32.静けさの奥に眠るもの
沈黙の中で、パメラはそっとレオの横顔を見つめた。
ほんの少し前、自分が「怖い」と口にしてしまったことを思い返す。
あんなふうに弱さをさらけ出したのは、いつぶりだっただろうか。
その言葉を否定されるのではないかという不安は、まだ胸の底に残っていた。
けれど──レオの沈黙と、その手の震えが、その不安をやわらげてくれる。
否定されなかった。それだけで、息が少しだけ深く吸える気がした。
レオは目を伏せ、拳をひとつ握ったまま言葉を続けた。
「お前は両親を葬った相手に復讐したかった。──そう言えばいい。それが、現ラングリー伯だとわかったから、そいつに報いを受けさせようと動いていた、と」
パメラの瞳が、静かに揺れる。
「……それを、誰に向けてですの?」
「ヴェステリア公爵に、だ」
その名が出た瞬間、空気が張り詰めた。
「“仇である叔父に対する復讐”で動いたのだと説明すれば、公爵も納得はする。ラングリー伯なら、簡単に切り捨てられる駒だ。……あいつが本気で守る相手じゃない」
パメラは目を伏せて、ゆっくりと息を吐いた。
「……つまり、そうやって“話を終わらせろ”と?」
「そうだ。“仇は叔父”だけで終わらせれば、向こうは深追いしない可能性がある。少なくとも、今すぐ処分するべき存在とは見なされない。……それで、助かる」
レオの言葉の端には焦燥がにじんでいた。
彼は心底、パメラを守りたいのだ──そのことは痛いほどに伝わってくる。
だからこそ、次の言葉が、静かに重く響いた。
「……それでお前が生き延びられるなら。たとえ公爵に従ったふりをしてでも、お前が無事にいてくれるのなら──俺は、復讐を捨ててもいい」
パメラの目が揺れる。
彼の言葉は本心だった。憎しみを捨てても、彼はパメラの命を選ぶ。
その覚悟が、痛いほどに伝わってくるからこそ──。
言葉にするのは、少し怖かった。
さっき見せてしまった弱さに、またすがってしまいそうだった。
けれど、それではいけない。
パメラは知っていた。彼の隣に並ぶには、逃げない強さがいるのだと。
「……レオさま。それは逃れる手段ではあっても、答えではありませんわ」
パメラの声は静かで、確かだった。
彼の気持ちが嬉しくないはずがない。けれど、それは違うと、はっきりと感じていた。
「わたくしのために、あなた自身を曲げるような真似は、どうかしないでください。わたくしが……信じたのは、そういう方ではなかったから」
レオが、言葉を失ったように目を見開く。
パメラはゆっくりと微笑んだ。
「あなたの復讐は、わたくしの願いでもあるのです。それは、わたくしの命の代償で潰えさせるべきものではありませんわ」
レオの肩がわずかに揺れる。
彼女の言葉が、真っ直ぐに胸を射抜いたのだ。
「たとえ今、それでやり過ごせたとしても……一度刻まれた疑念は、消えません。あの方は、疑わしいと見なした者を、必ず追い詰める」
「……それでも、時間を稼げるかもしれない。逃げ道だって──」
「いいえ。いつ消されるかわからないという恐怖のなかで、ただ日々を繋ぐだけなんて……そんな生き方、わたくしにはできません」
震えそうになる手を必死に抑える。
「──恐ろしくないはずがない。でも、それ以上に、失われたものを無かったことにはできませんわ」
パメラはレオをまっすぐに見据える。
包帯の下、薄く疼く痛みが、自身の決意を思い出させるようだった。
「たとえ復讐ではなくても。わたくしは真実を追いたい。……両親が何を遺し、誰に奪われたのか。それを知ることだけは、諦められませんの」
レオは答えなかった。
窓の外では、夕陽が静かに沈んでいく。
静寂が、二人の間に漂っていた。
「……どうして、そうも真っすぐに進めるんだ」
低く絞るような声だった。
責めているわけではない。けれど、どこかで「やめてほしい」と願っているような響きがあった。
パメラはそっと、目を伏せた。
「いいえ。真っすぐではありません。わたくしは──ただ、忘れたくないだけです。あの春、すべてが奪われた日のことを」
しばしの沈黙が落ちた。
外では、茜の光が山の端へ沈みかけていた。
そのとき、廊下の奥から急ぎ足の気配が近づく。
扉の外でノックが響き、リリィの声が重なった。
「奥さま……!」
「どうかしました?」
パメラが顔を上げると、リリィがやや息を切らしながら扉を押し開けた。
「ミランダさまが……あの、お部屋に勝手に入り込んで……!」
「お部屋……?」
「陽の間に、です。中で戸棚を開けたり、家具を引きずったり……。止めようとしたのですが、全然聞き入れてくださらなくて」
パメラとレオが顔を見合わせる。
レオが立ち上がりかけたが、パメラは小さく首を振った。
「わたくしが行きますわ。……少し、落ち着かせてきます」
陽の間の扉を開けたとき、パメラは一瞬、別の誰かの部屋に入り込んだかのような錯覚を覚えた。
