39.復讐はふたりで
議場の空気は、冷えた水のように重く澄んでいた。
レオは、壇上に立ったまま会場を静かに見渡す。
その胸には、はっきりとした重みがあった。
名乗った──アシュフォード侯爵家の次男、レオポルド・アシュフォードとして。
それだけで、周囲の景色は一変した。
進行役の高官は動きを止め、傍聴席の貴族たちは息をのみ、そしてヴェステリア公爵の視線がほんの一瞬揺れる。
だが、次に来たのは冷笑だった。
「……名乗るだけなら、誰にでもできることだ」
ヴェステリア公爵はあくまで余裕を崩さない。
その声には、静かな嘲りと警戒が同居していた。
「証拠もなく、名と肩書だけを掲げて正統を名乗るなど、貴族社会では通じぬ理屈だな」
レオは、返す言葉を焦らず、静かに手を挙げる。
進行役がそれを認めると、ゆっくりと懐からひとつの包みを取り出した。
「では、証をお見せしましょう」
布を解くと、中から現れたのはひと振りの短剣だった。
鞘に彫られた紋──それは確かに、アシュフォード侯爵家の家紋。
かつてこの国の政を担っていた名門の象徴。
ざわ……と、会場が小さくざわめく。
誰もが見覚えのあるそれを、決して軽々しく口にはできなかった。
レオはさらに一通の書簡を取り出す。
古びた羊皮紙、精緻な筆跡。
「これは、侯爵家を出る朝、父から手渡されたものです」
進行役がそれを受け取り、王家の高官へと回す。
周囲が息を詰める中、高官がゆっくりと内容を目で追い──そして頷いた。
「詳細は過去の記録と照合する必要がありますが……私の記憶においては、筆跡、印、文面の調子。すべて、当時のアシュフォード侯爵家当主の記録と一致しています」
その一言に、貴族席のざわめきが波となって広がっていく。
それでもなお、ヴェステリア公爵は一歩も退かず、冷ややかに言った。
「──父親からの手紙? 短剣? そんなもの、真似事に過ぎぬ。証言など、仕込んで用意した者を立たせればどうとでもなる」
そのとき。
会場の後方から、ひとりの老婦人が歩み出た。
レオは静かに振り返る。
白髪を優雅に結い上げたその姿は、威圧ではなく誇りで人を黙らせる風格を持っていた。
伯母──アシュフォード侯爵の姉にして、唯一生き残っていた直系。
彼女はまっすぐに壇上を見つめ、そして、朗々と声を響かせた。
「その方こそ、私の弟の次男──レオポルド・アシュフォードでございます」
続いて、数名の親族が立ち上がる。
顔をこわばらせながらも、次々と証言が重ねられていく。
「幼い頃の彼と、ここに立つ青年が同一人物であると、我々は信じて疑いません」
「髪の色は変わりましたが、あの瞳、あの口調……間違いありません」
王家の進行役が、重々しく頷いた。
「証拠に加えて、旧家筋の証言がここまで揃えば──異議の余地はありません」
静まり返る会場。
ヴェステリア公爵の唇が、わずかに引き結ばれた。
だが、それでも言葉は止まらない。
「ならばこそ、その旧家が何を成した? 過去の栄光など、今の貴族社会には通じはせん」
その言葉は、もはや虚勢に近かった。
レオはゆっくりと公爵を見据え、口を開いた。
「──過去の名ではありません。今、こうして目の前で語っているのは、生き残った者の証です」
会場の奥、王家の高官が静かに席を立った。
その一挙手に、空気が再び張り詰める。
「アシュフォード侯爵家の次男、レオポルド・アシュフォード──その身元は、証拠と証言によって立証された」
凛とした声が、会場の隅々まで響いた。
「さらに、ラングリー伯爵家に関する一連の疑義と、先代当主夫妻の死、ならびにヴェステリア公爵の関与について、王家として正式な調査を行うべきと判断する」
ざわめきが、波紋のように広がっていく。
「ヴェステリア公爵、当面の間、王家の保護下にてご同行願います」
衛兵の声が響くと同時に、議場の空気が一層冷たく引き締まった。
王家の旗を背にした騎士たちが、粛々と前へと進み出る。
ヴェステリア公爵は、無言で立ち上がる。
動作は緩やかだったが、足元の一瞬の揺らぎを、レオは見逃さなかった。
それでも彼は、相変わらずの冷静さを装っていた。
唇にかすかに浮かんだ笑みは、もはや芝居ではない。
だが、その笑みがどこか引きつって見えたのは気のせいではないだろう。
「……あの時、お前を拾ったのが……運命だったのかもしれんな」
低く呟いた声には、もはや威厳も重みもなかった。
