34.忠誠の書状に牙を忍ばせて
書斎には、灯火の明かりだけが静かに揺れていた。
レオは羊皮紙を前に、万年筆を指に転がしながら、低く呟く。
「まずは……“夜会の混乱について弁明申し上げる”……か。これは、形式として必要だな」
「ええ。ですが、謝罪に徹しすぎないことが重要ですわ。あくまで、損なわれた秩序を取り戻すために動いている──そう見せなくては」
パメラの声に頷きながら、レオは新たな一文を口に出した。
「“現ラングリー伯爵家の混乱は、貴族社会全体にとって由々しき事態であり──”」
彼はそこでペン先を止め、顔をしかめる。
「……いや、もっと踏み込んでいいな。“現ラングリー伯爵家が貴族としての体をなしていないのは、すでに明らかでしょう”」
「そう。“崩壊している”とまで書いて差し支えありませんわ。公爵ご自身が不要と見なした旧貴族に、追い打ちをかけるだけの文言ですもの」
レオの口元がわずかに緩む。
「続けるなら……“ゆえに、正当な継承者である妻の立場を再考すべきと考えます”──でどうだ?」
「悪くありませんわ。“わたくしがふさわしい”とは書かずに、“再考すべき”とぼかす。それが、実にあなたらしい下劣さです」
「褒めてんのかそれ……」
パメラは紅茶を口に含み、無言で微笑んだ。
レオは咳払いひとつ。
「“私がラングリー家の娘を娶ったのは、伯爵家を取り込む意志があったからです”」
「……まさか、本当にそうだったんじゃなくて?」
わずかに冗談めかしたパメラの声音に、レオの手が止まる。
だが、それに答えることなく、彼は続けた。
「“すでにこの家は見切りをつけるべき段階にある。ならば、娘を娶り、使える部分だけ引き継げばよい。そう考えた次第です”……これでどうだ」
「まるで、わたくしが踏み台のように聞こえますわね」
「踏み台にされてるんだろ? いまこの芝居じゃ」
「ご名答ですわ」
レオは目を伏せ、次の言葉を探す。
「“しかし、妻が野盗に襲われ、負傷いたしました”……このあたりか」
パメラの視線が、包帯を巻いた自身の肩へ向かう。
──命を餌にした代償。ならば、釣り上げる価値はある。
「“正当な爵位が得られれば、それも慰めとなるでしょう。妻は本来、正統な後継者でした。にもかかわらず──その地位は、叔父によって奪われたのです”」
「両親の死や、復讐には触れないように」
「……ああ。感情の問題は、今回は伏せる。あくまで、地位を求める夫婦という面を押し出す」
ペン先を止めて、レオはパメラを振り返る。
「“この件について、貴公の後押しを賜れれば幸甚に存じます”……最後に、そう締めていいか?」
パメラは一度、目を伏せて、ゆるやかに微笑む。
「ええ。あなたの文面として、これ以上ない下心の塊ですわ」
レオがペンを走らせながら、ひとことだけこぼした。
「……これで、あの男が釣れるなら安いもんだ」
その横顔を見ながら、パメラは静かに息を吐いた。
「ええ。ですが、油断なさらないで。……一度かかった魚は、二度目には餌を見極めます。今度は、針を飲み込んでもらうつもりで」
夜の帳が静かに落ちていく中で、二人の芝居は着々と幕を上げようとしていた。
*◆*――――*◆*
漆黒の書斎には、焚かれた香の煙がゆるやかに揺れていた。
窓の外はすでに夜。だが、男の動きに焦りはなかった。
ヴェステリア公爵は深紅の封蝋を指先で崩し、手紙を取り出す。
羊皮紙の質は粗野、筆跡は癖が強く、文面の構成も決して洗練されたものではない。
──だが、それゆえに「狙い」はわかりやすい。
男の唇が、かすかに歪む。
《夜会の混乱、まことに遺憾に存じます。早急に秩序の回復に努めておりますこと、まずはご報告申し上げます──》
「……挨拶代わりにしては、骨のある言い回しだ」
目を細めながら読み進める。
《現ラングリー伯爵家が貴族としての体をなしていないのは、すでに明らか。混乱の元凶ともなれば、早急な対処が必要かと存じます》
《ゆえに、正統な継承者たる妻の立場について、再考の余地があるのではと──》
鼻で笑った。
再考の余地。まるで、使い古された商談の常套句。だが、そこに込められた意味は明確だ。
(なるほど。伯爵位を狙っているか)
少しも隠す気のない野心。
妻の出自を踏み台に、さらに上を狙う──成り上がりの常套手段。
《私がラングリー家の娘を娶ったのは、伯爵家を取り込むため。娘が使えるなら引き継げばいい。そう考えた次第です》
「下劣だな。……だが、正直でもある」
手紙を置き、ゆっくりと指を組む。
この手の男は、嘘をつかない。少なくとも、「自分が生き残るための嘘」は。
《妻が野盗に襲われ、負傷いたしました。正当な爵位が得られれば、それも慰めとなるでしょう》
《妻は本来、正統な後継者でしたが、その地位は叔父によって奪われてきました》
《この件について、貴公の後押しを賜れれば、幸甚に存じます》
「……ははっ」
声にならない笑みが漏れた。
こちらが放った刺客の一手が、見事に反転して戻ってくるとは。
この男は気づいているのだろう──妻を狙ったのは自分だと。
それでも、報復も怒りも表には出さず、「取引」として差し出してきた。
(面白い。命を賭けて、駒の位置を変えるか)
アッシュグレイヴ男爵──レオか。隣国の没落貴族出身と聞いていたが、なるほど一度すべてを失った者らしい。
上昇志向と、生き残るための打算。使いどころを誤らなければ、これほど便利な駒もない。
下劣で、卑劣で、狡猾。
だが──使える。
何より重要なのは、「裏切らないこと」だ。
誇りも理想もなく、ただ利益だけを見て動く者は、裏切らない。
報酬がある限り、命令に従う。それこそが、理想の道具。
「……忠犬か。見返りさえ与えていれば、牙も噛ませはせん、というわけだな」
灯火の揺らめきのなか、公爵は手紙を折り直し、書類の一番上に丁寧に置いた。
瞳の奥には、わずかな愉悦と、慎重な警戒。
「いいだろう。踊るなら、役を与えてやる。……その代わり、せいぜい美しく踊れよ、アッシュグレイヴ男爵」