そこにいたのは、いつものように虚勢を張るミランダではなかった。
白いクッションが落ち、棚の引き出しがいくつか中途半端に開いている。
ドレッサーの扉もずらされ、中の小箱がいくつか飛び出していた。
そして、その中心で──ミランダはうずくまっていた。
まるで誰にも気づかれずに、ここに逃げ込んできたかのように。
「ミランダ……?」
パメラが静かに声をかけると、びくりと肩が震えた。
振り返ったその顔には、涙の跡が乾きかけている。
「……ごめん……ごめんなさい……」
その声は、か細く震えていた。
「何をしていたの?」
「……わかんない。気がついたら、ここにいたの……誰もいなくて……静かで……」
視線は宙をさまよい、まともにパメラを見ることもできない。
「……隠れる場所、探してたの。お父さまが、あたしを……って思ったら、どこかに……隠れないとって」
指先はまだ、引き出しの端をかすかに握ったままだった。
パメラはゆっくりと部屋に入り、しゃがんで彼女の目の高さに視線を合わせる。
「もう、大丈夫。……ここには、誰もあなたを追ってきません」
その声に、ミランダの顔がわずかに歪んだ。
安心と絶望が入り交じったような、不安定な表情。
「本当に……?」
「ええ。わたくしが、ここにおりますもの」
ミランダは、その場に崩れるように座り込み、顔を伏せた。
もう反抗的な気配はなかった。
ただ、疲れ果てた子どものように、放心したまま力なくうなずいている。
パメラは小さく息を吐き、立ち上がって室内を見渡した。
白いクッション、開け放たれた引き出し、床に落ちた装飾品の数々。
乱されはしたが、そこには明確な意図のある探索ではなく、感情に任せた混乱の痕が残っていた。
「奥さま……」
背後からリリィの声が聞こえる。控えめに扉を開きながら、様子を伺うように入ってきた。
「リリィ。ミランダは少し落ち着いたわ。……ありがとう」
「いえ、それよりも……」
リリィが小さく息を呑んだ。
「この引き出し……少し前に、ミランダさまが強く引いて、音を立てたのですが……そのとき、妙な響き方をしていたような……気がして」
パメラは顔を上げ、リリィの指差す棚に目を向けた。
中途半端に開いたままの引き出し──普段は手をかけることのない、壁際の一段だった。
パメラがしゃがみ込み、指先で引き出しの内側をなぞる。
木目の奥、板の隙間に、わずかに不自然な段差があった。
その瞬間だった。
リリィが、懐かしさに染まるように目を見開いた。
「……あっ」
その声に、パメラが振り返る。
「どうかしたの?」
「思い出しました……。わたくし、小さいころ、このお部屋に時々通っていたのです。前のご当主の奥さま──カーソン男爵夫人に、よくここで紅茶をいただいていて……」
リリィの指が、おずおずと引き出しの奥をなぞった。
「あるとき──夫人が言っていたのです。“大切なものは、見えないところにあるものよ”って。……わたし、そのときは奥さまの言葉遊びかと思っていたのですが……この引き出し、たしか、そのあと触らせてくださらなかった気がします」
パメラは視線を引き出しに戻し、改めて指先で内側を押し込む。
すると、カチリと乾いた音がして、奥の板がわずかにずれた。
パメラは慎重に板を引き抜いた。
そこには、小さな木箱が収まっていた。布に包まれたそれをそっと取り出し、床に膝をついたまま、ゆっくりと蓋を開ける。
中には、古い羊皮紙の束が整然と納められていた。
その一番上の紙面に──見覚えのある紋章と、“ヴェステリア”の名が、記されている。
「……これは」
パメラは震える指先で紙を持ち上げた。
その瞬間、胸の奥で何かがじわりと熱を帯びる。
事業契約の記録、資金の流れ、賄賂の示唆、そして“誰が”“何を”見返りに与えたのか──読み取れるだけの情報が、そこに詰まっている。
何枚もめくるうち、確信が強まっていく。
これこそが、“本当に遺された記録”だった。
「……最初の隠し部屋は、囮だったのね。おそらく……最初から見つかることを前提にしていた。けれど、本当に伝えたかったものは、ここにあった」
パメラの瞳に、静かに光が宿る。
この重みは、ただの紙束ではない。命をかけて遺されたもの──それは、感じ取れる。
「カーソン男爵夫人……あなたは、ここに全てを託してくださったのですね」
リリィがそっと唇を引き結び、声を落として頷いた。
「……あのとき、“いつか本当に必要な人が見つけてくれるといいわ”と、仰っていました。あれは……このことだったのかもしれません」
パメラは深く息を吸い、箱の蓋をそっと閉じた。
「これがどこまで通用するかは分かりません。ですが──もう、何もせずに怯えているわけには参りませんわ」
彼女の背筋には、かすかな痛みとともに、確かな覚悟が宿っていた。




