40.あの夏の約束を、いま
王都に春の風が吹き始める頃──。
裁きの場が終わってなお、静かな余波は国中に広がっていた。
ヴェステリア公爵は、王家の管理下に置かれたまま、王都近郊の離宮に保護されていた。
名目こそ「調査協力」だったが、実態は王命による事実上の軟禁処分である。
王家の命を受けた特別審問により、彼の罪状は正式に記録された。
旧貴族派に対する謀略的な粛清、新貴族派内での不正蓄財、そして王命を装った密命行使。
いずれも「反逆未遂」に近い重罪でありながら、彼の過去の功績と、王家自身の一部責任も絡んでいたため、表向きには「健康上の理由による政務引退」として処理された。
だが、内実は違う。
彼はすべての官位と叙勲を剥奪され、貴族会議から除名され、王国史の公記録からもその名を抹消された。
貴族社会における存在の否定──それが、彼に下された裁きだった。
新貴族派そしてその裏には、王家の明確な意図があった。
長らく貴族間の均衡を脅かしていたヴェステリア家の権勢。
新貴族派筆頭として肥大化したその力を、王家もまた内心では危惧していたのである。
──あまりにも肥大化した忠臣の存在は、やがて王権を蝕む。
歴史が何度も証明してきたその教訓に従い、今回の件はまさに“渡りに船”だったのだ。
確かな証言と証拠のもと、堂々と勢力を削ぎ落とす正当な機会として、王家は冷ややかにその手を下した。
こうして表舞台から姿を消した今、ヴェステリア公爵が再び力を得ることはない。
一時代を築いた男の名は、今や語られることすらなく、王都近くの古びた離宮で、ただ静かに、その終焉を迎えるだけである。
一方、ラングリー伯──パメラの叔父は、爵位の不正継承および領政における横領、さらに先代夫婦の死に関する共謀の罪により、断罪された。
貴族籍は正式に抹消され、身分も記録もすべて奪われた彼には、王命により辺境開拓地の労働員という処分が下された。
過酷な地に赴き、食糧と寝床を得るために汗と血を流す日々。
それは、かつて栄誉と権力を手にしていた者にとって、まさしく生きたままの断罪だった。
彼が不正に掌握していたラングリー伯爵家の地位と領地は、王家と貴族会議の裁定を経て、正統な継承者であるパメラ・アッシュグレイヴに正式に引き継がれた。
かくして、ラングリー家は本来あるべき形を取り戻し、新たな時代へと歩み始めている。
そして──ミランダ・ラングリー。
あの裁きの日の後、ミランダは自らの意思でパメラのもとに留まり、ラングリーの名を捨てた。
伯爵家に仕える侍女見習いとして、新たな生活を始めている。
「これは、あなたが自分で選んだ償いの道よ」
パメラはそう言い、彼女を咎めることはなかった。
赦したわけではない。けれど、見捨てることもしなかった。
かつての“高慢なお嬢さま”は、今では静かに礼を学び、慎ましく暮らしているという。
*◆*――――*◆*
レオは、屋敷の書斎でひとり、静かに朝を迎えていた。
窓から、春の陽がやわらかく降り注いでいる。
机の上には、王家から届いた一通の書簡があった。
それは、アシュフォード侯爵家の名誉回復と、彼自身の爵位継承を正式に認める通知だった。
「……レオポルド・アシュフォード、か」
名前を口にしてみても、まだどこかくすぐったい。
八年もの間、心の奥に封じていた名が、ようやく日の下に出た。
「別に、爵位が欲しかったわけじゃない」
ぽつりと呟いたあと、レオは棚の奥からひとつの袋を取り出した。
あの日の前夜に開いたまま、ずっと仕舞い込んでいたものだ。
袋の中には、ふたつのものが入っていた。
ひとつは、父から託された短剣。アシュフォード家の紋章が刻まれている。
そしてもうひとつ──掌に収まるほどの、平たい小石。
石の片面には、子どもが彫ったにしては妙に根気のいる線が残されていた。
翼を持つ獣。どこか不恰好で、けれど力強くて──。
(……願い石)
記憶が、ゆっくりと呼び覚まされていく。
あれは、療養のために訪れていた離宮での、ひと夏の思い出だった。
名前も素性も明かせないあの場所で、偶然出会った少女。
明るくて、朗らかで、笑顔に影ひとつない、屈託のない子だった。
石を選んで、裏と表にそれぞれ願いを込めて彫った。
お互いの名前を聞くことは許されなかったが、それでも心は通じていたはずだ。
(まさか──)
あの少女が、パメラだったのか。
ふと、石を握る指に力が入る。
今、彼の傍らに立つ彼女は、かつての“屈託のない少女”とは遠い姿をしていた。
微笑みの仮面にすべてを隠し、貴族としての気高さと毒を抱えながら戦ってきた令嬢。
あの透明な笑顔を──ずっと、仮面の奥にしまい込んでいたのだ。
(……気づけなかったのも、無理はない)
お互いに、変わりすぎていた。
レオは茶色の髪を黒鉄に変え、小柄な身体は鍛え抜かれた男のものへと変貌していた。
そしてパメラもまた、名家の娘として、素顔を封じたまま生きてきた。
けれど今、手の中にあるこの石だけが、ふたりを“あの夏”と結びつけていた。
──そのとき、廊下から足音が近づいてきた。
「レオさま?」
パメラの声が響く。
扉が開かれると、春の光とともに、パメラが書斎へと現れた。
緋色のドレスが春の光に照らされ、やわらかに揺れる。
「お邪魔でしたか?」
「いや、ちょうどいいところだ」
レオは立ち上がり、彼女に視線を向けながら、思った。
──ようやく、あのとき言えなかった名前を名乗れた。
ようやく、あのとき願ったことの続きを、今ここで確かめられる。
春の陽射しのなかで、ふたりの新しい時間が、そっと始まろうとしていた。




