まれていたために、彫りがはっきりと残っていた。
もう片方は、何度も手の中で握りしめてきたせいで、すっかり角が取れ、模様もうっすらと霞んでいた。
けれど、見ればすぐにわかった。
それは同じ石、同じ時、同じ場所で──願いを込めて彫ったもの。
レオが、静かに言った。
「昔……名も名乗れないまま出会った少女と、一緒に彫った願い石だ。お互いの石に、それぞれ願いを込めて……互いに交換した」
パメラはゆっくりと視線を落とす。
胸の奥が、静かに、でも確かに熱くなる。
あのときの少年──名も知らなかったあの子が、レオだった。
あの夏の日、ただ一緒に石を彫って、名前を聞きたいと言えなくて──でも、別れが寂しかった、あの記憶。
「やっぱり、あなたがあの少年だったのですね」
自然と微笑みが浮かぶ。
レオは苦笑気味に肩をすくめた。
「お互い、変わりすぎてたからな。……気づけなかったのも、無理はない」
「ふふ、そうですわね」
柔らかな笑いが、自然とこぼれた。
だが次に彼が口にした言葉に、パメラの手がそっと止まる。
「……なあ、あのとき。お前は、どんな願いを込めてた?」
しばらく、答えが出てこなかった。
石の表面を指でなぞりながら、パメラはその問いを自分の中で確かめる。
仮面をかぶり続けて生きてきた。
誰にも素顔を見せず、礼儀と優雅さの仮面で、自分自身すらも騙していた。
「……ずっと、思い出せなかったのです」
小さく、そう言った。
「いえ……思い出すのが、怖かったのかもしれませんわ」
あの頃の自分は、もっと素直で、もっと無防備だった。
でも、望みは確かに、そこにあったのだ。
今になってようやく──それを口にする勇気が湧いてきた。
「……わたくしの願いは、“家族と幸せに暮らすこと”でした」
言葉にした瞬間、胸がふわりとほどけたようだった。
こんなにも単純で、こんなにも難しい願い。
貴族の娘として、領主の妻として、仇を追う者として──それでも、自分が望んでいたのは、たったそれだけのことだった。
パメラは、そっとレオを見上げる。
優しい光が彼の肩越しに差し込んでいた。
「もう……叶っていますわ」
静かに微笑むその表情に、レオの瞳がわずかに揺れた。
彼は無言のまま、ゆっくりと彼女に近づいた。
そして、願い石の上で重ねられた彼女の手の上に、自分の手をそっと置く。
「……お前を、愛してる。どうしようもないくらい、惚れてる」
その声は低く、けれど迷いのない熱を帯びていた。
まるで押し留めていた想いが、堰を切ったように溢れ出す。
レオの手が、もう片方の手で彼女の頬を包む。
「お前を手に入れたときは、ただの復讐の道具だったはずだった。……でも今は違う。欲しいのは、お前の心だ。これからは、本当の夫婦として……お前と、生きていきたい」
パメラの胸が、きゅっと音を立てて縮まった気がした。
言葉にならないほどの想いが、いま、自分に注がれている。
そんなこと、思いもしなかった。
けれど今、まるで夢のように──確かに受け取ってしまった。
それなら──。
静かに目を伏せ、再び見上げて。
パメラは、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……レオさま。わたくしも、あなたを……愛しています」
その言葉は、彼に触れられた頬から、じんわりと熱を広げていった。
こんなにも強く、人を想ったのは、初めてだった。
唇が、互いの気持ちを確かめるように重なる。
それは、誰にも強いられたものではない。
契約でも、名誉のためでも、復讐の道具でもない。
ただ、お互いを選んだ者同士の──あたたかく、確かな口づけだった。
唇が離れ、額がそっと触れ合う。
パメラの頬は紅潮し、けれどその瞳はまっすぐにレオを見ていた。
レオは彼女の頬を包む手に力をこめ、低く、深く囁く。
「……もう、誰にも渡さねぇ。お前だけは。この先なにがあっても、絶対に手放さない」
その声は熱を帯び、まるで心の奥から湧きあがってきたようだった。
ひとつひとつの言葉が、まるで誓いのように重く、真っ直ぐにパメラの胸に落ちていく。
「お前がいてくれるだけで、やっと息ができる。……もう、失いたくない」
パメラの瞳が、ゆっくりと潤む。
心がとろけるようにあたたかくなっていく。
「……それは、わたくしの台詞ですのに」
小さく笑いながら、パメラは彼の胸にそっと額を預けた。
レオの心臓の音が、すぐそこにある。
静かで力強い、命のリズム。自分の鼓動と溶け合っていくようだった。
彼の腕が、強く──でも壊れ物を扱うように優しく、パメラを抱きしめる。
彼女の肩に顔を寄せ、そっと髪に口づけを落とした。
「……愛してる。……お前が、俺のすべてだ」
それは、彼にしてはめずらしく素直すぎるほどの言葉だった。
言ったあと、レオはわずかに目をそらし、小さく咳払いする。
「……あー、なんだ。言い慣れてねぇだけだ」
パメラはくすりと笑う。
その声には、嬉しさと愛しさ、そしてほんの少しのいたずらが交じっていた。
「まぁ、レオさまったら……今さら照れるなんて。でも、その不器用なところも──好きですわ」
レオは目を細めて、軽くため息をついた。
「お前はほんと、調子狂うんだよ。……でも、もう慣れた」
「それって、褒め言葉ですの?」
「ああ。最高に、な」
その一言に、パメラの頬がほんのりと色づいた。
ふたりは再び唇を重ねた。
ささやきのような口づけは、やがて静かに深まり、心と心を結び直していく。
春の風がそっと窓を撫でる。
パメラがこの屋敷にやって来てから、ちょうど一年。
ひとめぐりの季節を越えて、また新しい春が訪れていた。
あの日、仮面をまとって踏み入れた場所は、今では帰る場所と心から呼べるようになっていた。
机の上の願い石が、微かに光を受けて寄り添っている。
その石に込めた願いが、遠い日を越えて、今ふたりを結んでいた。
──ここからは、本当のふたりとして。
愛し合い、信じ合い、選び合った夫婦として。
この手を、ずっと離さずに。
これにて完結です。
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