38.名を告げるとき
控室の空気は張り詰めていた。
議場の混乱が一時中断され、審議の再開を待つ合間。窓の外では、王都の朝が騒がしさを増していた。
ヴェステリア公爵は背筋を伸ばし、椅子に優雅に腰を下ろしていた。
手には一通の写し──パメラ・アッシュグレイヴが提出した、カーソン男爵家から見つかったという書簡の複写があった。
彼女の声は冷静で、怯みもなかった。
『黒幕──ヴェステリア公爵』と告げた瞬間、会場は爆発したように騒然となった。
だが公爵は、揺れなかった。
表面上は。
(愚かな娘だ。口だけならば、誰にでも開ける)
控室の外では、議場に集う者たちがざわめきを交わしている。
ヴェステリア公爵は静かに笑った。
(証拠? 王家? どれほど準備しようが、奴らに決定打は出せまい)
彼は思い出す。カーソン男爵家を潰したときのことを。
あの屋敷は徹底的に調べ上げ、隠し部屋も暴いた。
文書も手紙も──燃やさせた。
なのに、まだ残っていた。
しかも、それを見つけたのが、あの忠犬。
「……まさか、お前が牙を剥くとはな」
ヴェステリア公爵は唇を歪める。
(だが、それだけでは足りん。新興の男爵が吠えたところで、笑い話にしかならぬ)
あの娘が語ったのは、ラングリー家の継承と、両親の不審死に関すること。
確かに、自分が手を回した一件ではある。
だが、現ラングリー伯を切り捨てれば済む話。
暴走した忠義者として処理すれば、いくらでも辻褄は合う。
多少の関与は認めざるを得ないかもしれないが、大した罪にはならない。
問題は、そこではない。
(アシュフォード侯爵家──)
その名が脳裏に浮かんでも、公爵の表情は崩れない。
潰した中でも、最も厄介だった名門。
だが、あの家は既に終わった。
侯爵も、嫡男も、すでにこの世にいない。
生き残りの噂はかつて囁かれたが、証も声もなかった。
証拠となる記録も処分した。家臣筋は地方へ飛ばされ、声を上げることもない。
(告発できる者など、いるはずもない)
自分が支配してきた“秩序”の中に、ほころびはない。
あるとしても、それは容易に繕える綻びでしかない。
「……よくここまで煮詰めてきたとは思うが──甘い」
公爵は紙片を折り、椅子へと腰を下ろす。
背筋はまっすぐ伸び、眼差しはどこまでも静かだ。
扉の外では、議場に戻るよう呼びかける声が聞こえていた。
「罪を問うなどと、軽々しく言うな。──政治とは、誰が最後まで立っているかで決まるのだ」
誰に聞かせるでもない独り言を呟きながら、彼は立ち上がった。
優雅な手付きで手袋を嵌め直すと、何も恐れることなどないというように、控室をあとにした。
*◆*――――*◆*
議場に戻ったとき、レオは自分の鼓動が少し速くなっていることに気づいた。
壇上にはすでに王家の進行役と高官が並び、静まり返った会場がその言葉を待っていた。
目の前に立つパメラの背中が、いつもより少し小さく見えた。
だが、それでもまっすぐに前を見つめる姿勢には、一分の揺るぎもなかった。
──だが、声が上がる。
「正統性の主張は理解できるが、それとて相続争いの域を出ぬ話だ」
「成り上がりの男爵と、由緒だけの娘とが貴族社会を糾弾? 思い上がりにもほどがある」
「誰の許可で、この場に裁きを求めるつもりだ?」
冷笑、嘲り、そして無関心。
次々と放たれる言葉の刃が、議場の空気を冷たく締め上げていく。
──この国で何が真実かなど、問題ではない。
誰がそれを口にするか、それこそがすべてだった。
どれほど正しくあろうと、どれほど覚悟を重ねようと、貴族社会において血統と地位が伴わなければ、その声はただの雑音に過ぎない。
それが、この場に満ちる現実だった。
レオは拳を握りしめる。
