33.幕が上がるのは、反撃の劇
紙の束を広げた机の上には、重い静けさが落ちていた。
執務室の灯が、夕暮れの余光と混ざり合いながら、文字を淡く照らしている。
レオは視線を落としたまま、羊皮紙を一枚一枚、丁寧にめくっていた。
記録された取引、私的な資金の流れ、名義の書き換え、そして──ヴェステリア公爵の名。
「……十分すぎる」
そう呟くように言った声には、手応えと警戒の両方がにじんでいた。
「公に出せば、打撃は避けられない。黙殺も、火消しも……間に合わねぇ。しかるべき場で出すことさえできれば──勝てる」
その言葉を聞きながら、パメラはそっとティーカップを置いた。
蒸気はすでに薄く、茶葉の香りも冷えていた。
「レオさま」
穏やかに、けれどその声は芯を含んでいた。
「……先ほどの提案、お受けしようと思いますの」
レオの眉がわずかに動いた。
「ただし、わたくしが望むのは“復讐”ではなく、“ラングリー伯爵の地位”ということにしようと思いますの」
「どういうことだ?」
「わたくしは両親を葬った叔父に対する復讐のために動いていた──そう見せかけて、真の狙いは自分がラングリー伯爵として地位を得ること。つまり、復讐は手段に過ぎない。地位が得られるのならば、それでよいということにするのです」
「……なるほどな。復讐を踏み台にして地位を狙う──そう見せかけるわけか。だったら、公爵も使い勝手のいい女としか思わねぇ。……そっちのほうが、よほど危なくないな」
レオは腕を組んだまま、視線をパメラから資料へと落とす。
無造作に見えて、その眼差しは冷静な観察を伴っていた。
「なら……どう使う? この証拠も、あの男も。全部、どの舞台で裁くつもりだ?」
パメラは、椅子からそっと身を乗り出した。
長い睫毛の陰から、冷えた光を帯びた眼差しがレオに向けられる。
「叔父を糾弾する場を調えていただきますわ。……できれば、王家の目が届く公的な場で」
「王家を巻き込むのか」
「ええ。ヴェステリア公爵が逃げられないように。そして……王家がまったく何も知らないなんてあり得ませんわ。でも、見ないふりをしてきた。──もう目を背けられないと突きつけるのです」
パメラの声は静かだったが、その響きには冷たい確信が滲んでいた。
「最近、いくつかの法案が不自然に棚上げされています。公爵派に押されていたはずの旧貴族の動きにも、少しずつ変化が見え始めている。……おそらく、王家の内部でも均衡が崩れすぎていることに気づいているのでしょう」
レオがわずかに目を細めた。
「つまり、王家にとってもきっかけがほしいと?」
「ええ。あの公爵に対して、公式に口を出す理由が。──それが、わたくしたちの場になるのです」
パメラの言葉に、レオはしばし沈黙したまま、視線を資料に落とす。
「……確かに、均衡が崩れすぎてる。正義の名を借りて、あの男の影響を削ぎたいと考えてる奴らがいても、おかしくねぇな」
「ええ。けれど、王家は軽々しく動けませんわ。明確な証拠と世論の後押し、そして誰かの責任が必要になる」
パメラは静かに紙束に指をかける。その手に、迷いはない。
「そのすべてを、この場で揃えるのです。叔父の告発はそのための布石。──最初から、あの方にとってラングリー伯など、切り捨てられる札でしょう」
「だが、その札の裏に公爵自身の名が書かれていたとしたら……」
「公に出す意味があるということですわ。公爵の名が罪を被る者に直結していたとすれば、どれほど否定しても、そこに疑念の影は残ります」
レオが椅子の背に凭れ、息を吐いた。
「……王家との橋はどうする? 声をかけても無視されりゃ、それで終いだ」
「方法はあります。──マルトン夫人の人脈」
その名を聞き、レオの目がわずかに細められる。
「……あのババァか」
その言いぶりに、パメラの口元に微笑が浮かぶ。
「ええ、あの方。公爵に恨みを抱く者の一人。わたくしの背後に“新たな力”がついたと見せれば、彼女はきっと動いてくださいます」
「……ああ、たしかに。あの人脈なら、王家の一角に通じててもおかしくねぇ」
「王家に直接届くのは難しくとも、目に入る場所に立つことはできます。その場で“告発”が起き、王家の耳にも届いたという既成事実を作る。それで充分ですわ」
パメラの声は静かに、しかし力強く響いた。
「まずは、ラングリー伯の告発を調えましょう。正式な場を設け、そこで地位を狙う若い夫人として、叔父を差し出す。──忠誠を演じるのです、ヴェステリア公爵に向けて」
「そして、その場で本当の告発に切り替える。……公爵の名を晒す、と」
「ええ。その場に王家がいれば、なお良し。王家の前で行われた背信とあらば、もはや隠しようがありませんわ」
レオが苦笑交じりに視線をそらす。
「……まったく。性格が悪くなきゃできねぇ芸当だ」
パメラはカップを持ち上げたまま、優雅に首を傾ける。
「まあ、そんな性格の悪い女を、お側に置いておきたいと望まれるなんて……レオさまも、ずいぶんと変わり者でいらっしゃいますのね」
ふんわりとした声音。けれど、その奥には、芯の通った気配が確かにあった。
レオは一拍遅れて、少しだけ口元を緩めた。
「……ああ、間違いなく、変わっちまったよ」
互いにそれ以上は言わなかった。
けれど、静かな灯の下で交わされた視線は、どんな言葉よりも確かな絆を伝えていた。
互いに、愛しく想っている。
それを、もう誤魔化すことも、否定することもできなかった。
けれど──今はまだ、その想いに手を伸ばすべきではない。
胸の奥でそっと灯った火を、静かに、けれど大切に守りながら、ふたりは同じ覚悟を交わしていた。
すべてが終わるそのときまで。
この想いは、封じておく。
愛しさも、願いも、今はまだ、隠しておく。
パメラは視線を戻し、もう一度紅茶に口をつける。
「──始めましょう、芝居の幕を。王家が観劇なさるのなら、多少の脚色も楽しんでいただかなくては」
その声には、微かな寂しさと、静かな誇りが滲んでいた。