ヴェステリア公爵はかすかに笑みを浮かべ、虚ろな目で視線を滑らせる。
「──女ひとり、手懐けることもできず……」
薄ら笑いを保ったまま、ねちねちと毒を吐く。
「……所詮、小娘に転がされる程度の器だったというわけだ」
皮肉めいた響き。
だが、その言葉の端々には、隠しきれぬ苛立ちと悔しさが滲んでいた。
「レオポルド・アシュフォード……いや、レオ・アッシュグレイヴ」
レオを睨むように見やり、声を潜める。
低く、陰湿に。
「──拾ってやった恩も忘れて。……餌を与えられた犬のくせに」
押し殺した声だった。
かつて国を動かした重臣の声ではない。
ただ、足下から引きずり落とされた男の、哀れな呻きだった。
「小娘と共謀し……寄生虫のように這い上がってきたか……!」
嗚咽のような憎悪を吐き散らす。
もはや支配者の仮面は、跡形もなかった。
衛兵が無言で近づき、肩に手をかけた──そのときだった。
「──クズどもが……っ!」
とうとうこらえきれず、呻くような叫びが漏れる。
「薄汚い成り上がりめ……! 出来損ないの小娘風情が……っ!」
喉を震わせ、無様にわめいた。
だが、もはや誰もその声に振り返らない。
傍聴席の貴族たちでさえ、静かに目を伏せるだけだった。
「ふざけるな! 貴様らごときが、私を、私を──っ!」
ヴェステリア公爵は両脇を固められ、引きずられるようにして議場を去る。
その背には、名門の栄光も誇りも、何ひとつ宿っていない。
ただ打ち捨てられた残骸──。
かつてこの国を動かした男の、哀れで惨めな末路だけが、そこにあった。
レオは、その背を静かに見送っていた。
王家の高官が進行役に頷く。
閉廷が告げられた瞬間、議場に満ちていた緊張が、まるで潮が引くようにすっと和らいだ。
──静けさが広がっていく。
けれど、それは終わりではない。
むしろ始まりだった。
隣に立つパメラへと、レオは視線を向ける。
その瞳の奥には、まだ燃え残る炎が確かに揺れていた。
この場に導いたのは彼女だ。
その意志と覚悟が、すべての扉をこじ開けた。
そして今──ふたりはようやく、その扉の向こう側に、並んで立とうとしていた。
*★*――――*★*
ようやく、ひとつの幕が下りた。
議場のざわめきが収まらぬまま、ヴェステリア公爵は静かに連行されていった。
その背に、かつての傲慢な余裕はもうない。
パメラは静かに息を吐いた。ようやく終わったのだと、胸の奥で確かな手応えを感じていた。
王家による裁定は、すでに決している。彼が再び力を持つことは、もう二度とない。
今日という日は、そのために積み上げてきたすべてが実を結んだ日。
陰に陽に動かしてきた数多の策が、綻ぶことなくこの瞬間に至ったことに、パメラは確かな意味を見出していた。
パメラは、壇上の一角に佇むレオの姿に目をやる。
その横顔は、誇示でも歓喜でもなく、ただ静かに──誇りを胸に刻む者の顔だった。
自らを賭け金として掴んだ手札は、これ以上ないほどの切り札だった。
両親の仇の黒幕──ヴェステリア公爵。
その名をこの場で明かすには、パメラ一人の力では届かなかった。
誰よりも強く、冷静に、そして正確に時を待ったつもりだったが、それでも自分だけでは叔父の断罪がせいぜいだっただろう。
だが、レオがいた。
アシュフォード侯爵家の名を継ぎ、同じ相手を仇とする男がいたからこそ──この一手は、意味を持った。届いた。貫いた。
パメラがこの場への道を切り拓き、そこに入り込んだレオが、誰より深く斬りつけたのだ。
彼は、たった一度だけ立ち止まりかけた。
彼女の命を守るために、自分の復讐を諦めようとしたのだ。
だが、そのとき彼の背を押したのはパメラ自身だった。
彼の足枷にはなりたくなかった。諦めることなど、できはしない。
だからこそ、進めと伝えた。立てと訴えた。
この復讐は、ふたりのものだったから。
歩みを止めず、仮面を被り、毒を忍ばせながらも笑い続けてきた自分。
その隣で、牙を研ぎながら身を潜めていた彼。
ふたりは今、ついに肩を並べて立っていた。
その事実だけで、胸が熱くなる。
唇に浮かぶ笑みは、ごく小さなものだったが、その瞳には、確かな光が宿っていた。
「……ありがとうございます、レオさま」
誰にも聞こえないほど静かな声だったが、それは彼女の中で、いくつもの感情を結晶させた、たったひとつの言葉だった。