それらの言葉が、パメラに向けられていることが何よりも許せなかった。
(……このままでは、すべてが否定される)
この場に立っているのは、ただの成り上がりではない。
過去を捨てて生き延びた生き残り──復讐の業火を胸に抱きながら、名を隠し、血を隠し、牙を研いできた男だ。
(俺がやらなければ、誰がやる。ここで引けば、父の誇りも、兄の意志も、すべて踏みにじられる)
この瞬間のために、生きてきた。
ただの恨みではない。
誇りの名を、嘘と策略で塗り潰された真実を、正すために。
(ここで名乗らなければ、生き残った意味がない)
そして──その傍らに立ち続けてくれた者がいる。
誰にも真実を告げられなかった日々も、仮面を被って芝居を続けた夜も。
パメラは、共に立ち向かい、ときに前に出て庇い、諦めようとしたときは叱咤して立たせてくれた。
(ありがとう。……お前がいてくれたから、俺はここまで来られた)
彼女の声も、正しさも、覚悟も──ただ身分という壁に遮られて、誰にも届かない。
だから、自分がやらねばならない。
そのとき、レオはすっと前へ出た。
壇上を見上げる王家高官と進行役が、彼の動きに注目する。
「……アッシュグレイヴ男爵、何か?」
レオは一礼し、静かに言った。
「──この場を借りて。ある名を名乗る必要があります」
会場に満ちていた嘲笑が、ぴたりと止んだ。
レオはゆっくりと壇の中央に進み出る。
その歩みは静かで、だが誰の目にも抗えぬほどの確かさを持っていた。
壇上の中央、すべての視線が集まる場所に立ち、深く息を吸う。
──この一言で、全てが変わる。
「私は、アシュフォード侯爵家の次男……レオポルド・アシュフォードです」
爆発したかのように、会場がざわめいた。
誰かが息をのむ音。椅子が軋む音。思わず立ち上がる者の気配。
進行役が驚愕の表情で彼を見つめ、高官たちが顔を見合わせる。
ヴェステリア公爵の瞳がわずかに揺れた。
だが、レオはその全てを正面から受け止めた。
「……この名において、私はここにいるすべての者に問います」
静寂が、再び場を覆った。
レオの声音は落ち着いていたが、その背に宿る意思は誰の目にも明らかだった。
高く掲げられた王家の紋章すら、彼の言葉を黙して聞いているように思える。
「貴族の名誉とは、何によって測られるのか」
誰かが、小さく息をのむ。
その問いは場にいた全ての者に、そしてレオ自身に突きつけられていた。
「秩序を築くとは、誰を守るためのものなのか」
その声に、壇上の空気が明らかに変わった。
重く、鋭く、そして静かに──会場全体が、これまでとは違う色を帯びはじめていた。
「私は、かつて反逆者の一族という汚名を着せられ、すべてを奪われた。父と兄は処刑された」
声の裏には、深い静寂と、拭えぬ記憶の影があった。
幼い日の最後の夜──レオは、家族の手で密かに逃がされた。
病死を装って、屋敷を離れた十五の少年。
その背に託されたのは、生き残れという願いだった。
「だが、それは真実ではなかった。策略と偽証によって塗り潰された濡れ衣だった」
壇上の誰かが、喉を鳴らした。
驚愕と戦慄。そして、否応なく突きつけられた歴史の再来。
「私は生き延びた。そして今、ここに立っている」
その言葉が落ちた瞬間、議場の空気が凍りついた。
名誉を、誇りを、家族の命を奪われた男が──そのすべてを背負って今、告発者としてこの場に立っている。
王家の高官が立ち上がり、沈痛な面持ちで進行役に何かを告げる。
その視線は、もはや軽んじるそれではなかった。
レオの声が、最後にもう一度、場に響き渡る。
「──アシュフォード侯爵家の名において、ヴェステリア公爵を告発する」




