04.優しい朝に、牙を隠して
朝の光が、部屋の薄いカーテン越しに差し込んでいた。
夜の冷気はすでに消え、室内はほのかに温もっている。
パメラは、静かに目を開けた。
夢も見なかった──だからこそ、現実の重さがしっかりと胸に乗っている。
昨夜、レオは何もせずに立ち去った。
脅されることも、抱かれることもなく。
(毒入りの紅茶など飲めないと思われてしまったかしら?)
口元に、うっすらと笑みがのぼってくる。
そんなことを考えているうちに、控えめなノックの音が響いた。
「……失礼します、奥さま。おはようございます」
恐る恐る扉を開けたのは、若い侍女だった。
昨日までは誰一人見なかった屋敷の使用人。ようやく日常が始まったのだ。
「おはようございます。……まあ、嬉しいですわ。今朝初めて、お顔を見られましたのね」
「は、はいっ。申し訳ございませんっ、昨日は……その、私ども、東棟に詰めておりまして……」
「あら、まあ。ご丁寧にご配慮をいただいていたのですね。ありがとうございます」
パメラはにっこりと微笑んだ。
「わたくし、パメラと申します。お名前を教えていただける?」
「えっ……え、リリィと申しますっ」
「リリィさん。素敵なお名前。今日から、よろしくお願いいたしますね」
パメラがふわりと笑うと、リリィは目を丸くする。
「え、ええっ、もちろんです! よ、よろしくお願いいたします!」
あたふたとしながら、リリィは頭を下げた。
そして、はっと思い出したように顔を上げる。
「あの……お部屋の整えをいたします。シーツも、お取替えを……」
どこか気まずそうに視線を逸らしながら、リリィは寝台へ向かう。
けれど、見ればシーツは整ったまま、乱れひとつない。
「あら……ごめんなさい、驚かせてしまいましたか?」
パメラは穏やかに微笑みながら、そっと口を開いた。
「旦那さま、きっと気遣ってくださったのです。わたくし、昔から体が弱くて……今もまだ痩せておりますでしょう?」
少し照れたように笑って、細い手首をそっと撫でる。
「まずは元気になってから、ですわ。……本当の夫婦になる日を楽しみに、頑張ってまいりますの」
健気な言葉に、リリィの目が潤んだ。
何も聞いていないのに、胸が詰まるような気持ちになったのだろう。
「奥さま……なんて、なんて健気な……」
「ふふ、そんな大層なものではありませんのよ。どうぞ、これからよろしくお願いいたしますわね」
パメラは穏やかに微笑んだ。
リリィがシーツを整える後ろ姿を、パメラは小さく微笑んだまま見つめる。
その目の奥に宿る光だけが、誰にも見せない真実を語っていた。
食堂に入ると、数人の使用人たちが控えていた。
朝の支度に慣れた手付きで動いてはいたが、どこか緊張が残っているのが伝わる。
(なるほど、今朝が初対面というわけですものね)
パメラはそっと息を整えて、花が咲くように微笑んだ。
「おはようございます。こんな朝に、支度をしてくださって……本当に、ありがとうございます」
言葉は柔らかく、けれど真っ直ぐ。
それだけで、ひとりの年配のメイドが目を丸くした。
「まあ……いえ、そんな。こちらこそ……!」
パメラは席に着くと、目の前に並べられた朝食を見つめて、ふわりと頬を緩めた。
「まぁ、なんて贅沢。これほど美味しそうなパン、久しぶりに見ましたわ」
うっとりとしながら、軽く手を叩く。
「このスープも、いい香り……。厨房の方に、お礼を伝えていただけますか?」
自分のために整えられた食卓に、素直に感動してみせる。
それが、最初の一手だった。
最初は控えていた若いメイドたちも、次第に視線を上げるようになり、背筋のこわばりが、少しずつほどけていくのがわかった。
ふと、ひとりの少年召使いが、ナイフとフォークの位置を微調整していることに気づく。
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですわ」
パメラはそっと声をかけて、少年の手元に目を落とした。
「とても丁寧に整えてくださって。……誰に教わったのかしら?」
「えっ……あ、姉に……です。昔、仕えていたお屋敷で……」
「まあ、素敵なお姉さまなのね。きっとご自慢の弟さんだと思いますわ」
言葉はわずかだったが、少年の耳がかすかに赤く染まる。
その様子に、年配のメイドが小さく笑い、まるで空気に温度が灯ったようだった。
(そう。これで、少しずつ)
パメラはナイフを手に取ると、ひと口分だけパンを切った。
口元に運び、微笑む。
「美味しい……本当に、幸せな朝ですわ」
そのひと言が、使用人たちの心に届いたのを、パメラは感じ取っていた。
そして、使用人たちの視線が自然と彼女に集まり始めたその時──レオが黙々と食事を続ける中、パメラはごく自然にその様子へと視線を向けた。
ナイフの動かし方。フォークを口に運ぶ角度。パンのちぎり方まで。
(……やっぱり、あの方は育ちがいい)
粗野に見せかけていても、手先に染みついた作法は嘘をつかない。
けれど、それを表には出さない。
あえて“成り上がり者”でいることで、何かを遠ざけている。
(でも、私は気づいていますわ。──だから、少しずつ近づいてみせます)
朝の光が窓から差し込み、控えめな食卓をあたたかく照らしていた。
そして、使用人たちの中で、ひそやかな囁きが交わされた。
「……お優しい奥さまだな」
「旦那さまも、不器用だけど……あんな方がいれば、きっと」
「奥さまが笑ってくださると、こっちまで嬉しくなるねぇ」
パメラは、そのすべてを“聞こえていないふり”で受け取り、何も知らない顔で、ゆっくりとカップを持ち上げた。
(……まずは、ここから)
静かな朝だった。けれど確かに、この屋敷の空気は──少しだけ変わり始めていた。
*★*――――*★*
食堂に漂う柔らかな空気の中、レオは黙ってスープを啜った。
使用人たちは笑っていた。
ふわふわとした声音で、天然のような微笑を浮かべる“あの女”の言葉に、心を許し始めている。
(違う。騙されるな……あれは、あんな顔をしながら牙を研いでいる)
昨日まで無機質だった屋敷が、今ではほんのり温もっている気がする。
使用人の動きは柔らかくなり、使用人たちの口から出るのは「奥さまはお優しい」「旦那さまは不器用だけど素敵」──。
──それは、いつから俺のことになった?
(やりにくい……!)
使用人たちが彼女と相対してから、まだ一刻も経っていないはずだ。
それなのに、彼女のひとことで、立場がどんどん塗り替えられていくような恐怖を覚える。
(……思い知らせるつもりだったんだ。俺が上で、あいつが下だと。なのに──)
レオはスプーンを置き、目を伏せた。
(まるで、俺が手のひらで転がされているみたいじゃねえか)